【6】
「璃乃さんは以前の職場で苦労していませんでしたか?」
瑞月さんからの唐突な質問に戸惑ったが、すぐに「いえ」と返した。破産してしまったが働きやすい職場だったと思う。
瑞月さんは幽霊へと向き直り、切なげに微笑んだ。
「人には得手不得手がありますからね。全く同じ業務でも、ある人にとってはとても簡単で、ある人にとってはとても難しい――そんなことだってあるんです。そしてそれは、他人には分からない。いえ、あなたの上司は分かろうともしなかったのでしょう。大丈夫、お客様には何の非もありません。もう苦しまなくていいんですよ」
瑞月さんの話から何となくイメージが膨らんできた。
この幽霊は仕事に強いストレスを感じていたのだろう。
彼女なりに苦しい業務があり、それを上司に訴えたが、取り合ってもらえなかった――そんなところか。
「オーダーはホットレモンティーですね。璃乃さん、行きましょう」
一礼した瑞月さんが身を翻す。
私も慌てて一礼し、彼の後を追った。
キッチンへ入り、紅茶缶の並ぶ棚の前で立ち止まる。
「それでは璃乃さん、ちょっとしたテストをするよ」
「テスト?」
「午前中に説明したこと――《ハピネス》のコンセプトを正しく理解したかどうかのテストだよ。今回のお客様は前回の来店時『もう少し現世で見ておきたいことがある』と言って一旦お帰りになった。そして今日、改めて浄化を希望されている。キミならどんな紅茶を提供するかな? キミが思うように、この棚から茶葉を選んでごらん」
幽霊の話を細かく聞いていた瑞月さんと違って、私には限られた情報・憶測しかない。慎重に考慮しなければ。
一列に並ぶ紅茶缶を眺め、まずは《ミックス》を手に取った。
これは幽霊用の紅茶を濁らせないために必要不可欠なもの。
次に死魂――フレーバーの選択だ。「霊を浄化するためには、その霊を現世に縛り付けている感情に近いものをぶつけて消滅させる」という話だった。
あの幽霊はおそらく、仕事のストレスが原因で逆流性食道炎を患った。しかし《ストレス》というラベルの茶葉は見当たらない。となると胃痛に関するもの――そのまま《病気》《不健康》などだろうか。……いや、それらしき茶葉もない。
「瑞月さん、ひとつだけ質問してもいいですか?」
「構わないよ。答えに直結する質問以外ならいくつでも」
「彼女の死因が気になったんです。仕事のストレスで自ら命を絶ったんですか?」
「良い着眼点だね。あのお客様は仕事で大きなプロジェクトを抱えるさなか、不運にも車に撥ねられてしまったんだ。極度の睡眠不足でぼんやりしていて、赤信号に気付かず横断歩道を渡ってしまったんだって。希死念慮を抱いたことはないと言っていた」
死因は交通事故、「死にたい」と考えたこともない――つまり彼女は、亡くなる直前まで懸命に働いていたはず。病気になるほどのストレスを抱えても、睡眠不足でふらふらになっても、任されたプロジェクトのために頑張っていた。
しかし上司は頼りにならず。
助けを求めることも逃げることもできず。
自分の力だけで何とかしようと必死だったのかもしれない。
並ぶ缶の中に《重責》のラベルを発見し、それを手に取った。大きすぎるほどの負担を表す言葉。彼女にのしかかっていたプレッシャーは相当なものだっただろう、という推測のもとに。
ドキドキしながら《ミックス》と《重責》の茶葉を瑞月さんに渡す。二つの缶を受け取った彼は「合格」と笑みを浮かべた。
無事正解。
緊張から解放され、ほっと胸を撫で下ろした。
私が真剣に茶葉を吟味している間に、瑞月さんはお湯を沸かしていた。既にティーカップとポットが温められている。あとは紅茶を用意するだけだ。
