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【4】



「蒼唯さん……職場で女とイチャつくとか、勘弁してほしいんですけど?」


 傍から見れば、瑞月さんと私は至近距離で見つめ合っていた状態。

 咄嗟に距離を取った。

 緊張で変な汗をかいてしまった私と対照的に、瑞月さんは涼しい顔をしている。


「朔也こそ、ちょっとは空気を読んでほしいなぁ。いいところだったのに」

「どこが。相手、完全に戸惑ってるじゃないですか」

「えー。璃乃さん、愛らしい顔で僕を求めてくれていたと思うけどな」

「言っときますけど、そういうのってセクハラですから。他人の肩とか頭とか、ベタベタ触るのもやめた方がいいですよ。イケメンだったら何でも許されると思ってると、そのうち足元をすくわれます」

「誰彼構わず触れているわけじゃないよ? 男女問わず、自分に対して好意的だなーと感じた相手にだけ。朔也はずっと僕に付いてきてくれるから、特別にハグしてあげよっか?」

「……うざ。もう璃乃も分かったよな? 蒼唯さんが面倒くさい人だってこと」


 はい、納得しました。

 私が二人に対して抱いた第一印象は、おそらくどちらも間違っていた。

 小鈴さんは意外と優しくて、瑞月さんは意外と腹黒い。

 とはいえ瑞月さんがカフェに注ぐ情熱は本物のはずだ。私はあくまで従業員として、適度な距離を取って接していこう。


「ところで朔也、仕入れは大丈夫だった?」

「今日は楽でした。どうぞ」


 小鈴さんが差し出したのは五百ミリリットルサイズのペットボトル。中には液体でなく、煙草の煙のようなものが入っている。この煙が死魂だろうか。瑞月さんはペットボトルを調理台に置くと、ぱちんと両手を鳴らした。


「さぁ、そろそろお昼ご飯の時間だよ。朔也も一緒に食べるよね?」

「はい。メインは肉希望で」

「了解。すぐ用意するから、璃乃さんと二人で仲良く待っていてね」


 小鈴さんの後に続いてキッチンを出る。昨夜食事したテーブルに着くと、小鈴さんはスマホを触り始めた。私は特にすることもなく、ぼんやりと窓の外を眺める。鮮やかな青色の空に、綿菓子のような雲が浮かんでいた。いかにも初夏らしい快晴だ。


「――あんた、身体に異変はないか?」


 小鈴さんからの問いかけで我に返る。

 正面に座る彼はいつの間にかスマホを置き、こちらを見ていた。


「蒼唯さんの〝言霊(ことだま)〟……〝おまじない〟とか説明してあるんだっけ? あれ、少しだけど身体に負担をかけるから」

「眠くなるという話ですか?」

「そ。あんたの宿す霊力は俺たちに比べてかなり小さいから、しばらく眠くなりやすい日が続くはず。しんどくなったら蒼唯さんに言った方がいいぜ? 半ば強引に働かせることにした感じらしいけど、本気で拒否すればちゃんと解放してくれる」

「昨日『頑張って働く』と宣言したばかりですし、今のところは大丈夫です。まだちょっと怖いですけど」

「蒼唯さんのこと?」

「違いますよ。怖いのは幽霊です」


 いくらお客様と言われても幽霊は幽霊。何かの拍子に呪われたりしないかと疑念は残ったままだ。正直にそう話すと、小鈴さんは中指でくいっと黒縁メガネを持ち上げた。


「ひとつ例え話をしてやるよ。殺意を持った男がナイフ片手に、これから街へ繰り出すとします」


 とんでもない例え話が出てきたな、なんて思いつつ「はい」と返した。


「その男にはA子という恋人がいましたが、A子が浮気して別れることになりました。男は憎しみを募らせています。さて、ナイフ片手にどこへ向かうでしょうか」

「A子さんの自宅? 職場とか学校で待ち伏せ? もしかしたらA子さんの浮気相手を探して、そっちを刺そうとするかも」

「ありがちパターンで言えばそうだけどさ。他者の思考回路を〝読む〟のは簡単なようで難しいぜ? 卑劣極まりない通り魔もいるだろ」

「つまり……恨みの対象であるA子さんのところには行かず、街で無差別殺人するかもしれないってことですか」


 A子さんを恨んでいるからといってA子さんだけ(・・)を殺害するとは限らない。犯人に明確な動機・憎む相手が存在していて、自分は無関係だとしても、被害に遭う可能性がゼロという証明にはならない――そんな趣旨の例え話だった。


