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アパートに帰ると、まるでぼくを待ち構えていたかのように『彼』は立っていた。
「おかえり、拓」
「ただいま、千堂さん」
千堂さんは嘆息して肩をすくめた。
「どうしてそんなに敵意をぼくに向けるんだい? ちょっと拓の帰りを待ってただけじゃないか」
「どうしてぼくが帰ってくる時間が?」
「うーん、長年の勘」
人外の彼。
悠久の時を生きる仙人である彼が、そんな言葉を使うと、それがどんな場合であっても信じてしまう。
信じてしまいそうになる。
「嘘でしょう?」
「うーん、まあ、そうなんだけどね。仙人だけど、別に未来予知ができるわけじゃいからね」
悪びれもせずに千堂さんは笑う。
さきほどのリンクスの言葉は、どうやらハッタリのようだった。ぼくと別れた後で千堂さんと接触しているらしい。
「本当はあの〈旋風に生きる者〉が教えてくれたんだけどね――――なるほど、確かに拓は何らかの助言が欲しいみたいだけど、ぼくからはあまり聞きたくないんじゃない?」
どうなのだろう。
役に立つことは確実だ。ただ、千堂さんの謎かけを解くことができるのだろうか。
「ま、一応助言しておくよ。今回はちょっと急がないと大変だから、謎かけの難易度は下げておくよ」
下げるくらいなら謎かけにしないでほしい。
「大丈夫。謎かけというレベルでもないから」
「で、その助言というのは?」
「うん。人から聞いた噂話とか、まあ与太話だとか、そういうものが自分の身の回りで起きないとは限らない。人から聞いた話が本当だとは限らない。大勢の若者の存在を感じるよ。若者……まだ幼さも残っている感があるけど、本人たちはそう言われるのはあまり好まないだろうね」
まるで実際に見てきたかのように、千堂さんは詰まることなく流れるようにそう言った。
「以上だよ。まあ、考えればすぐにわかるようなことだから。それにもう、拓は今の言葉の意味がわかる状態にはなってる」
それでも――ぼくは千堂さんの言葉の意味が、あまりわからなかった。
「もしこれでわからないなら、最近拓の周りで起きた出来事を思い出してみるといいよ。すぐに解答が出てくるはずさ」
千堂さんはそう言い残して、アパートの階段を上がって部屋に入ってしまった。
ぼくの身の回りで、それも最近起きたこと。
さすがにリゼとの出会いや、灰谷と陽平の一件、魔術師の襲来まで記憶をさかのぼる必要は無いだろう。思い出さなければならないこと――どれだ。
〈旋風に生きる者〉――リンクスの来訪。
細江さんとの微妙な距離、それから告白。
京香ちゃんが体育で疲れて帰ってきた――リゼが魔力を感じた。
夏樹の弟が通う中学校では呪いが流行している。
リンクスの意味深な言葉。
千堂さんの助言。
頭の中を駆け巡る情報。
馬鹿馬鹿しいほどに、単純明快な解答。
気づかなかったことが――すぐに関連を連想しなかったことが、それがすでに不自然なほどに単純。
京香ちゃんのあの不調と、リゼが感じた魔力。
呪い。
この三つの関係性を疑う必要がある。
中学生が行う呪いが成功する確率なんて、そんなのもはほとんどないだろう。しかし、この世界はそんな低い可能性ですら十分だ。
世界学。
たとえぼくたちが世界学の本質の一端を知ったところで、その矛盾と違いを知ったところで、世界学とは本来、人の意識に深く結びついている。別に、吸血鬼やドラゴンのような夢の為だけの考えではない。
呪い。
呪いのような概念的な、オカルト的な存在も顕現する。
世界のシステム。
結局のところ、ぼくは何も理解していない。
世界学を語るにはまだまだ早すぎる。
別に世界学が間違った学問である、というわけではない。黒木さんの説明がデマカセなわけでもない。
並行世界も存在するし、どこかの学者が提唱した説もまた事実なのだ。そうでなければ説明できないことだって、たくさん起きている。
そうだ。
双方が正しい。だから、それゆえに、何が起きてもおかしくない。
「――京香ちゃん……嘘はいけないよ」
ぼくたちに心配をかけなくなかったからなのかは知らないけれど。
この程度のこと、ぼくは――ぼくたちは迷惑なんかじゃない。
京香ちゃんの部屋のドアをノックする。けれど、時間的にはまだ帰っていないだろう。高校生のぼくよりも、中学生の京香ちゃんのほうが帰りが遅いのは別に珍しいことじゃない。というよりも、それが日常的だ。
と、京香ちゃんがここにいないことを願いながらドアノブをまわす。
がちゃり、とドアが開く。
「京香ちゃん?」
宗次がこの時間に部屋にいるよりは、京香ちゃんがいるほうが現実的だ。と、そう考えて、それでも鍵の閉め忘れであってほしいと思いながら声をかける。
「……拓、さん?」
部屋の奥から、気だるげな京香ちゃんの声が聞えた。
「上がってもいいかな?」
口では聞きつつも、ぼくはすでに部屋に上がりこんでいた。
「どうしたの?」
返事を待たずに上がってきたぼくを見上げ、京香ちゃんは不思議そうに首をかしげた。けれど、それはぼくの台詞だ。
「それはこっちの台詞だよ、京香ちゃん。京香ちゃんが体調が悪いの、体育の所為ってわけじゃないんだろ?」
呪いだろ? とはさすがに言わない。
「え? そんなこと……」
言いにくそうに、言葉の最後のほうは小さくて聞き取れず、うつむきながら言った。
「だったら、どうしてまだ体調が悪いのさ」
京香ちゃんは苦しそうに顔をしかめる。
「心配かけたくなかったから」
「黙ってたほうが心配だよ」
「そうだね、ごめん。拓さん」
京香ちゃんは小さく笑ったかと思うと、そのままベッドに仰向けに倒れた。
「…………」
京香ちゃんの言葉の続きがあるかもしれない、と黙って待っていたが、どうもその様子もなく、京香ちゃんは胸に手を乗せてそのままの体勢でいた。
胸に乗せた手に力がこめられる。
「京香ちゃん?」
よく見れば、京香ちゃんの表情は苦しげに歪められ、額にはかすかに汗もにじんでいた。
「京香ちゃん! おい!」
京香ちゃんは返事をせず、苦しそうに息を吐き出すだけだった。だんだんと、それは酷くなっていく。
「くそっ! 待ってて! すぐに黒木さん呼んでくるから!」
ぼくには彼女くらいしか、こんな事態に対応できる人を知らなかった。
人鳥の諸事情により、次回更新日は未定です。できうる限り早く更新します。