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【9】



 涼子先生は今夜帰宅しないと言ったが、外泊のつもりで家を出てきたわけではない。ホテルの手配だけでなく買い出しも必要だ。放置してきた画材道具なども片付けたいとのことで、瑞月さんと涼子先生は《ハピネス》を出て行った。店内に残った朔也の視線がこちらへ向く。


「何であんたは一緒に行かなかったの? 蒼唯さん、あんたも来てほしいって言ったのに」

「だって……二人には共通の話題がいろいろあるけど、私は美術のこととか何も分からないし。何となく気まずくて」

「この状況であの人たちを二人きりにしたら、マジで上手くいくかもしれないぜ? それでいいのかよ」

「……もしかして朔也、私の応援をしてくれてる?」

「いや、あんたのことをバカだなと思っただけ。蒼唯さんの婚約も破談になった今、あんたにとってはチャンスだろ?」

「だからって瑞月さんの邪魔はできないよ。私が性格悪いと思われるだけじゃん」


 仮に邪魔をしたところで、瑞月さんの気持ちが私に向くわけではない。それどころか心証を悪くするだろう。今後も《ハピネス》で働きたい身としては、その方が嫌だ。


「ま、失恋したときは俺に言え。ヤケ食いくらいなら付き合ってやる」

「大丈夫だよ、たぶん。元彼の浮気とポイ捨てに比べたら、きっと落ち込まない。瑞月さんは優しい人だから」


 そうやって強がることしか、今の私にはできなかった。



+ + +



 涼子先生が実家を離れ、名古屋市内のアパートで一人暮らしすることになった――そんな情報を得たのは、彼女が帰ってから一週間後のことだった。アルバイトに出掛ける朔也を見送り、開店準備に入りながら瑞月さんに詳細を訊ねる。


「結局、コンクールへの応募は見送ることにしたみたい。また来年、新しい絵で挑戦すると言ってた」

「夢を諦めることはしないんですね?」

「うん。僕も涼子先生の悩みを詳しく聞かせてもらったよ。璃乃さんに相談していたことも」

「……そうでしたか」

「生徒の前では常に頼りがいのある自分でいたかった、カウンセラーである璃乃さんの前では素直に弱音を吐くことができたと……正直な気持ちも打ち明けてくれた」

「ご両親との話し合いはどうなったんですか?」

「涼子先生の思っていることを包み隠さず話したけれど、全く理解してもらえなかったって。相当厳しい言葉を投げられたみたい。しばらく距離を置くと言ってた」


 瑞月さんはこの一週間、涼子先生と度々連絡を取っていたという。

 二人の関係がどうなったのかは分からない。


「それと、今朝アパートに届いたプレゼント。涼子先生から璃乃さんに」


 瑞月さんが差し出してきたのは、ピンク色のリボンでラッピングされた箱。中身はフルーツがデザインされた化粧ポーチと手鏡のセットだった。リボンの隙間には手紙が添えられている。



《中村さんへ


 たくさん迷惑をかけてごめんなさい。そして、私の悩みを聞いてくれてありがとう。「夢があるだけで素敵」という言葉を励みに、これからも絵を描き続けると決めました。

 中村さんの言葉、真摯に向き合おうとする優しさが、私の心を救ってくれたんです。

 あなたに相談して本当に良かった。

 中村さんは新米だと言っていましたが、私にとっては立派なカウンセラーの先生です。

 修復してくれた絵は必ず完成させます。

 今度こそ約束。


 私が勤めている高校では九月末に文化祭があります。美術部では毎年展示会を行うのですが、今年は私の絵も飾ることになりました。

 文化祭の主役は生徒。教師が出しゃばるようなことはしたくないと思い、一度も展示したことはなかったのですが。思い切って生徒たちに相談したところ「涼子先生も美術部の一員だ」と言ってくれました。


