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弟を異世界に帰そうと思うが、俺も連れて行け  作者: 2991+


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7/8

俺達に足りないものは


 履歴書を買いに行くと言った母親は、昼になっても帰って来ない。

 そのままスーツを買って身仕度を整え、面接に雪崩込んだ可能性を信じていた。誰しも、悪いよりは良い方の憶測を信じたい。

 だが、親の目がないからとおおっぴらな特訓に明け暮れた彼らにも、さすがにもう異常は理解できていた。


『おい…そろそろ慌てるような時間じゃないのか。クソッ、西日が暑い』


 焼けつく西日に直面しがちの彼らの居場所だから、通常は母親が早めにカーテンを閉めに来てくれていた。暑いだけでなく物凄く眩しいので、母親がぼんやりしていたり鬱々と泣いていたりして気付いてもらえない時は、冗談抜きでキツイ。

 ちなみに忘れ去られていたときには、兄であるうみんちゅが閉めに行っていた。意識を遠くに飛ばしながらも母親が近くにいる場合などは、かなり高度なスニーキングミッションになる。


(…ああ。残念だが、これは…母親の身に何かが起きたようだな)


 事故か、事件か…はたまた全てが嫌になって投げ出してしまったのか。

 母親が投げ出してしまえば、か弱い乳児の命などひとたまりもない。…だが、それを理解して思い止まれるほど、彼女は正気でいられただろうか。


『とはいえ我々が母親のためにできることなど何もない。行き先もわからんし』


(冷たいかもしんないけど、そもそも俺達、まだ言葉が喋れないからなぁ。腹減ったし、ミルクでも作るか、とりあえず)


『それが良かろう。待て、水は入れてやる』


 ポットの蓋が開き、中の残り湯が消失。続いて宙に水の塊が現れてポットの中へ。やまんちゅの魔法サポートだ。黙って待っていられるほど、実は心の余裕がないのかもしれない。

 うみんちゅは自力でベビーベッドの柵を握って伝い降りる。既に握力も、赤子にしては馬鹿にできないレベルに育っている。小さな手でポットの蓋を閉め、沸騰ボタンをオン。


 室内で活動するのは基本的に、うみんちゅの仕事であった。

 室内の諸々について把握しており、説明書がなくとも概ね使い方がわかる者。家具転倒などの万一の危険には、後衛やまんちゅの魔法サポートが飛んでくる手筈となっている。


(えーと、ミルクは付属のスプーンに…あれ、月齢……俺達って今いくつだ?)


『知らん。暦もわからん』


(暦は教えたじゃんよ。んっと、今日は七月二日ですぜ、今朝テレビで言ってた。もう夏だなー)


 冷たい弟の言葉に傷付くでもなく、うーんと彼は考え込む。

 己が己を自覚した日。あれは一体いつのことだったか…。

 あの頃は…ストーブが稼働していて、冬だったような…そうだ、カレンダーは既に三回は捲られたはず。二ヵ月で一枚の奴がだ。


(待て待て、よく考えるまでもないじゃないか。歯が生えてます、俺には)


『それがどうした。私にも生えてるぞ』


(…でも…俺達、まだ乳児なんだよな?)


『…どうしたんだ。ミルクを飲んでいるのだから、そうなのでは?』


 弟の如何にも何が疑問なのかわからないという声に、思わず彼は自分の小さな前歯を舐めた。

 前世は子持ちではなかったから、赤子の成長についての知識はなかった。だからといって、ちょっと油断していた。


 歯が生えているということは、つまりは離乳食が食べられるということだ。

 なのに母親からは、ミルクを与える以外の選択肢がまるで見当たらなかった。離乳食という存在を知らないのでなければ、既に少しおかしくなっていたのだと言えよう。


(なんてこった…俺は見誤っていたんだな。徐々に育児放棄されてたから、うっかり状況に慣れちゃっていたのかも)


 下手に我慢できたり理解できたりするのが、まずかったのかもしれない。

 赤子として本能に従っていれば、不快だと泣いたりもできたのだろう。だが、彼には母親の様子を把握して我慢するだけの知性と、泣くことを無駄だと断じるだけの経験があった。