「しばらくの間は僕が淹れるけど、キミにも覚えてもらうからね」
相変わらず不穏な香りの幽霊用紅茶を淹れた瑞月さんは、ソーサーの端にレモンスライスを乗せた。「これはオマケね」と言いながら、小皿にリーフパイも乗せている。
「キミの選んだ紅茶だ、自分で提供しておいで」
「でも私、会話はできないので。瑞月さんも付いてきてくれますか?」
「うん、ちゃんと隣で見ていてあげる」
レモンティーとリーフパイを乗せたトレイを持ち、再びフロアに出た。ぼんやりと座っている幽霊の斜め前で立ち止まり、「お待たせいたしました」と前置きしてから商品をテーブルに並べる。
一般的なカフェであれば当然、ウェイトレスがいつまでもテーブル前に居座ることはない。しかし瑞月さんは立ち去ろうとしなかった。このまま幽霊の様子を見守るつもりらしい。食べる側なら気まずいことこの上ない状況だが、彼女の方も受け入れているようだ。
幽霊はまず、ティーカップに手を伸ばした。
相変わらずカップが動くことはないが、所作で紅茶を飲んでいることは伝わる。
次に、彼女の手がリーフパイへと移動した。こちらも美味しく食したのだろう、幽霊の口角が上がる。限りなく無表情に近い些少な変化だが。
幽霊はカップを持ち上げるような仕草で静止し、瑞月さんに話し掛け始めた。瑞月さんの口から唐突に私の名が出る。「バイト一日目」「この紅茶は璃乃さんが選んでくれたもの」など――幽霊から質問を受けたのだろう。
私のことを話しているというのに、目の前に座っているというのに、自分で応えることができない。
もどかしい。
疎外感もある。
やがて二人の会話が終了した。
幽霊の目線が私へと移動する。
彼女は自分の唇を指さした。これまでと違い、ゆったりとしたペースで大きく唇を動かしていく。私に何か伝えようとしているようだ。
あ、り、が、と、う
たった五文字。
音はないが私にも読み取ることができた。
蒼白で感情の見えない顔から発せられた、温かな感謝の想い。
こそばゆい気持ちになりながら「喜んでいただけて良かったです」と返した。
――次の瞬間、幽霊の姿が蜃気楼のように歪んだ。
そして霧散してしまった。
彼女の隣に置かれていたビジネスバッグも消えている。
「これで浄化完了だよ。よく頑張りました」
瑞月さんがぽんと私の肩に手を乗せる。
幽霊が無事に成仏した――しかし私から見れば、単に〝この場から消えてしまった〟だけだ。
心にぽっかりと穴が開いた気分。
彼女が最期に伝えてくれた言葉が寂しさを生んでいるのだろうか。それと同時に、ひとつ疑問が湧いた。
「お客様はみんな、幽霊用の紅茶を飲めば浄化されると理解した上で注文するんですよね?」
「うん。昨日紹介した常連の渡辺さんみたいに、人間用の紅茶やスイーツを楽しみに通ってる方は別としてね」
「幽霊たちが消えることを選択するのはどうしてですか?」
「どうして、って?」
「悩みを抱える幽霊もここに通い続ければ、渡辺さんみたいに紅茶やスイーツを楽しめるじゃないですか。それなのに……この世から消える道を選ぶなんて。なんだか切ないなと思って」
「霊にとって現世は、決して居心地のいい場所ではないんだよ」
「そうなんですか?」
「キミは霊の姿を見ることができるようになったけど、大多数は認識することのできない存在だ。当然霊たちの家族や友人、恋人の目にも映らない。それがどういうことかキミにも想像できるよね?」
どんなに叫んでも自分の声は届かない。
姿を認識してもらうことすらできない。
そんな自分をよそに、大切な人々は日常を過ごしている――幽霊の立場から見れば無視されているのと同義だ。寂しくて悲しくて消えてしまいたくなるかもしれない。




