6
「拓さん」
疲れた顔。汗で濡れ、顔色はよくない。
「探したよ。どうして突然部屋を出たりしたんだ? みんな心配したんだよ?」
「ごめん、なさい」
本当に申し訳無さそうに、おなかの辺りで手をもじもじさせながら京香ちゃんは言った。
「無事ならいいんだけど。どこか調子の悪いところ無い?」
無いわけがない。顔色は悪いし、汗は凄いし、何より、まだ『アカガミさま』の呪いは解けていない。けれど、京香ちゃんはふるふると首を横に振ったのだった。
「大丈夫。大丈夫だよ」
それはまるで自分に言い聞かせているようで、聞いていて痛々しい気分になる。
「我慢しなくていいんだよ?」
「…………」
京香ちゃんはうなずいたけれど、体の不調を訴えることはしなかった。
「とりあえずアパートに帰ろうか」
「……うん」
隣に並んで歩き出す。京香ちゃんの足取りは重かった。
「でも、どうしてこんな場所に?」
突然部屋からいなくなった京香ちゃんを見つけたのは、近くの川原だった。
「ふらついてたら着いただけだよ」
「ふうん?」
それが嘘でも本当でも、本音ではどうでもよかった。見つかったこと、それだけで十分だ。
京香ちゃんの重い足どりに合わせて歩く。本当に、ゆっくりとしていて、まるでのんびりと散歩をしている気分になってくる。
――散歩がしたかっただけなのか?
そう思って、その考えを振り払う。何が悲しくて、こんなにも体調が悪いときに散歩なんかしようと思うんだ。不可解な行動だけど、本人的には全く理由はないみたいだし……。
また小言を言いそうになって、かろうじてその言葉を飲み込む。いつまでも子ども扱いはしてはいけないだろうし、そのくらい京香ちゃんだってわかっているだろう。
「ねえ、拓さん」
「うん?」
「あたしがお兄ちゃんと鏡の向こうの概念個体だって話、覚えてる?」
「あ、ああ」
どうしたんだろう、いきなり。今までこういう『出自』に関わる会話なんてアパート内で話したことなんてなかったのに。それこそあの魔術師の時以外に。
「人間じゃない、んだよね。見てくれも、身体能力も全部、人間とほぼ同一なのに、存在として、全くの別物なんだよね。だから、黒木さんもあたしたちのことを『限りなく人間』だと評した。でも、それってやっぱり『人間じゃない』ってことだよね?」
「それは……」
ぼくはなんと言葉を返せばいいのだろう。何を言っても取り繕うようになってしまうだろう。そうなれば京香ちゃんを余計に傷つけることになる。しかし、だからといって何も言わないわけにも……。
「ねえ、拓さん」
京香ちゃんはもう一度ぼくの名前を呼んだ。
「リゼさんと灰谷さんって同じクラスなんだよね?」
「ああ」
「リゼさんと灰谷さんって苛められてる?」
「いや、苛められてないよ」
悲しそうな、京香ちゃんの顔。
「どうして? ねえ、聞かせてよ」
まるでそれが信じられないことのように、京香ちゃんはぼくの服を掴んで、涙を目に溜めながら言う。
「どうして!」
「……リゼは」
ぼくは全てをありのままに言うことにした。そうしないと、きっと京香ちゃんは納得しないだろう。
聞いたからといって、受け入れられるかはわからないけれど。
「リゼはクラスに入ったその日から、クラスのみんなに受け入れられたよ。あんな性格だから、みんなも接しやすかった」
きっと、京香ちゃんは自分が人間じゃないからみんなに苛められている、そう思っているのだろう。
何もしなかったら苛めじゃない、そんなわけがない。クラスメイトの発する視線、雰囲気は確かに京香ちゃんを追い詰めている。
「灰谷は実は少し浮いていた。冷静で、言いたいことはハッキリと言うし、何より強気だった。言葉遣いも少しだけ乱暴というか、男っぽかったし。けれど……」
あいつは。
「……灰谷は別に『ドラゴン』だから、人間じゃないから浮いてたんじゃないんだ。自分から浮くように行動してた。それは自分がドラゴンだからだったのかどうかは、知らないけどな。そして、ある出来事が起きた」
「ある出来事?」
