【3】
「ここって何県何市ですか?」
「岐阜県の川辺町ですよ」
「県外に出ちゃってたんだ。しかも聞いたこともない町……」
「璃乃さんはどちらから?」
「愛知県小牧市です」
「小牧ですか。車で片道一時間くらいですね。通えそうですか?」
話を進めようとする瑞月さんには悪いが、通勤距離だけの問題でない。彼はおそらくアルバイトとして誘ってくれているはずだ。今は気力ゼロでも、この先の将来を思えばまた正社員として働きたい。丁重にお断りしよう。
「ありがたいお話ではありますが――」
「璃乃さんが会社勤めしていたときと同じお給料を出しましょう」
「……はい?」
「ケーキ付きの昼食は無料。休みは不規則になりますが、週休二日は保証しますよ」
「ぜひ詳細を聞かせてください」
条件に釣られ、思わず乗っかってしまった。
しかし会社にいた頃と同じお給料をいただけるなら、話を聞かせてもらうに越したことはない。
「最初にお伝えしたとおり、当店は霊しか入店できないカフェとなっています。つまり、お客様=幽霊です」
「……まさかとは思いますけど。今この店内にも〝お客様〟が?」
「えぇ、男性が一人」
瑞月さんはカフェスペースの奥に目を向けた。
窓際のテーブルにはティーカップがひとつ置いてある。
中身が入っているかどうかは見えない。
「ほ、ほんとに、いるんですか、幽霊が」
「はい。僕たちに向かって手を振ってくれていますよ」
と言われてもそれらしき姿はない。
私に見えるのは、誰もいない空間に向かってにこやかに右手を振る瑞月さんだけだ。
寒いわけでもないのに鳥肌が立った。
やっぱり無理だ。
幽霊が集まるカフェなんて不気味すぎる――と言うより、得体の知れない瑞月さんが恐ろしい。本当は幽霊などどこにもおらず、私を騙すために演技している可能性もある。いつの間にか怪しい商売の片棒を担がされていた、なんてことになりかねない。上手い話には落とし穴があるものだ。
「僕は特異体質なんです。分かりやすい表現をするなら〝霊感〟でしょうか。霊を感じ取り、受け入れる素質。それが璃乃さんにもあります」
「でも私……二十八年間生きてきて、幽霊にも怪奇現象にも遭遇したことないですから。こんな怪し――風変りなカフェで働くのは無理かなって」
「混乱は承知の上ですが、僕はぜひ一緒に働きたいです。あなたに一目惚れしてしまいましたので」
思いがけない発言に面食らった。
自分が美女でないことは痛いほど自覚している。
しかし社交辞令にしては仰々しく、そこまで嘘を盛る必要があるとも思えない。
「当店は人間が踏み込めないよう結界を張っています。璃乃さんはそれを潜り抜け、僕の目の前に現れた。しかもあなたの宿す霊力は、僕が信頼している人物の霊力とよく似ています」
「……それはつまり、私の持つ霊感に一目惚れしたと?」
「えぇ。ぜひあなたの力に触れてみたいです」
恋愛とはまるで関係のない感情だった。
自意識過剰な勘違いをする前に確認しておいてよかった。
「僕のもとで働くのは不安ですか?」
「瑞月さんのせいじゃなくて、ちょっと未知の世界すぎて……夢を見ているような気分が抜けないんです」
生きるのが嫌になるほど落ち込んだのは事実だが、「幽霊相手に接客しちゃいまーす」などと開き直れるものではない。第一、まだ幽霊の存在を信じたわけでもない。
「強引なお願いになってしまい恐縮ですが、僕は璃乃さんのことをもっと知りたい。ここは〝新たな就職先を探すまでの繋ぎ〟として当店を利用してみませんか? 嫌になったら即日辞めていただいて構いません」
繋ぎ……か。
どのみち私には何の予定もない。このお店の駐車場を一部破損してしまった負い目もある。そして瑞月さんが何者なのかということも気になる。思い切って足を踏み入れてみよう。
まさかこんな展開が待ち受けているとは。
失恋・失職による精神的ダメージから一転、幽霊専門のカフェに辿り着くことになるなんて誰が想像できただろう。
「ちなみに、瑞月さん以外の従業員の方は?」
「僕と友人の二人で経営しています」
「たった二人で? 大変そうですね」
「いえ、とても楽しいですよ。今日は店じまいとしましょうか」
瑞月さんは席を立ち、窓際のテーブルに向かって「お騒がせしてすみません」と告げた。私も立ち上がり、瑞月さんの視線の先に目を凝らしてみる。相変わらず何も見えない。怪しい気配のようなものも感じられない。
「私、本当に霊感があるんですか?」
「そうですね……何の実感もないままでは困りますよね。璃乃さんにちょっとした〝おまじない〟をかけてあげましょう」
「何ですか、それ」
「僕の前に立っていただけますか?」
指示に従い、瑞月さんの正面へ移動する。
身長百五十五センチの私よりも、彼の方が頭ひとつ分くらい大きい――おそらく百八十センチ程度だろう。そんなことを考えているうちに、瑞月さんの左手が私の頭の上に乗った。
「中村璃乃
我が血の呼び声に応えたまえ
〝霊魂宿力解〟――」
淡々としたお経のような囁き声。
頭に乗っている瑞月さんの手が、じんわりと熱を帯びていくのを感じる。
身体の芯がむず痒いような。
心臓が震えているような。
違和感はあるものの痛みはない。
数秒の沈黙のあと、手を下ろした瑞月さんは微笑んだ。
一体何だったのか。
――いや、おかしい。
明らかな変化がある。
カフェスペースの奥から重々しい気配が流れてきた。
気配の先に目を向けるのが恐ろしく、瑞月さんの顔をじっと見上げる。
「璃乃さんにも伝わりましたか?」
「瑞月さん……こんな重苦しい気配をずっと感じてたんですか?」
「僕は慣れているので平気ですが、璃乃さんにはまだ刺激が強いかもしれませんね。一生解放されることはなかったかもしれない力を、一部とはいえ無理やり呼び覚ましてしまいましたから。――あぁもちろん、不快感に耐えられないようであれば元に戻しますのでご安心を」
全身にのしかかってくる気配以上に、瑞月蒼唯という存在が悍ましい。
彼のかけた〝おまじない〟とは何なのか。
霊感があるとかないとか、そういう次元の問題なのか。
それどころではない、もっと人間離れした何かを、彼は持っているのではないか。




