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しばらく町を歩いてみたけれど、やっぱり誰にも会わなかった。鳥すら見かけなかった。ただ、一度だけ見かけた人影が気になる。
「ただいま」
部屋に入ると、京香ちゃんはすでに泣き止んでいた。頬に涙の痕が残っているけれど、その瞳には力が戻っていた。
「おかえり、タク」
「おかえりなさい、拓さん」
部屋にはちゃぶ台が出され、お茶が準備されていた。すぐに京香ちゃんが、ぼくの分も出してくれた。
「ありがとう」
「うん」
どこかぎこちない空気のまま座る。
話の切り出し方がわからない。リゼと出会うまで、ぼくは平凡な学生でしかなかった。こんな深刻な空気になることもなかったし、ましてや異世界に来たことなんてなかった。誰かに説明責任を突きつけたこともなかった。ただ、どうしても聞いておきたいことがある。
「京香ちゃん、一つだけ、どうしても聞いておきたいことがあるんだけど」
「うん」
京香ちゃんは緊張した――いや、萎縮した表情でぼくを見ていた。怒っていると思っているのかもしれない。
「宗次は、どこにいるの?」
京香ちゃんの目は見開かれ、ぼくの質問に驚きをおぼえていた。
「お兄ちゃん……いないの?」
とても弱弱しい声。それはまるで、宗次がこの場所にいないことが信じられないと言っているようだった。
「やっぱり……いないんだ」
「京香ちゃん、やっぱりってどういうこと?」
「お兄ちゃんはいつも働いてるから、遠くにいたんだと思う。この町から出てたら、この世界には入れないから」
ということは、宗次は京香ちゃんの意思でこの世界にいないというわけではないのか。
「ねえ、キョウカ」
「……?」
「この世界って、外から入って来れないの? 例えば誰かがこの世界に気づいて、とか」
真っ先に思い浮かんだのは、宗次と黒木さん。
「お兄ちゃんなら入ってこられるよ。あたしたちは同じだから」
「今日は宗次、何時まで仕事なの?」
もしかしたら、そろそろこの世界の存在に気づくかもしれない。
「今日は帰ってこないよ。明日の早朝に戻るって言ってた。仕事の後に仕事仲間のおごりで飲みに行くんだって。お兄ちゃんは飲まないけど」
一応十六歳だし。
そんなことより、ということは外からの干渉はないってことか。
「ていうか、今何時だ? 十時くらいにはなってるんじゃ……」
「時間まではさすがにわからないよ。感覚で感じるしか。ねえ、拓さん、外に出たいなら今からでも出られるよ?」
「でも、今出たら京香ちゃんは一人になるじゃないか」
文字通り、一人。独り。誰もいない世界の中で、ただ独りだけ存在する。それはこの上ない孤独だ。そんな苦しい思いを京香ちゃんにはしてほしくない。
「京香ちゃん、京香ちゃんは存在する力さえ戻ればこの世界から出られるんだよね?」
「う、うん」
「え? タク、心当たりあるの?」
「いや、ない。けど、何かあるかもしれないだろ? それを考えるんだ」
一度だけ見かけた人影も気になる。
「ぼくはもう一度外に出てくるよ」
「え?」
と、京香ちゃんが声を上げる。
「リゼは京香ちゃんと一緒にいてあげて」
「うん」
二人を残して部屋の外に出る。アパートの敷地から出て、ふと曲がり角に目が行くと、また人影を発見した。
「待って!」
影のほうに走る。
角を曲がると、その人物はぼくに背を向けて立っていた。
「やあ、虚構を殺す者」
ぼくを振り返ることなく、その人物は言う。
「よお、リンクス。どうしてここにいるんだ?」
ここは京香ちゃんに選ばれた、この世界にいてもいいという『許可』を得た存在しか入られないはずだ。
「ぼくは〈旋風に生きる者〉。風に異変が起きれば、すぐにわかる。次元変異の気配を感じ、さらにその中に、ぼくが知っている気配があったから、入ってきてみた」
「気配って、そんなのわかったのか? というか、どうやって入ってきたんだよ」
「まあ、風が教えてくれただけだから、実際に気配を感じたわけじゃない。どうやってと聞かれても、入り口と思われる裂け目から堂々と」
滅茶苦茶だ、この子。なにがと聞かれても困るけれど、ぼくが今まで会った虚構の中でダントツだ。
「この世界を作った本人は、外部からは入ってこられないって言ってたけど」
「それはこうして完成してからだと思う。現にぼくは、こうして入っているわけだから」
「そう言われればそうだよな」
こいつに対しては、どんな小細工も通用しないのかもしれない。
「で、虚構を殺す者。ぼくを呼び止めて何の用だ?」
