【5】
「絵画鑑賞が趣味なんですか?」
「絵画、と括ると違う……かな?」
歯切れの悪い発言を残し、瑞月さんは窓拭きを始めてしまった。
これまでの彼は何かをはぐらかしたり誤魔化したりする際、色めいたジョークを交えていたが……今回は一切なかった。心なしか声色も暗かった気がする。
展示している絵画に特別な感情があるのだろうか。こんな目に付く場所に飾るくらいだから、嫌な想い出の詰まった絵ではないだろうが……。とはいえ彼にとって詮索してほしくない部分かもしれない。これ以上は踏み込まないようにしよう。
床掃除を終了したとき、時刻は午後一時半を回っていた。ここからお店を《open》に切り替える。小鈴さんは二階の自室で休むとのことで階段へと向かった。瑞月さんがその背中に声を掛ける。
「今日は五時で閉める予定だけど、璃乃さんの送り役を任せても大丈夫そう?」
「……まぁ体調的には」
「じゃあお願いしまーす」
ひらひらと右手を振る瑞月さん。
小鈴さんは露骨に面倒くさそうな表情を浮かべたのち、階段を上っていった。
ボンネットが凹んでしまった私の車は、瑞月さんがディーラーへ修理に出してくれた。そこで代車を借りることができれば自分で通勤可能になる。小鈴さんの手を煩わせることもないのだが――。
「キミの車、明後日の午前中には戻ってくる予定だから。それまでは朔也に任せておけばいいよ。朔也はお店にいる時間が少ないもん、話す機会が必要でしょ?」
「でも小鈴さん、すっごく嫌そうな顔してました」
「大丈夫、あれは照れ隠しだよ。キミみたいに魅力的な女の子と二人きりになるのが恥ずかしいんだろうね」
「絶っっっ対に違います! 無礼承知で言わせてもらいますけど、瑞月さんに厄介事を押し付けられてうんざりしている顔でした」
「あれ? 背中を丸めてしょんぼりしていた昨日のキミはどこに行ったの? 僕に惚れて悲しい気持ちが全部吹っ飛んじゃった?」
……鬱陶しい。
しかしこの絡みづらいキャラクターこそ瑞月さん、という気がしてきた。
「さて、もうすぐお客様のご来店だね」
「分かるんですか?」
「僕はキミよりも朔也よりも霊力が強いからね。ごく僅かな空気の変化も感じ取ることができるよ」
そんな会話をしているうちに女性の幽霊が来店した。「いらっしゃいませ」と口にする瑞月さん、私もそれに倣う。幽霊は長い髪を右サイドで束ねており、パンツスーツを着用していた。右手に黒いビジネスバッグを携えている。二十代後半くらいだろうか。
瑞月さんは内緒話するように、私の耳元へ顔を寄せた。
「あちらのお客様は二度目のご来店。キミに接客してもらうよ」
「え、私ですか? 声が聞こえないのに接客なんて無理ですよ」
「僕が隣に立つから大丈夫。ね?」
幽霊は入口からもっとも近いテーブルに着いた。
着席後は正面を向いてマネキンのように静止しており、不気味度が増していく。
一般的なカフェなら自分もお客として出入りしているため、未経験の身でも何となく接客できそうだが……ここは特殊なカフェだ。お客さんに何を言えばいいのか分からない。そもそも私の言葉が通じるのかどうかという不安もある。
「ほら、あまりお待たせしちゃダメだよ」
瑞月さんは水の入ったグラスとおしぼりを用意し、私に押し付けてきた。渋々受け取ってトレイに乗せる。緊張で全身が震え、グラスがカタカタと僅かな音を立てた。瑞月さんの後ろについて幽霊の着席するテーブルへ。彼女は青白い顔で瑞月さんを見上げた。
「この子は新人ウェイトレスの中村璃乃といいます」
紹介された直後、生気のない眼と視線が重なった。幽霊が文字どおり色のない顔で私を見つめている。瑞月さんはにこやかに微笑むだけで何も言わない。このまま無言で突っ立っていたら幽霊の機嫌を損ねてしまうだろう。ぶるぶると震える手で水とおしぼりを提供した。
「あ、あの、ご注文は何にいたしましょう?」
ウェイトレスらしいセリフを投げかけると、幽霊はビジネスバッグに手を伸ばした。霊体と同じく半透明のバッグから白い紙袋を二つ取り出し、テーブルに並べる。
どちらも病院で処方される薬袋だ。
内容物の欄に《タケキャブ錠20mg リラダン錠10mg ストロカイン錠5mg》と記載がある。処方された日付は二年前の七月二日。
隣から「胃の薬ですね」と瑞月さんの声がした。
「こちらのお客様は生前、軽度の逆流性食道炎で通院されていたそうなんです」
逆流性食道炎――あまり詳しいわけではないが知っている。
胃酸が逆流して、胸やけや胃の不快感を引き起こす病気。
とはいえ死に至るような病ではないはずだ。
おそらく彼女が幽霊となった原因(つまり死因)に直結したものではない。
何故私に処方薬を見せたのか……という部分を、《ハピネス》の接客では探らなければならないのかもしれない。だからと言って「この薬に何の意味が?」なんて単刀直入に訊ねるのも不躾だ。ここはひとまず――。
「長く通院されていたんですか?」
私の言葉はきちんと通じているようだ。声は一切聞こえないものの、幽霊の唇がもごもごと動き始めた。内容を読み取ろうと試みたが、一言ならまだしも、長い文章など理解できるはずがない。幽霊の表情は〝無〟のままで、どんな感情を抱いているのかも分からない。
この状況で接客しろだなんて。
瑞月さん、バイト一日目の新人に対しスパルタすぎやしませんか?
幽霊が「言葉も通じない奴を寄越すな!」と怒り始めたらどうしてくれるのか。
……なんて心の声を表に出すわけにもいかない。
「えっと、その、お辛いですよね。食事を摂るのも大変そうな病気ですし……そうだ、身体を温めた方がいいかもしれませんね。当店の紅茶はいかがでしょうか」
結局、注文を促す方向に持っていくことしかできなかった。
完全に逃げの姿勢だ。
「――璃乃さん。お客様は長期的なストレスで胃を悪くしたそうです」
「そうだったんですか。一体どんなストレスが?」
初来店の際、瑞月さんは幽霊の悩みを聞かせてもらったそうだ。彼の口から掻いつまんで説明するか、お客様自身がもう一度お話しするか――投げかけられた彼女は後者を選択。私を見上げ、何やら話し始めた。
私にとっては単なる長い沈黙。内容が分からない以上返事をすることもできないが、せめてお客様の悩みに向き合おうとする姿勢だけでも伝わってほしい。彼女の唇の動きが止まるタイミングを見計らい、何度か相槌を挟んだ。
幽霊は私に話が通じないことも承知の上で語り続けている――きっと「誰かに悩みを聞いてもらってすっきりしたい」という思いがあるのだろう。私も昨日、瑞月さんに愚痴を聞いてもらった身だから分かる。
やがて彼女の唇の動きが止まった。
小さく会釈されたため、私も頭を下げる。




