扉の向こうの初体験
そろそろ昼時を迎えるという時間帯の、向井家のリビング。そこに、魔界へ出発する三人と、それを見送る一人が集まっていた。
「それでは二人とも、準備はいいな?」
「ああ」
「はい」
出発する三人が手にするのは、樹の挿絵が描かれた青いカード。
修に聞いたところ、この樹は世界の中心を表しているらしい。張り巡らされた枝々から様々な世界へ行く、という意味合いが込められているそうだ。
「いつでもどーぞ!」
見送る一人が手にするのは、煌びやかなデコレーションで彩られた携帯電話。
全く自然に携帯を構える母の姿を見て、念のため悠也は聞いてみた。
「……お袋よ、それは一体何に使う気なんだ?」
「せっかく魔法が見られるなら、記念に撮っておこうかとねー」
「なるほど」
納得しかけ、しかし、と悠也は思う。
傍から見たら呪文を唱えて消えるだけのこれを撮ったところで、それを動画越しに見た人は「ただ編集しただけ」と思うのが関の山ではなかろうか?
「……まあいいや」
なんにせよ、初の魔法体験だ。ただ記念として残すだけでもいいだろうと考えることにした。
「んじゃ修、そろそろ行こうぜ」
「……私もミリアも、君の話が終わるのを待ってたんだがね。よし、ではカードを掲げてくれ」
呆れ顔で修に言われ頭を掻きながら、悠也は二人に倣ってカードを天井に向けて掲げた。
そして、呪文を唱える。
『橋を渡す大いなる大樹よ、世界を紡ぐ偉大なる母よ。我が身を繋ぐ鎖を放ちたまえ、我が魂を封ずる鳥籠を開きたまえ。我は自由を縛られし奴隷に非ず、我こそは翼を持たぬ開拓者なり』
長い上に覚えにくく、オマケに痛い内容という三重苦。これのどこが「短くて覚えやすい」というのか。あいつは頭がいいから色々と特別なんだろう、と納得することにしよう。
呪文の詠唱中、カンニングペーパーを手に悠也はそんなことを思っていた。
「って、なんだこりゃ」
呪文の詠唱が完了した瞬間、それぞれの持つカードが発光し出した。
慌てる悠也を見て、修は楽しそうに笑う。
「転送が始まるんだ。綺麗だぞ」
修が言う間もカードはエメラルドグリーンに輝き、その光はそのまま悠也の身に降り掛かってきた。
輝きに目を眩ませながらも、光が身体全体を包み込んでいくのがわかった。鱗粉のような光の屑が舞い、悠也を中心として回っているようだった。
「確かに綺麗だが……ちょっと眩しいな。目が痛くなってきた」
「え、ちょ、どうなってるのこれ!?光でなにも見えないよー!」
後ろからから翔子の声がかすかに聞こえる。翔子はすぐそばにいたはずなのに、なぜか声が聞き取りづらく感じた。
「しかし、これだけ綺麗なら撮り甲斐もあるだろうが……撮影も難儀してるみたいだな、残念」
言う間にも回転は速度を増し、光もどんどん強くなる。やがて自分自身が光と同化したと感じるほどに強くなったところで――
「あ、そうだ悠――」
「……え?」
――突然、視界がブラックアウトした。
「およよ、やっと見えて……って、もうみんないないし!結局なにも写せてないじゃないのよー!!」
ちょうど正午を迎えた、向井家のリビング。
初めて魔法を目の当たりにして、一人残された翔子はそんなことを叫んだ。
暗転してから数秒間、エレベータで下るような浮遊感を経て、悠也は地に足の着いた感覚を取り戻した。
「な、なんだこりゃ!?いきなり真っ暗になったぞ、修!」
しかし、視界が暗黒に包まれているのはそのまま。
「うろたえるな。ドイツ軍人はうろたえないぞ」
慌てて声を上げた悠也に、内容は意味不明ながら返事はしっかり返ってきた。
「いつ俺がドイツ軍人になったと!?……というか、あんた誰だ?」
しかしそれは、修のものでもミリアのものでもない、落ち着いた少年のような声だった。
「ここがゲートってやつなのか?いやそれより、修たちはどこ行ったんだよ!?」
状況の急な変化に戸惑う悠也に、声の主は笑って答える。
「そんないっぺんに聞かれても答えられないよ。まあ、順を追って話すから落ち着きたまえ」
「……それもそうだな」
「よろしい」
なんとなく、修みたいな雰囲気のヤツだ、と悠也は思った。
「さて、まずはひとつめの質問だな。僕が誰か……か。簡単に言うと、君の魔力が具現化したものだ」
「魔力が具現化?なんだそりゃ」
「君は先ほど、生まれて初めて魔法を使っただろう?いや、正確には魔術だがね。とにかく、君が身体を以て魔法を経験したことによって、君の中の魔力、つまり僕が目覚めたわけだ」
「えーと……つまり、お前は俺の体の一部……みたいなもんでいいのか?」
「実体は持ってないから体の、というわけではないが、認識としては概ね合っているね。僕は君の分身、というわけだ」
「ふーん……なんか、実感湧かないな」
いくら魔法を経験したとはいえ、この荒唐無稽な話をあっさり理解できるほど、まだ悠也は魔法関連の話に慣れていない。実感が湧かないのも無理はなかった。
「まあ、すぐにわかるさ。今はただ、そういうものだ、と認識していればいいよ。それでは次、ここはゲートなのか?という問いへの答えだが、結論から言えばノーだ」
「となると、一体なんなんだここは?真っ暗でさっぱりわからん」「真っ暗?はは、そんなことはないさ。まあ、初めてでは勝手もわからないか」
声の主の回りくどい答え方に、悠也は眉をしかめた。
「なあ、もうちょっとわかりやすく頼めないか?俺もあんまり悠長な時間はないんでな」
「ああ、そうだったね。君と話ができるのが嬉しくてね、済まない」
「ん……そうか」
どこか含みのある言い方だったが、悠也は特に気に留めずに言葉を待った。
「ここは、言うなれば君自身の心の中だ。まあ、今回は僕が呼んだのだけれどね」
「俺の……心の中?そりゃ、俺の脳内とか、そんな解釈でいいのか?」
「んー……口で言うより感じてもらったほうが早いかな。ここは他の誰でもない、『君の心の中』。そう強く意識してみるんだ」
言われるまま、悠也は『ここは自分の心の中』と頭の中で繰り返した。
「……おぉっ!?」
すると、それまで何も見えなかった暗闇が徐々に晴れ、風景が視界に飛び込んできた。
そう、ここは……
「俺の、部屋か?」
無意識に出た悠也の言葉に、声の主は否と答える。
「見た目はね。君にとって最も落ち着く風景が再現されたんだ」
声に反応して、悠也はその方向へ向き直った。
今まで真っ暗だったが、今は周りが見渡せる。それは当然、声の主の姿も目に入ってくるわけで。
「やあ、はじめまして」
「……ああ、はじめまして」
声の主――彼女は、悠也と瓜二つの姿でベッドに腰掛けていた。