「何の用ってお前……あ、頼みがある」
「嫌だ。ぼくはこんな世界を創り出し、その上、無関係の人間を巻き込むような奴を助けたりなんかはしない」
無関係な人間。それに自分が含まれていないことは、リンクスの声からわかった。
「……知ってるんじゃないか」
「どうしてこんな世界を作ったかまでは知らないが、こういう世界を作るとなると異常としか言い様がない」
「こんな世界を作らなくちゃいけないほどまで、追い詰められた子がいるんだよ!」
「必死だな」
どうでもよさそうに、リンクスは言う。
「当たり前だ!」
「大切なのか?」
「ぼくの妹みたいな子だよ! ……家族なんだ」
正確には違うけれど。だけど、ぼくにとってあのアパートの住人は、家族のような存在だ。
「……確認したいことと条件がある」
「なんだ?」
どんな条件でも飲んでやる。京香ちゃんを助けられるなら。
「お前の住んでいるアパート、部屋は空いているか?」
どんなことを聞かれるのか、いささか不安な気持ちで待っていたぼくに届いたのは、そんなよくわからない質問だった。
「あ、ああ。ニ部屋空いてる」
アパートに空き部屋があることが重要になってくるのだろうか。けれど、リンクスの言葉はまたぼくの予想を裏切るものだった。
「ぼくをアパートに住ませてくれるなら、その『妹みたいな子』とやらを助けよう」
「そ、そんなことでいいのか?」
もっとこう、ほかにないのか?
「駄目か?」
その「駄目か?」と聞く声が、どこか寂しげだった。
「い、いや、そんなことはない! いや、ぼくの一存じゃ決められないけれど、リンクスが助けてくれるなら、最大限の努力をする!」
「なんだ? 飲めないのか?」
「そういうわけじゃない! こう……人間社会のしがらみだよ!」
「……納得した。案内よろしく」
「あ、ああ! こっちだ!」
といってもすぐそこだ。一つ角を曲がり、三分と歩かないうちに部屋に入った。
「おかえり、もの凄く早かったね……って、リンクス?」
出迎えてくれたのはリゼで、奥で京香ちゃんが、驚いた表情でこちらを見ていた。
「久しぶりだな、鮮血に生きる者。虚構を殺す者の妹のような存在を助けに来た」
「へ?」
「だあ! リンクス、余計なことを言わなくていい!」
リンクスは不思議そうにぼくを見上げていたけれど、すぐに部屋の奥にあがりこんでいった。
「え? あの……」
突然目の前まで歩いてきた、同年代のように見える少女に対し、京香ちゃんは戸惑いの声を上げる。
「ぼくは〈旋風に生きる者〉。虚構を殺す者に頼まれ、お前を助けに来た」
「え? あたし?」
その時、京香ちゃんがぼくに向けた視線は、なぜかとても悲しげだった。
「え?」
しかし、京香ちゃんはすぐにぼくから視線を外し、リンクスのほうを見た。
「あたしの存在する力、戻してもらえるんですか?」
「ああ」
短く答え、リンクスはぼくたちに向き直った。
「二人はちょっと外に出ていてもらいたい」
「えっ!」
と、声をあげたのは京香ちゃんだった。
「できるだけ他人には見られたくない。安心していい。ぼくは〈旋風に生きる者〉。決して虚構を殺す者の妹のような存在――いや、虚像なる者、お前を傷つけるようなことはしない」
リンクスはそう言ったけれど、初対面の相手にそんなことを言われたからといって、すぐに信用することもできないといった、京香ちゃんの表情だ。しばらく逡巡した後、京香ちゃんはゆっくりとうなずいた。
「うん。じゃあ、二人は出ていてくれ」
「あ、ああ」
後ろ髪引かれる思いで部屋を出、それでもリンクスならなんとかしてくれるだろうと、どこか確信に似たものを感じていた。
「大丈夫かな? キョウカ」
「安心しろって。リゼだってリンクスに助けられたときは一人だったじゃないか」
その時のことを思い出したのか、リゼはうーん、とうなった。
「そうなんだけど……」
「あいつは嘘はつかないよ。リンクスは自分の言葉に誠実だから」
突然学校にやってきて、ぼくたちに話しかけてきたあの時も、リンクスは一切の嘘を言わなかった。嘘になるようなことも言わなかった。
「タクはあの子のこと、信じてるんだね」
「ああ。まだ会って間もないけどね。でも、不思議と信じられるんだ」
それが〈旋風に生きる者〉の特性なのかもしれないな、なんて思ったりもする。あらゆるものに束縛されず、自分の意思によって行動する種族。
「じゃあ、信じることにするよ。わたしも助けてもらったしね」
リンクスには助けてもらってばっかりだ……。今度、何かお返しでもするとしよう。今回の条件とは別に。