 私を否定する両親でなく、子供たちの言葉を大切にします。

 そしてぜひ、中村さんにも展示会に来ていただきたいです。

 都合が合えば瑞月くんと見に来てくださいね》



 ……やっぱり涼子先生の悩み相談に乗って良かった。

 彼女への嫉妬心が消えるわけではないが、自分が一人の女性を救ったという事実は、癒しを与える幽霊カフェのウェイトレスとして成長した証。誇らしい気持ちになる。


「瑞月さんの母校の文化祭……か。私も入れるのかな」

「何? 手紙になんて書いてあったの?」


 涼子先生の想いが詰まった手紙を渡すわけにもいかない。

 必要な部分のみ説明すると、瑞月さんは「なるほどね」と微笑した。


「僕も一緒に行くよ。学校がどんなふうに変化しているのかも気になる」

「瑞月さんが来てくれるなら安心して入れます」

「それじゃあ当日はお店を休みにして、文化祭も含めて一日デートしよう」

「……デート? 文化祭にお邪魔してそのあと食事するとか、そういう話ですか?」

「うん。キミの家まで送り迎えもするよ」


 特に問題はない、むしろ嬉しいが。私と二人きりで一日過ごすということは、涼子先生との仲が発展したわけではない……?


「ちなみに、朔也へのお礼はチョコレートギフトでした。朔也はものすごく甘党だって伝えたからかな。キミについては『女の子が喜びそうな雑貨で』と伝えたんだけど」

「可愛いポーチと手鏡をいただけて嬉しいです。でも結局、私たちからのプレゼント計画は曖昧なままになっちゃいましたよね。今からでも用意しますか?」

「璃乃さんがOKしてくれるなら」

「もちろんです。私が代表して選ぶことになってましたけど、やっぱり三人で買いに行きませんか? 朔也も涼子先生とお話してますし」

「そうだね。僕は璃乃さんと二人きりの方が嬉しいけど」


 ……またそういう冗談を言う。

 瑞月さんがこんな人だということを理解しているのに、それでも喜んでしまう単純な自分が情けない。


「キミはどう? 朔也も含め三人で出掛けるか、僕と二人きりか……それとも朔也と二人がいい?」

「私が何を言っても、瑞月さんは冗談で切り返すんでしょう?」

「今度ばかりは冗談のつもりはないんだけど。どうしたら璃乃さんの気を引けるのかな」


 ……今度ばかりは?

 私の気を引く?

 そんなふうに言われたら期待してしまう。瑞月さんの顔には普段どおり優美な笑みが浮かんでおり、冗談と本気の区別もつかない。

 どのみち失恋ムードだったのだ。

 いっそ私の気持ちを伝えてみようか――そんなことを考えたら、心臓が激しく音を立て始めた。


「…………私はもう、瑞月さんに惹かれてますけどね」

「ありがとう」


 ……え?

 それだけ?

 勇気を振り絞って発言したのに、瑞月さんの様子は一切変化なし。

 私の気持ちに微塵も気付いていない――いや、もしかして気付かないふり?

 瑞月さんに翻弄されているだけ?

 ドキドキを通り越してじれったくなってきた。


「もう、この際はっきり言っちゃいますね。『二人きりの方が嬉しい』とか『今度は冗談じゃない』とか言われたら、瑞月さんと両想いなのかもって期待しちゃいます」

「それはつまり――」

「すみません、ホントはこんなこと伝えるつもりじゃなかったんですけど。瑞月さんはいつも人を惑わすような冗談を言うので、どこまで真に受けていいのか分からなくて。私、瑞月さんはまた涼子先生に惹かれちゃうんじゃないかと思ってたし……」


 緊張と恥ずかしさで指が震える。それを隠すため両腕を後ろに回そうとした直後、瑞月さんに手を取られた。そのまま抱き寄せられる。ふんわりとバニラのような甘い香りがした。唐突な出来事に身動きが取れないまま、瑞月さんに名前を呼ばれる。



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