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【1】



【Case5】マリアの涙



 私もようやく幽霊と会話できるようになった――美雪ちゃんの件で喜んだのも束の間。また幽霊の声が聞こえなくなってしまった。


 と言っても完全に聞こえないわけではなく、時々常連さんの呼びかけが耳に届くことはある。今日は渡辺さんに『マスター……璃乃ちゃん……いれた?』と訊ねられたが、肝心の部分が分からず首を傾げる羽目になった。

 瑞月さんの助け舟が出て穴埋め成功――『今日の紅茶は味が違う。マスターじゃなく璃乃ちゃんが淹れた?』


 この指摘、先日並木さんからもあった。

 もちろん瑞月さんに教えてもらった手順どおり丁寧に淹れているが、私のホットティーには安定感がないようだ。二人とも『不味いわけじゃないよ』とフォローしてくれたものの、瑞月さんの紅茶の方が喜ばしいのは間違いない。幽霊との会話だけでなく、紅茶の淹れ方も精進していかなければ。


 時刻は午後六時。

 お店を《close》に切り替えてエプロンを脱いだ。明日・明後日は連休を取っている。瑞月さんに挨拶してお店を出ようとしたところ、「ちょっと待って」と呼び止められた。


「璃乃さん、明日は実家に行くと言ってたよね?」

「はい。母から買い物に誘われたんです」

「良かったら手土産にアップルパイを持っていかない? 明日の夜頃まで食べられるから」

「それじゃあ遠慮なくいただきます」


 瑞月さんは冷蔵庫からアップルパイを三切れ取り出した。使い捨てパックに詰め、小さな保冷剤とともにランチバッグへ。


「お母様のお口に合えばいいんだけど」

「大丈夫です。うちの親、アップルパイ好きですから」

「渡辺さんには『ちょっとシナモンの風味が強いかな』って言われちゃったんだよね。次はシナモン抑えめで作るって伝えたよ」

「そういえば今日、アップルパイを焼いたときの話をしてましたね。私はまだまだ……美雪ちゃんと会話できたことで『今度こそ!』って思ってたんですけど。上手くいかないですね」

「キミが元々持つ素質、その時々の感情、お客様との相性などなど、影響するものはたくさんあるから。それに朔也の影響もありそう」


 絵本の読み聞かせをしたとき、朔也が〝清の言霊〟を使った。私が美雪ちゃんと会話できるようになったのはそのあと――朔也の力と私の力が共鳴したのだろう、と瑞月さんは解説してくれた。


「璃乃さんからは元々、朔也と似た霊力を感じていた。朔也とキミはとても相性がいいんだよ」

「そうなんですか……」

「こういう相性は先天性のもので、努力で変えられるものじゃない。僕と一緒に接客するより、朔也と一緒に仕入れをする方がキミには向いてるかも」

「……瑞月さんがそう言うなら仕入れに行きますけど、できれば接客もしたいです」

「朔也じゃなくて僕と一緒がいい?」


 ふいに瑞月さんの顔が近付く。

 色っぽい表情を作る彼は普段どおりなのに、私の意識が変わってしまったせいで上手にあしらうことができない。


「どうしちゃったの? 真っ赤な顔して黙り込んで」

「……何でもないです」

「これは本気で嫌がられちゃったかな。ごめんね」


 瑞月さんはすっと身を引いた。

 私の態度が変な方向に誤解を生んでしまったようだ。

 否定しようと思ったが、先に瑞月さんが口を開いた。


「キミに霊力があっても、それをコントロールする力は備わっていない――ここが霊滅師の血を引く者との絶対的な差だね。ある程度は慣れによって対応できるけど、完璧を求めるのは難しい」

「瑞月さんや朔也みたいに、常に幽霊と会話できる状態を維持するのは無理ってことですか?」

「不可能とまでは言わないよ。でも確率で考えるなら、宝くじで一億円を当てる方が簡単だろうな」


 相当厳しいということか。

 落胆の気持ちはあるが、徐々に会話できる時間が増えることを祈ろう。信じる気持ちが変化を生むというのは実証済みなのだから。



+ + +



 充実した連休を終えた今日。

 三日ぶりに出勤した《ハピネス》での最初の仕事は窓拭きだった。まずはギャラリースペースから。

 こちら側にある窓は一ヶ所だけだからすぐに終わる――と思いながら近付いたところで、窓の横に展示されている絵画の変化に気付いた。額縁が右肩下がりに傾いている。


 慎重に絵画を取り外して裏側を確認すると、紐を引っ掛けるための金具がグラグラしていた。経年劣化によるものだろう。裏庭で作業していた瑞月さんが店内に戻ってくると、早速この件を伝えた。


「このままだといずれ落下しそうだね。新品に交換しないと」

「新しい額縁、買いに行きます?」

「いや。アパートにあったと思うから、折を見て取りに行ってくるよ」


 瑞月さんは愛おしそうな瞳で、手にした絵画を見下ろしている。

 この絵画は、展示されている他の絵と違う――誰にでも分かる明確な違いがある。他の絵が全て長方形であるのに対し、この絵だけ正円なのだ。まん丸の絵画が、四角い額縁の中央にぴたりとおさめられている。


「この絵は《小椅子の聖母》」

「……タイトルですか?」

「うん。あっちに飾ってある天使の絵と同じ、ラファエロが描いたものだよ。この絵が生まれた時代はトンド形式――こういう円形の絵画が流行していたんだ」


《小椅子の聖母》には三人の人物が描かれている。椅子に腰掛けた聖母マリア、マリアに抱かれた幼児キリスト、その右側に十字架を持つ聖ヨハネ――瑞月さんは一人ずつ解説してくれた。


「中学生のとき、美術の教科書でこの絵を見て一目惚れしたんだ。温かい色合いと、美しい聖母マリアの眼差し……見ていると心が安らぐんだよね。宗教絵画を中心に好きな絵はたくさんあるけど、やっぱりこの絵が一番だな」


 滑るように語られる絵画への想い。

 瑞月さんは絵画についてあまり触れてほしくないように見えたが、それは私の思い過ごしだったのか――なんてことを考えていたせいで沈黙になってしまった。瑞月さんが苦笑する。


「ごめん、退屈な話だったかな」

「いえ。ただ、瑞月さんは絵画のことをあまり話したくないのかなと勝手に思っていて」

「そうだね。聖母マリアを見るのが辛い時期があったのは確かだよ」


 瑞月さんは《小椅子の聖母》を抱え二階へ上がった。新しい額に交換するまで部屋に置いておくのだろう。


 気になったのは瑞月さんの言う〝辛かった時期〟。私の抱いた印象が間違っていたわけではないようだ。しかし過去形だったことを鑑みると、今は絵画を見て辛くなることもない……と捉えていいのだろうか。



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