【3】
涼子先生のもとへグラスを運ぶと、彼女の正面に腰を下ろした。アイスティーに口を付けた涼子先生が顔を綻ばせる。
「爽やかで美味しい。果肉のつぶつぶ感が嬉しいな」
「私もそれが好きなんです。お口に合って良かった」
ほっと胸を撫で下ろし、本題へ入ることにした。これまで幽霊の抱える未練や願望を聞いてきたが、出会ったばかりの人間の相談に乗るのは初めてだ。いつもと違う緊張感がある。
「先に自己紹介しないといけないね。私は橋本涼子、三十七歳。高校教師をしています」
「中村璃乃、二十八歳です。よろしくお願いします」
「こちらこそ。私、カウンセリングを受けるのは初めてで……うまく話をまとめられなかったらごめんなさい。悩みを聞いてもらう前に昔の話をしないといけないかな」
「昔、と言いますと?」
「私、昔から絵を描くのが好きでね。中学生の頃からプロの画家になるのが夢で、それは二十年以上経った今も変わらない。そんな大きな夢を持ったきっかけが、あの窓の横に飾られている絵画なの」
涼子先生が指した絵――それはラファエロの《小椅子の聖母》だった。
瑞月さんが一番好きだと言っていた絵。
不安のような胸騒ぎのような、妙な心地がした。
「初めてあの絵を見たときの感動は忘れられない。それ以来ラファエロに夢中になって、画家として認められたいと願うようになった。でも……最近、自分の夢が何なのか分からなくなってしまって」
「画家になりたい気持ちがなくなってしまったんですか?」
「簡単に言えばそういうことなのかもしれない。絵を描くのが楽しくないの」
プロとして認められたいと願い約二十年、一度も諦めることなく描き続けてきた涼子先生。大学時代から何度もコンクールに応募しているそうだが、受賞経験はないという。最近はスランプに襲われ、納得のいく絵を描くことすらできていないらしい。
「どんなに努力を重ねても、才能のある人には勝てないのかなって……。どうしても悲観的になってしまって」
涼子先生の抱える悩みは、努力が報われないことへの苦悩だろう。
私には人に語ることのできるような夢もなく、プロとして名を馳せることがどれほど厳しい世界なのかも分からない。しかし、二十年も絵を描き続けてきた涼子先生の情熱は本物のはずだ。スランプを脱することができれば、心に多少の余裕ができるかもしれない。
「偉そうな意見になってしまいますが……少しの期間だけでも筆を置いてみるのはどうですか? どんなに好きなことでも、根を詰めすぎたら心身ともに危険だと思います。プロのアーティストだってスランプ期があると聞きますから、何か他のことに目を向けてみる時間を設けるとか」
「……問題はそこじゃないの」
涼子先生の視線がテーブルに落ちる。
表情には影が差していた。
「中村さんの言うとおり、上手く描けない時期は何度もあった。休憩しつつ乗り越えてきたけど……年齢を重ねるにつれて、自分一人の問題じゃなくなってしまった」
「どういうことですか?」
「両親に反対されてるの」
簡単に叶う夢でないことは理解した上で、涼子先生は前を見据え突き進んできた。しかし最近、ご両親の目が冷たいという。「叶わぬ夢をいつまで追いかけているんだ」と。
「私は美術部の顧問をしてるんだけど、部活中に自分の好きなことばかりするわけにはいかないでしょう? 土日も補習や部活で潰れてしまうことがあるから、家にいるときは部屋にこもって好きなことに時間を使う。私は集中すると周りの音が入らなくなってしまって……そんな生活が何年も続いて、両親は不満を持ち始めたみたい」
「……涼子先生のご両親を悪く言うみたいで申し訳ないですが。自分たちの子供とはいえ、涼子先生は立派な大人ですよ? 娘が空き時間に何をしようと、親が口出しすることじゃないですよね。悪さをしているわけじゃあるまいし、絵を描くため部屋に引きこもったっていいと思います」
「若い子ならそう言えるかもしれないんだけどね。私はもう三十代後半だから……親としては、私に早く結婚してほしいのよ」
涼子先生の気持ちは「自分の時間を最優先したい、プロとして成功することだけ考えたい」――しかしご両親は「早く結婚しろ」と繰り返すそうだ。
「両親とも昔気質で……結婚結婚って本当にうるさくて。正直な気持ちは伝えず、『いい男性に巡り合えない』って誤魔化してきたんだけどね。はっきり『結婚する気はありません』なんて言ったら、二人とも顔を真っ赤にして怒るだろうな」
結婚を巡る両親との確執。
瑞月さんや朔也のように特殊な家でなく、涼子先生のような一般家庭でも、価値観が違えば軋轢が生じてしまうのだ。
でも私には、結婚が人生の必須イベントだなんて思えない。
それが両親に押し付けられた選択であれば尚更。
「親の目が冷たくなって、いつの間にか自分の気持ちが歪んでいることに気付いた。私は今〝夢を叶えるため絵を描いている〟わけじゃなくて、〝文句を言われないためには成功するしかない〟と思ってしまってる。だから楽しくないのかもしれない」
それでは本末転倒だ。
親を納得させるために夢を追うしかない状況だなんて、精神的にも相当辛いはず。
涼子先生の情熱が歪んでしまうなんて悲しい。親とはいえ、人のせいで夢を諦めてしまうのはもったいない。ここは、瑞月さんが朔也に言ったことの受け売りになってしまうが――。
「先生の人生は先生のものですよね? ご両親の反対を理由に夢を諦めたら、いずれ後悔する日が来ると思います」
「そうかもしれない……。でも、親に全否定されてまで自分を貫く人生は幸せなのかなって考えちゃう。自分に自信が持てないだけなのかもしれないけど」
「先生の気持ちはもう、夢を諦める方へ傾いているんですか?」
「それが分からなくて。このまま成功できずに諦めてしまったら、親に『だから早くやめろと言っただろ』と言われそうで怖くて……。だからとにかく描き続けるしかないと思ってるんだけど、こんなの〝夢を追いかけている〟って言えないよね」
「……そうですね。一種の義務みたいです」
「両親は『家庭と仕事を両立している女性は大勢いる』とか『結婚してからでも絵は描ける』とか言うの。その意見が間違ってるとは思わないけど……でも私は、やっぱり結婚したいなんて思えないんだ。この先の未来が見えなくて、ネガティブな自分にも嫌気がさしてきて。このままじゃ生徒たちの前でも暗い顔をしてしまいそうで……それだけは避けたいんだけど」
娘に結婚してほしいと願う両親の気持ち――未婚の私には正確に汲み取ることができないかもしれない。
しかし今、私は涼子先生に寄り添うため話を聞いているのだ。正解を導き出すのではなく、涼子先生の心を少しでも楽にしてあげなければならない。
ただ……何を言えばいいのか見当もつかず、考えすぎて頭がパンクしそうになってきた。




