【7】
涼子先生には明日からも軽食を届け、きちんと休憩を挟んでいるかどうか確認する。そう宣言した瑞月さんに頼まれ、私も毎回付き添うことになった。
玄関先で軽食やお菓子を渡し、創作の進捗を訊ねるのだが……順調な日もあれば全く捗らない日もある様子。不安定な状態が続いているようだった。
そうして迎えた六日目。
コンクール用の絵はまだ完成していないそうだが、涼子先生は予定どおり引き上げるという。明日は撤収作業を手伝うため、《ハピネス》の営業は正午で終了すると告げられた。
「僕と朔也は昼食を食べたらアパートに行く。キミは焼き菓子の材料を買ってきてくれるかな? 必要な材料のメモと代金は明日渡すよ」
「お店はどこに行けば?」
「ここから車で十五分くらいのところにあるショッピングモールなら、ひととおりの材料が揃うはずだよ。それプラス、ちょっと相談事が」
瑞月さんいわく、涼子先生は部屋を貸してもらったお礼として、私たちへのプレゼントを考えているそうだ。先生から「中村さんと小鈴くんが喜びそうな品を教えてほしい」と連絡があったらしい。
「そんな、私はお礼をいただくようなことは何もしてないのに」
「キミはそう言うと思った。朔也も『俺は何もしてないので』と断ったけど、涼子先生に『要らない』と言うのも逆に申し訳ないでしょ? 僕たちからも何か手土産を用意すれば気後れしないかなと思って……三人で創作応援プレゼントを贈るのはどうかな?」
「大丈夫ですよ。朔也は?」
「あの子はもう賛成してくれてる。プレゼントの内容は璃乃さんのセンスに任せるよ」
「責任重大ですね」
「三人の代表としてよろしく。プレゼント代はあとで三等分ね」
話がまとまると、瑞月さんはレジカウンターの裏からスマホを取った。涼子先生に電話を掛け、明日の撤収時間について相談するらしい。
私は途中となっていた掃除に戻るべく、キッチン横の収納スペースからハンディモップを取り出した。客席の埃取りを始める――と同時、後方から「涼子先生!?」と慌てた声が聞こえた。スマホを耳に当てた瑞月さんの眉間に皺が寄っている。ただならぬ様子に不安を覚え、彼の元へ歩み寄った。
『――』
電話の向こうで涼子先生が何か言っているようだが、声が遠くて聞こえない。
ただじっと耳を澄ませ、ハンディモップの柄を握り締めた。
「そっちに行きましょうか?」
『――』
「もういいです。今から行きます」
通話を終了しながら、瑞月さんが階段へと向かっていく。しかし二階へ上ることはなく、朔也を呼んだ。もどかしい気持ちを抑えられず「何があったんですか?」と訊ねる。
「僕にも分からない。でも涼子先生、もう無理だって……泣きじゃくってた」
「えっ――」
「彼女が弱音を吐くところなんて見たことがない。心を刺されるような何かがあったんだと思う」
瑞月さんから見た涼子先生は、頼りがいのある強い教師なのだろう。
涼子先生自身、生徒の前でそんな自分を演じてきたはずだ。
だからこそ「生徒に悩み相談したくない」と言い、新米カウンセラーの私に心の内を話した――そんな涼子先生が教え子との電話で号泣するなんて。彼女の精神は限界まで張りつめた状態かもしれない。
二階から朔也が下りてくる。
「どうしたんですか?」と問う朔也に、瑞月さんは掻いつまんで事情を説明した。
「璃乃さんは僕と一緒に来て」
「私も?」
「キミがいてくれた方が心強いから」
瑞月さんが私の右手を握る。
持っていたハンディモップを朔也に預け、瑞月さんとともにお店を出た。乗車中は会話を交わすことなく、数分で到着。部屋の鍵を開けた瑞月さんのあとに「お邪魔します」と言いながら続いた。
ワンルームの壁を覆うように置かれていたのはプラスチック製のチェスト、積み重ねられた収納ケースに段ボール箱。部屋中央には、キャンバスを立てるイーゼルや画材道具がある。
イーゼルに掛けられたキャンバスを見て、思わず立ちすくんでしまった。
絵の中にいる人物を潰すかのように。
黒い線が幾重にも書き殴られている。
イーゼルの前には涼子先生が座り込んでいた。彼女の横顔からは生気が感じられない。床にも一枚キャンバスが置いてあり、イーゼル上の絵と同じく黒い線で塗り潰されていた。
「どうしてこんなことに?」
震える声で問いかける瑞月さん。
それでも涼子先生は動かない。
「僕の質問に答えてください。どうしてこんな酷いことをしたんですか?」
「……もう、要らないから」
涼子先生の小さな声が頭の中に降りてくる。
納得のいく絵を生むことができず、滅茶苦茶にしてしまおうと考えたのだろうか。長年絵画を愛し描き続けてきたはずの涼子先生が、こんな無惨なことをするなんて――。
瑞月さんはゆっくりとイーゼルに近付いた。
彼の手が汚されたキャンバスに触れる。
「この絵、コンクールに出すために描いていたものですよね? そして床に置いてあるのは、おそらく《システィーナの聖母》の天使をモチーフとした絵。何故、そんな大切なものを壊したんですか」
怒りを押し殺すかのような瑞月さんの問い。
涼子先生の視線は瑞月さんでなく、私に向いた。
「中村さん、ごめんね。私、あなたとの約束を守れなかった。……叶わない夢なんて、もっと早く捨ててしまえばよかった。私の夢なんて誰の役にも立たない。存在価値なんかない」
堰を切ったように、涼子先生は声を上げて泣き出した。顔を覆って泣きじゃくりながらも何か言おうとしている。
瑞月さんはそんな彼女を見下ろしているだけで動こうとしない。いてもたってもいられなくなり、私が涼子先生の傍に腰を下ろした。震える彼女の背中に、そっと手のひらを添える。
「私は出来損ないの娘だって、親に言われたの。女は結婚して家庭を持ちたいと願うのが〝普通〟だって。中村さんは『夢があるだけで素敵だ』と言ってくれたけど、親にとっては、私の夢なんてゴミ以下の価値しかなくて。二人とも『娘の育て方を間違えた』って。『こんな親不孝な人間になると思ってなかった。親戚の子はみんな結婚してるのに恥ずかしい。良い大学に行かせたお金も無駄だった』って……そこまで言われて、私、もう居場所がない。生きる意味が分からない」
涙ながらに吐き出される苦しみ。
彼女にこんな思いをさせているのが実の両親なのだと思うと、無性に悲しかった。
もし私が涼子先生の親なら、娘の意思を無理に捻じ曲げるようなことはしないのに。
娘の幸せを一番に願うのに。一緒に夢を応援していくのに。




