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【8】



「結婚したくないって思う私は、普通じゃないの? そもそも〝普通〟って何? 叶わない夢を追いかけ続けてきた私は異常なの?」


 繰り返される質問にどう応えればいいのか分からない。

 未熟な自分に嫌気がさす。

 悔しさに唇を噛んでいると、上から「涼子先生は間違っていません」という瑞月さんの声が聞こえた。


「〝普通〟なんて、それぞれが自分の価値観に当てはめて、勝手に決めつけているだけのものなんです。それに……誰が否定したとしても、僕は心から涼子先生の夢を応援してきました。さっき『夢を捨ててしまえばよかった』なんて言いましたけど、そんなの本音じゃないですよね?」


 涼子先生は返事をしなかった。

 私には、涙に震える小さな背中をさすってあげることしかできない。


 床に打ち捨てられたキャンバス。幾重にも傷付けられた絵の全体像は見えないが、黒い線の隙間から天使の顔が覗いている。《ハピネス》のギャラリースペースに展示されている天使によく似ていた。


 絵の横に置いてある画材道具入れの傍には、汚れた布切れが複数散らばっている。おそらく、筆に付着した絵の具を拭き取るために使う布だろう。瑞月さんはそのうちの一枚と、バターナイフに似た道具を掴んだ。


「その布とナイフみたいなもの、どうするんですか?」

「黒い部分、まだほとんど乾いていないから。可能な範囲で拭き取るよ」


 瑞月さんの丁寧な作業により、黒い部分は少しずつ剥がれ落ちていった。しかし当然、元どおりにはならない。真っ黒に汚れた絵画をコンクールに出すことはできないだろう。


「璃乃さん、油絵を描いたことある?」

「いえ……」

「油絵はね、絵の具が乾燥したら何度も上塗りして創っていくんだよ。ここから修復することもできる。やり直せるんだ」


 それならば。

 私も布切れを借り、床に置いてあるキャンバスと向かい合った。下に描かれている天使の絵をできるだけ傷付けないよう、黒い絵の具を慎重に拭い取っていく。


 やがて絵画の全体像が見えてきた。

 黒いシミが多数散らばっているが、最初に見たときよりずっといい。


 汚れたキャンバスを二枚並べてイーゼルに立て掛ける。写実的に描かれた聖母マリアと天使たち。美術のことを全く知らない私でも「上手だな」という感想は浮かぶが、どちらの絵も妙に不気味で重苦しかった。彩度の低い色で統一されているからだろうか。

 作者の心情がキャンバスに色濃く反映されているのが分かる、胸が詰まるような切ない絵。

 絵を見下ろす瑞月さんの顔にも陰鬱な影が差している。


「涼子先生らしくない、残念な作品ですね。装飾や背景の緻密な描き込み、そして構図……。技術の高さは窺えますが、ただそれだけの絵。この聖母マリアからは母性や温かみがまるで感じられません。おそらくラファエロの《ひわの聖母》にインスパイアされたものでしょうが、今にも泣きそうな伏し目にしか見えない。不安を煽られます」


《ひわの聖母》という絵を知らない私には、瑞月さんの感想の全てを理解することはできない。しかし、この絵に悲しい印象を受けたのは同じだったようだ。


 涼子先生は絵をじっと見つめていた。

 涙は引いているが、表情は相変わらず暗い。虚無感が伝わってくる。


「瑞月くんの言うとおり……本当に酷い絵ね。私が描きたかったものとは全然違う」

「高校時代、家庭の問題で悩む僕に言ってくれたことを覚えていないんですか?」

「……瑞月くんの自由に生きなさい、って言ったこと?」

「ちゃんと覚えているじゃないですか。あの言葉が僕を支えてくれたんです。今の涼子先生にそっくりお返ししますよ」

「……ごめんなさい。私、自分が悩む側に立って初めて気付いたの。私の言ったことは綺麗事に過ぎないって。無責任なことを子供に伝えるべきじゃなかった」


 重要なのは涼子先生の発言が綺麗事か否かでなく、涼子先生の発言が誰かの心を支えたという事実ではないだろうか――少なくとも私にはそう思える。高校時代、実際に言葉を受け取った瑞月さんは今、何を思うのか。


