7
人影京香。
人影宗次。
兄妹にして、鏡の向こう側。
概念個体。
それが一体どういうものなのか、ぼくには理解できていない。わかることは、宗次と京香ちゃんは、本当に似ているようには思えないのに、似ていると思ってしまうということだ。話し方も、仕草も表情も、何から何まで違うのに、ぼくは彼らが似ていると感じてしまう。
それが鏡の向こう側ということなのか、ぼくにはわからないけれど。ぼくの感覚として、それで十分だと思う。
「京香ちゃん?」
京香ちゃんは部屋の真ん中で、幽鬼のように立っていた。
「…………拓さん」
力ない声。生気が感じられない。さっきまでは顔色はともかく、声には力があったのに。
進まない時間が、関係しているのだろうか。
「黒木さんは?」
「……『ここ』にはいないよ」
あの人……京香ちゃんを置いてどこに行ったんだ。
「キョウカ、ちょっと辺りの様子が変なんだけど、何かなかった?」
何かあったのだろう。そうでなければ黒木さんはいなくならないだろうし、京香ちゃんだって、生気なく立ちつくすことなんてない。
「反転世界」
「え?」
「反転世界って言ってわかるかな? リゼさんも拓さんも、並行世界は知ってるよね? それとよく似たものだよ」
並行世界。
この世界と同じものを起源とし、違った発展を遂げた別世界。
もうひとつの可能性。
「じゃあ、ここは異世界だってことか?」
信じられない。ぼくは何の変化も感じなかったし、時間の流れ方の違いさえ気づかなければここにもいない。
「そうだよ。ここはよく似ているけれど、違う世界。ううん。厳密には同じ世界だよ。違うのは、あたしたち以外に、この場所に誰もいないこと」
「――――っ!」
この場所にぼくたち以外はいない?
「どういうこと?」
リゼが焦りの色を隠さずに問いかける。
「そのままの意味だよ。ここはあたしが創り出した鏡面世界だから」
鏡の向こう側。
反転。
「ほかの人たちはどこに?」
「拓さん、いないのはあたしたちのほうだよ。今頃、『向こう』であたしたちがいなくなったって言ってるころだと思う」
「キョウカはどうして、こんな世界を創ったの?」
もっともな疑問。しかし、それを京香ちゃんは話してくれるのだろうか。
もう一つの世界を欲するということ。それはとても、とても重大なことだ。そんなことをする理由を、ぼくたちに話してくれるものなのか。
「……元の世界にいたら、あたしは死んじゃう」
意外にも口を開いた京香ちゃんが発したのは、予想外すぎる言葉だった。
「え?」
「は?」
死んじゃう?
なんで、どうして。
今まで――中学三年生の十五歳になるまで、平気で過ごしてこられたというのに。宗次もピンピンとしている。いや、そうならこれは空気が合わない、というような理由ではないのだ。
もっと、致命的な何か。
自分が生きていくことを疑問に思うほどの何か。
「あたしの存在を嫌うクラスメイトたちに殺される。あたしたち虚構は意思や、概念、そういう力によって存在してるから、存在を否定されると消えちゃう」
『消えろ』。
クラスメイトたちが、京香ちゃんに向ける視線。『アカガミさま』に託された呪い。それはたしかに、京香ちゃんを世界からはたき出そうとしていた。
「だから、あたしはここに避難したの」
「だったら、どうしてわたしたちもここにいるのかな? 避難なら、キョウカだけがすれば事足りるでしょ?」
京香ちゃんは涙を溜めた目をぼくたちに向け、そしてこちらに走ってきた。
「京香ちゃん?」
京香ちゃんはそのままぼくに飛びつき、しっかりと腰に手を回した。リゼはというと、京香ちゃんを見て、本当に困った顔をしていた。
「うぐっ……」
どうしたものかわからずオロオロしていると、京香ちゃんが嗚咽をもらしてることに気づいた。肩を震わせ、たまった感情を吐き出す。
「……ぅぐ……ひっく……」
リゼが泣いてたときはもっと激しかったな、なんて思っていると、リゼに睨まれた。心が読めるのかもしれない。