「けどさ。どんなにムカつく奴がいても、大多数の人間は殺人を犯したりしないよな?」

「……確かにそうですね」

「霊も同じだよ。気に入らない相手がいても、何の危害も加えない奴がほとんどだ。もちろん中には手を出す霊もいるけど、大抵は〝狙う対象〟がいる」


 例え話に出てきたような無差別殺人鬼の幽霊に遭遇してしまわない限り、呪い殺される心配は少ないのか。逆に、恨みを買うようなトラブルを起こせば危険度も上がる――これは生きていても同じ。


 納得したところでトレイを持った瑞月さんが現れた。昼食のメインはチキンのバジルソテー・トマトソース添え。バジルとトマトは瑞月さんが自家菜園で育てているものらしい。

 こんがりと焼けたロールパンにバター、トマトたっぷりのミネストローネ。昨夜の食事からトマト率が高いのは、今が収穫時だからだという。


 美味しく食事をいただいたあとは作業分担。瑞月さんは裏庭での水やり、小鈴さんは食器の片付け。私は床掃除を任された。長い柄のフローリングワイパーを手に、まずは二階廊下。


 二階を出入りする人間は私たち三名のみ――昨日も拭き掃除を行ったため、さほど汚れていないだろうと思ったのだが。廊下を一往復しただけでフローリングシートが真っ黒になってしまった。こんなにも土埃が落ちているとは。


 一階へ戻りシートを交換していると小鈴さんが通りかかった。彼の視線が私の手元に向く。


「汚いと思っただろ」

「そうですね。土足で廊下を出入りするとこんなに汚れるんだなって。びっくりしました」

「俺たちのせいじゃない。その汚れのほとんどは霊の(けが)れだ」

「穢れ?」

「霊体はマイナスの気を発している。それが汚れとして蓄積する」

「は、はぁ……」

「この建物は毎日霊が入ってくるせいで汚れやすい、ってことだけ覚えとけばいい。毎日拭き掃除しないと真っ黒に染まる」

「分かりました。気を付けます」

「そういう意味じゃ、あんたが来てくれて助かったと言えるな。楽できる」


 新品のシートに交換後、再び二階へ。

 廊下と階段、続けてギャラリースペースへと踏み込んだ。


 フローリングワイパーを前後にスライドさせつつ、ギャラリー中央を陣取っているテーブルの上――ブックスタンドを見下ろした。レオナルド・ダ・ヴィンチ、フェルメール、ミレーなど、美術に疎い私でも知っている有名画家の画集が目立つ。瑞月さんの趣味だろうか。


 壁に展示されている絵画にも目を向けた。大小合わせて十枚。中には見覚えのある作品も存在した。たとえば、少し退屈そうな面持ちで頭上を見上げている二人の天使――レストランかどこかで見たことがある。


「――その絵は《瞑想にふける天使たち》」


 はっとして振り返る。

 雑巾を手にした瑞月さんが立っていた。

 人が近付く気配などなかったのに……まるで幽霊だ。


「すみません、すぐ床掃除に戻ります」

「慌てなくていいよ。その絵に興味がある?」

「興味というか、見たことのある絵だなって」

「有名だからね。ラファエロ――約五〇〇年前、盛期ルネサンス時代に活躍していた画家の絵だよ」


 ここに描かれている天使は、大きな絵画の一部分をくり抜いたもの。全体像は《システィーナの聖母》という聖母マリアの祭壇画らしい。この絵を含め、店内に飾られているものは全て宗教絵画の複製。聖母マリアが描かれているものを中心に集めたそうだ。



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