「僕は、大切なのは〝血の繋がり〟でなく〝心の繋がり〟だと考えます。自分の夢や人生を否定されて涙を流すくらいなら、たとえ肉親であろうと切り捨てて、自分の生き方を肯定してくれる人と一緒に笑っていた方がいい。涼子先生を慕っている生徒だってたくさんいるでしょう? 自分にとってマイナスにしかならない人の言葉でなく、可愛い教え子たちの言葉にパワーをもらってください。辛くて苦しいときは僕も相談に乗ります――いや、同じ女性の方が話しやすいのかな?」


 瑞月さんはこちらを見て微笑んだ。

 涼子先生の発言から、私が悩み相談を受けていたと悟ったのだろう。愛想笑いで誤魔化しておいた。


 涼子先生は瑞月さんを見上げ、小さな溜め息をついた。


「瑞月くんは大人になったね。これじゃあどっちが先生なのか分からないな」

「涼子先生は先生ですよ。僕にとって大切な恩師です」

「ありがとう。……私、今日は家に戻らない。一人で自分の気持ちを見つめ直してみる」


 これからビジネスホテルを手配する。気分が落ち着いたら実家へ帰り、ご両親と向き合って話す機会を作るとのことだ。画材道具などの荷物は、しばらく置きっぱなしにしてくれて構わない――瑞月さんはそう伝えた。


「もう一度、僕たちの店に来てください。紅茶をお淹れします……と言っても、この手じゃ無理ですね」


 涼子先生の絵を修復する際、黒い油絵の具で汚れてしまった手。ハンドソープで洗ってもすぐには落ちないだろう。汚れだけでなく臭いも残っている。こんな手で調理器具や食器に触れるわけにはいかない。


「今、朔也が留守番してくれていますから。あの子に涼子先生の苦悩を伝えた上で、心が温まりそうな紅茶を淹れてもらおうと思います。構いませんか?」


 涼子先生が小さく頷くのを確認し、三人でアパートを出た。瑞月さんの運転で《ハピネス》へ戻る。

 フロアには朔也の姿があった。涼子先生をカフェスペースのテーブルへご案内し、私たち従業員はキッチンへ。食器棚の前へ移動した瑞月さんが振り返る。


「朔也、涼子先生のために紅茶を淹れてくれる?」

「何で俺が?」

「僕と璃乃さんの手を見れば分かるでしょ」


 私たちの手を一瞥した朔也は「分かりましたよ」と言い、手を洗ってからティーポットとカップを用意した。それらに電気ポットのお湯を注いで温める。


「あの先生の好みは?」

「朔也のセンスに任せるよ。涼子先生が泣いていた理由は、自分の生き方や夢をご両親に否定されたから。その気持ち、朔也の方が共感できるんじゃない?」

「……なら、俺が頭をすっきりさせたいときに飲むやつを」


 朔也が用意したのは《ミックス》の茶葉、はちみつ、ペパーミント。真ん丸のティーポットに茶葉とペパーミントを入れ、その上から鍋で沸かしたお湯を注ぐ。温めたカップにはたっぷりのはちみつを。甘党の朔也らしさもありながら、ペパーミントで爽やかさも演出してくれそうなチョイスだ。


 はちみつ入りミントティーをトレイに乗せた朔也がフロアへ。私と瑞月さんもあとに付いていく。涼子先生のテーブルで立ち止まった朔也は、「お待たせいたしました」と紅茶を提供した。


「蒼唯さんが俺に任せると言うので好きに淹れさせてもらいましたけど。口に合わなかったら別のものを出しますよ」


 涼子先生がカップに手を伸ばす。

 硬く重苦しい彼女の表情が、紅茶を口にすることで僅かに和らいだ。


「……美味しい。頭のモヤモヤが晴れていきそうな、爽快感のある味……でも優しい甘さも感じられて、なんだかほっとする」

「まさにそんな効果を狙って淹れたんで。少しでも気に入ってもらえたなら良かったです」

「紅茶セラピーって聞き慣れないジャンルだけど、素敵だね。お店のLINEとかSNSを開設したら、もっと話題になるんじゃないかな?」


 朔也は渋い表情で瑞月さんを見た。おそらく「話が広まったらマズイんじゃないですか」とでも言いたいのだろう。瑞月さんはニコニコ顔で「ひっそり営業したいので流行ると困るんです」と答えていた。


《ハピネス》は元来、幽霊のお客様をおもてなしする場所。

 今回は特例だ。



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