京香ちゃんの背中をあやすようにさする。それがいけなかった。京香ちゃんはさらに激しく――結局、大泣きしてしまった。
「拓さん拓さん拓さん!」
何度もぼくの名を呼び、ぼくに助けを求めるように、腰にまわした手に力をこめる。
「あたし……死にたくないよ! 消えたくない!」
「…………」
この子は追い込まれていた。どうしようもないほどに。それでも学校に通い、ぼくたちに心配をかけることを恐れていた。そして、こんな世界を創り上げた。
「うああああああ!」
荒ぶる感情は、言葉を悲鳴に変えた。
もしかしたら、ぼくたちがここにいるのは、京香ちゃんに必要とされたからかもしれない。ぼくたちがいなければ、京香ちゃんはこの世界で独りになってしまう。
「リゼ」
「うん」
「ぼくは許せないよ」
「うん」
「でも、どうしたらいいのか、わからないんだ」
「……うん」
相手は中学生。虚構ではない、純粋な人間。陽平の言葉では、京香ちゃん以外と接する場合、本当に気のいい連中。まあ、そんなことは関係ない。
関係ない。
「最近暴力的な解決方法が多かったから、こういう時どうするべきかわからなくなるんだ」
「そうだね」
「もしかしたら、あまり良いことじゃないのかも知れないけれど、学校に出向いてもいいかなって思うんだ」
「うん」
リゼは京香ちゃんを見つめていて、声なく泣いていた。
とにかく、今は京香ちゃんが泣き止むのを待とう。
全ては――それからだ。
京香ちゃんをひとまずリゼに任せ、ぼくは外に出た。ぼくたち以外がいない世界。それは人間だけにとどまらず、その他の生命体が存在しなかった。川の流れも止まり、『活動』が止まっていた。
「地球は回ってるのかな?」
どうでもいい疑問が浮かぶ。しかし、ここは京香ちゃんの意思が創り出した世界。ぼくたちは地球が回っていることを意識しない。そもそも地球を意識しない。だから、回っていない、というよりも、この町の外はないのかもしれない。
京香ちゃんの溜め込んでいた感情は、ぼくが思っていたよりも大きなものだった。小さな子どものように泣き、ぼくはこうして外に出てきているわけだけど、本当は京香ちゃんのそばにいたほうがよかったのかもしれなかった。
必要とされて、この世界にいるのだから。
そばにいないなら、意味がないのかもしれない。
空はまだ明るい。太陽の位置も変わらない。もし、この世界が、京香ちゃんがこの世界を創り出した瞬間の世界だとするなら、ぼくが京香ちゃんを見つけたときには、すでに世界は変わっていたということだろうか。
「何にも、違和感はなかったよな……」
どういう条件でこの世界に入ってきたのか、その自覚がない。どこがきっかけで世界が変わったのか、ぼくにはわからない。
「これじゃ、催眠術よりも酷いよな」
催眠術だって準備行動を必要とする。かかりやすい体質とか、そういうものはあるらしいけれど、それでも一瞬でかかることなんてないのではないのか。けれど、これは一瞬。ぼくになにも感じさせず、リゼですら何も感じなかった。黒木さんもこの世界には入ってこなかった。いや、彼女の場合、気づいていて入ってこなかったのかもしれない。
「あれ? 何かひっかかるな……」
なんだろう。何かおかしい気がする。何かが欠けているような気がする。
京香ちゃんが創り出した鏡面世界。
連れてこられたぼくとリゼ。
『アカガミさま』。
誰もいない世界。
「ぼくたち三人以外に誰もいない?」
本当にそうなのだろうか。いや、ぼくがこうして外を歩いている限り、生命体なんて見かけていないけれど、一人くらい、そう、一人くらいいたっていいんじゃないだろうか。
いてほしいとさえおもう。
「どうなんだよ、宗次」
妹が非常事態なんだぞ。
それとも、京香ちゃんに弾かれてしまったのだろうか。拒まれてしまったのだろうか。
仲の良い兄妹。
そんなイメージだった。違うのだろうか。
「たまたま、会えてないだけだよな」
京香ちゃんの復活を待つこと、それだけしか今はできない。
「あれ?」
今誰かが通った気がしたけれど。気のせいだったのだろうか。