「ああ。クラスの一人に、世界学に真っ向から反対する考えの奴がいた。別にそれは悪いことじゃない。けれど、そいつはリゼの存在を否定しようとしていた」
「……っ!」
「そこに灰谷が現われて、そいつと口論になった。ついにはそいつは、灰谷に殴りかかった」
京香ちゃんは悲しげに顔をゆがめた。聞きたくない、そう言っているようだった。でも、話さなくてはいけない。
「でも灰谷はドラゴンだ。一瞬のうちにそいつを床に倒し、口から小さく、ほんの少しだけ炎をもらして言った。『オレはドラゴンだ。オレもリーゼ・ブリュスタンも紛い物じゃない』って。そいつは教室にいにくくなったのか、最近は登校してないけれど、リゼも灰谷も、誰からも虐げられていない。みんなが受け入れている。そいつも、もしまた帰ってきたなら、ぼくたちは受け入れるだろうさ」
それは掛け値ないぼくの本音だった。石動が戻ってくるなら、あんなことを言った奴だけど、それだって思想の違いだ。彼を虐げる理由にはならない。
そう思う。
「だから、京香ちゃん、そんなこと言わないでくれよ。ぼくが一度でも、君に人間じゃないことを理由にして、何かをしたかい?」
京香ちゃんは堪えきれなくなって、ボロボロと涙をこぼし始めた。
「だったら、どうしてあたしは……あたしは…………」
「わからないよ。けど、全員がそうじゃないだろ?」
例えばあの竜殺し。
元人間で、いや、今でも純粋な人間の彼。
「え?」
京香ちゃんは気づかない。
彼がいることに。
自分を対等な存在として見てくれている、その人物に。
「ほら、いるじゃないか。教室で話しかけてくれるんだろ? 病院には見舞いに来なかったけれど、退院祝いには来てくれたじゃないか」
「あ……。佐倉」
「あいつ、結構心配してんだよ」
陽平のポイントを、少しだけ上げておくことにしよう。もしかしたら、怒られるかもしれないけれど。
「あいつ……」
今流れている涙が、悲しみによるものでなくなったなら、ぼくはそれでいい。
アパートに戻ると、さきに戻っていたリゼに思いっきり叱られ、京香ちゃんはおとなしく布団に戻った。ぼくはというと、あまり見ないリゼの怒った姿に、少なからず恐怖を感じていた。正面からそれを受け止めざるを得なかった京香ちゃんは、さぞ怖かっただろう。
ぼくたちはとりあえずリゼの部屋で休憩をすることにした。リゼはともかく、身体能力は一般的な人間程度しかないぼくはヘトヘトだ。黒木さんも京香ちゃんを探しに出ていて、部屋に携帯を忘れてしまったのか、連絡はつかなかった。
「それにしても、無事に見つかってよかったよ」
「なんで川原に行ってたの?」
「さあ? そこまでは聞いてないよ。多分、聞いても言ってくれないだろうし」
聞いたけれど教えてくれなかった、というほうが正確か。どちらにしても、ぼくたちがその理由を知ることはないということだ。
「でも理由はあるはずだよね」
「そうだな。京香ちゃんの場合、ぼくたちに心配をかけるのがわかってるのにあんなことをしようとは思わないだろうし」
体調が悪いことすら、隠そうとしていたくらいだ。そんな彼女が突然出て行くなど、よほどのことがない限りあり得ない。
「でも本人が言ってくれないからな、なんとも言えない」
「過去が過去だから、自分で抱え込むクセがついてるのかもね」
「あー。そうかも」
その過去がどこまで本当かはわからないけれど。彼らの存在がいつから始まったのか、それによってかなりの違いがでてくる。
「それでも、『記憶にある』なら、それは本人にとって真実だよ」
リゼが言う。
「そうだな」
存在が始まった時期なんて、本当はどうでもよかったんだ。
「拓、おなかすかない?」
「なんだよ、突然」
「昼から結構時間経ってるし、まだ明るいけど、そろそろおなかすかないかなって。わたしはあんまりそういうのないから、もしかしたらタクはすいてるかもしれないし」
「ああ、そういえばそうだ。ゴタゴタしてたから気づかなかったよ。そうだよな、京香ちゃん探すのに結構な時間かかったしな」
あれ? なんだこの違和感。気づかなかった?
