【6】
「瑞月さんは過去を吹っ切るのに時間がかかりましたか?」
「そうだね。乗り越えるまで大変だった」
「……今はもう、恋愛感情はないと言ってましたもんね」
「うん。でも昔はね……本当に美術部だけが心安らぐ場所だった。涼子先生に出会ったのが、変えることのできない世界にがんじがらめになっていた頃でよかったと思う」
「……変えることのできない世界?」
「今でこそ好きなことをしている僕も、子供の頃は霊滅師家系のことで悩んだんだよ? どうしてこんな家に生まれたのか、どうして縛られなければならないのか、どうして僕の未来は定められているのか……って。そんなとき、聖母マリアの描かれた絵画を見ていると落ち着いた。そしてそれ以上に、涼子先生が僕を救ってくれた」
霊滅師のことを涼子先生に話すわけにはいかないため、その点は伏せ、家庭の悩みで苦しんでいると相談していた瑞月さん。涼子先生は「ご両親の言うことが必ずしも正しいとは限らない。世界は必ず変えられる。瑞月くんの人生は瑞月くん自身のためにあるものだから、自由に生きていいのよ」と優しくアドバイスしてくれたそうだ。
「それ、瑞月さんが朔也に言ったことと同じ……?」
「聞いたんだ」
「はい。朔也、瑞月さんの言葉が自分を救ってくれたと言ってました」
「そっか。涼子先生の言葉が僕を救い、それがさらに朔也を救った。素敵な連鎖だね?」
瑞月さんは嬉しそうに口角を上げた。
しかし――今現在、涼子先生の抱える悩みを私は知っている。
かつて教え子にしたアドバイスを、彼女は忘れてしまったのだろうか。今の涼子先生に「人生はあなた自身のものだ、自由に生きていい」という言葉は重荷になってしまうのだろうか。
+ + +
涼子先生の創作に関する心配と、少しの嫉妬心。
揺れ動く私の心と対照的に瑞月さんは明るかった。
アパートを貸してから二日、今日は瑞月さんと一緒にサンドウィッチを作っている。部屋に飲み物しか持ち込んでいないという涼子先生に差し入れするためだ。
サンドウィッチを入れるためのランチボックスは四つ――私と朔也、瑞月さんのおやつまで含まれている。私たちはお店にいるのだから、わざわざランチボックスに詰めなくても……と思ったが、瑞月さんいわく「たまにはこういうのもいいでしょ」とのこと。
「――そうだ、璃乃さんに報告しておかないと」
「何ですか?」
「婚約の件、破談になったよ」
あまりに唐突な話題で言葉に詰まった。
少し遅れて「そうなんですか」と返したものの、動揺で妙なイントネーションになってしまった気がする。
「でも彼女、瑞月家に嫁ぐ意思を持ってたんでしょう? どうして急に?」
「完全に僕のワガママだよ。ただ、彼女が家のために無理しているのも分かってたからね。キミ、琥太郎くんから霊滅師家系の説明を受けたとき〝序列〟については聞いた?」
「瑞月家は権力が強い、みたいな話ですか?」
「そんなところ」
霊滅師家系は地域ごとに除霊の担当範囲が決まっており、東海地区は瑞月家が統括している。瑞月さんの婚約者だった女性は霊力が高いものの、家の序列で言えば瑞月家よりずっと下らしい。
両家の力関係を考えれば、彼女はどんな相手でも縁談を受け入れるしかない状況になる――彼女自身それを覚悟しているのは伝わってきたが、瑞月さんとしては心苦しさが抜けなかったそうだ。
「彼女のご両親には誠心誠意謝罪した。がっかりした様子のご両親と対照的に、彼女はほっとしたように笑ったんだ。何度もデートしたのに見ることのできなかった、彼女の柔らかな笑顔……初めて見ることができて僕も安心したかな」
「瑞月さん、結婚について真剣に考える機会だって言ってましたけど。考えは変わりました?」
「やっぱり僕は、自然に惹かれた人と一緒にいたい。改めて実感したよ」
私の心には複雑な感情が渦巻いていた。瑞月さんが家の都合で結婚することはない――それは正直安堵したのだが。このタイミングで婚約破棄に持ち込んだことが引っ掛かった。涼子先生との再会が絡んでいる気がしてならない。
サンドウィッチが完成すると、瑞月さんから「キミも来て」と頼まれ、一緒にお店を出た。瑞月さんの運転でアパートへ向かう。
約五分で到着し、案内されたのは一〇三号室。玄関先で涼子先生にランチボックスを渡した。どんな絵を描いているのか気になるが、見せてほしいと気軽にお願いできる間柄でもない。瑞月さんも部屋に上がろうとはせず、「創作は順調ですか?」と訊ねた。
「瑞月くんたちに環境を整えてもらったのにあまり進んでないの。いっそのことイチから描き直そうかと思うくらい」
「この部屋のことは心配しないでくださいね? 一週間と言わず、いつまでも使ってくれて構わないので」
「そういうわけにもいかないよ。今週は補習がないから、仕事を午前のみに調整できたけど……。それに、あまり家を出てばかりいるのも……親に心配されるからね」
涼子先生の表情には疲れの色が見える。創作に根を詰めているからと言うより、両親との関係が悪影響を及ぼしているのではないだろうか。
車に戻ると、瑞月さんは重々しい溜め息をついた。
「あの様子だと、放っておいたら水も飲まずにキャンバスと睨めっこしていそうだね。心配だな」
「そうですね。ただでさえ暑くて食欲が失せる時期なのに」
「璃乃さんは毎日、お昼ご飯をいっぱい食べてるけどね?」
「……そんな言い方しないでください」
恥ずかしさに肩を丸めていると、瑞月さんの手が私の頭に伸びてきた。ふわりと優しく髪を撫でる。
「僕の作る料理が美味しいからたくさん食べてくれるんでしょ? 幸せだよ」
「わ、分かりましたから、早く戻りましょうよ。朔也も待ってます」
何より、私に触れる手をどけてほしい。
緊張で押し潰されそうになる。
ただ……こんなふうに触れられるのは久しぶりで、嬉しい気持ちも少なからずあった。
出会った頃の瑞月さんは頻繁に、私の髪や肩に触れたり、頭をぽんぽんと優しく叩いたりしていたが。いつの間にか一切ボディタッチをしなくなった――今思えば、婚約者ができたのを機に触れなくなったのだろう。