なぜ? いくら夏で日の時間が長いとはいえ、さすがに夜になれば暗くなる。そうなれば、時間の経過は嫌でもわかってしまうのに。気づかないはずがないのに。それなのに、ぼくは疲労以外に、時間の流れを感じなかった。当然のようにおなかもすいていない。
そもそも、明るさが変わっていない。
「リゼ、ちょっと待って」
「え? うん」
携帯を確認する。ディスプレイには、着信を示す表示は出ていない。ということは、陽平はまだ『中学お札めぐり』を続けていることになる。しかし、竜殺しの移動速を考えれば、とっくに終わっているはずだ。
そしてぼくは、最大の異常を発見する。
「……六時?」
「え?」
ぼくの携帯の時計は、六時を指していた。
携帯の時計は電波時計だ。遅れることも、進むこともない。正確な時計だ。それなのに、明らかに過ぎているはずの六時を指し、しかもずっと、時計を見続けていても六時一分にはならない。
「リゼ、ちょっと携帯でもなんでも、この部屋にある時計見せて!」
「え? あ、うん」
リゼは立ち上がり、衣装ケースのようなものの上に置かれた時計を持ってきた。
「……おかしいよね」
「ああ」
リゼが持ってきた時計は、やっぱり六時を指していた。
窓から差し込む光は、まだ日が空にあることを示していた。
「これで夜だったら、すこしは安心したんだけどな」
「そだね」
これは明らかな異常だ。おかしい。こんなことが起きるはずがない。すくなくとも、ふつうの世界ならば。
「並行世界ってやつなのか? ここは」
リゼや灰谷がやってきたように、ぼくたちも移動してしまったのだろうか。
「違うと思う。わたしが元いた世界は、この世界とは全然別物だったから。時代も風景も
空気も、全部。だけど、ここは変わってない」
だから、『並行世界』じゃない。
「じゃあ、ぼくらの世界が異常なのか?」
世界学。
果たして、本当にそうなのだろうか。『時間が進まない世界』が現実に顕現するほどまでに、その概念は人々に浸透しているのだろうか。物語中の設定では見かけることはあっても、そこまで知られたことではないと思う。
「そうでもないんじゃないかな?」
意外にも、リゼがそうぼくの考えを否定した。
「タクは思ったことない? 例えば、一日が二十五時間あったなら。それとか、幸せを感じたとき、このまま時間が進まなければいいのに、とか」
思ったことは――確かにある。だったら、それがこのタイミングで起きているということなのか。
「待ってくれ。それなら灰谷や黒木さん、陽平から連絡があるはずじゃないか。様子がおかしいって」
その連絡すらない。陽平にいたっては、お札を貼り終えたという連絡すらもないのだ。これほど苦戦するような仕事でもないのに、だ。
「そうか……そうだよね。って、キョウカ!」
「あっ!」
この異常事態の中、京香ちゃんを一人にしておくのは危険だ。
連絡がなかった。
気づいていないだけ、なのか?
違う。嫌な予感がする。
部屋を出て、ノックもせずに京香ちゃんの部屋のドアを開ける。
「京香ちゃん!」
駆け込んだ部屋の中には、虚ろな表情の京香ちゃんが立っているだけだった。