 今は一体、どんな状況なのか。

 わかっていると思っていたものが、実は間違っていた。母親がとっくに限界を超えていたのなら、現状は思っているよりも悪いはず。現実をきっちりと知らねばならない。


 まずは弟のために、その辺のタオルで包んだ哺乳瓶に粉ミルクをこぼしつつ入れ、ポットの後ろへ回ってから湯を注ぐ。

 湯が跳ねたりこぼれたりするが、鉄壁のタオルガードは伊達ではない。全てを吸収する。


 小さくて不器用な手で哺乳瓶の蓋を閉め、一生懸命に振る。

 ちょっと上から飛び散ってしまうが、タオルでもこもこした瓶を、軽く揺するように振るだなんて器用なことはできないのだ。


(まだ熱いからな。もうちょい、ぬるくなったら飲めよ。がっつくと火傷するから気を付けろ)


 言い添え、背伸びで四苦八苦しつつベビーベッドの柵から哺乳瓶を差し入れる。

 弟は「うむ」と鷹揚に頷き、受け取った瓶が柵の隙間を通りやすいようにとタオルを捲る。


『まぁ、そんなのは魔法で温度を下げ…ぴっ!』


(なんでタオル剥がしたんだ、瓶熱いぞ)


『謀ったな、うみんちゅ!』


 ふよふよと哺乳瓶は浮かび、柵の上を通って弟の元へ。半目でそれを見ながら、もっと身体を使う訓練をするべきではないかと苦言を呈する。


(初めてでもないだろ。ちゃんとタオルに包んだまま渡したのに…あと、出来ることは手でやれってば。指の運動だって必要なんだぞ。前にこの世界は魔力が薄いとか言ってたじゃないか。魔力が底を尽いたら、いざという時に困るだろ?)


『常に周囲から取り込むようにしている。この世界のあまりに大味な魔力など、もう探求し尽くしたわ。初めてお前に魔法を放った際、あまりにも魔力が回復しなくて驚愕したからな。かように吸収効率の悪い身体がこの世界の当たり前だとは、何とも難儀なことよ』


 小馬鹿にするように顔を歪めるやまんちゅ。心配する兄の心、弟知らずであった。

 しかし現状把握のほうが大切だと知った今、彼は弟の火傷も気にせずに室内に現実の手がかりを求める。防御力などド底辺の紙装甲な赤子とはいえ、ちょっと熱いものを触ったくらいでは死なない。

 対して、保護者の喪失は命の危機と直結する。


(新聞は…取ってないんだよね…。まぁ、それは知ってた。母親が着替えたり喚いたりするのは主に向こうの部屋だから、何かあるならきっと向こうだよな。ちっと探検してくるわ)


 幸いにも引き戸だ。更には閉め切られずに少し開いていたので、魔法サポートがなくとも侵入は容易だった。握力の見せ所だぜ!と言いながら戸の縁を掴むと、隙間に身体を押し入れるようにして開け、隣室へと滑り込む。握力とは何だったのか。

 彼らがいたベビーベッドは、今はリビングにある…というか旦那が帰らない生活に怯えた母親が、己の主戦場へと移動させてきていた。赤子達へと語りかけながらの家事で気を紛らわせていたのだ。

 お昼寝や夜間にきちんと睡眠を取る場合には四畳半もないような部屋に移され、床に敷いた布団に全力でゴロゴロする格好だ。


『おい、そのドアはフルオープンにせよ。あまり見えぬところへ行くでないぞ、危機に気付けん』


 魔法で出したらしい氷を握りしめ、弟が声をかけてくる。火傷は無事に冷やせたようだ。

 隣室に入った彼は、思わず「無理かも」と言いそうになるのを堪えた。

 結構ゴチャついているし、赤子の背丈ではオープンにしたところで戸口から部屋の全貌が見えない。

 ましてや、やまんちゅのいるベビーベッドという狭い場所からでは尚のこと。こちらの様子なんて全く見えないに違いない。


『聞いているのか、こら、うみ!』


 赤子テレパシーならぬ意思疎通の調教魔法は、隣室へも問題なく届くようだ。

 今後はこの使用距離についても確認しなくてはならないかもしれない。不意の忘却に汚染されるまではと心のメモ帳に記入しておき、心配性の弟へと声なき声を振る。


(おー、聞いてる聞いてるー。それよりどうよ、ミルクは。飲めたかね)


 わざとのんびりした声を返す。

 何を言われたとて、ここで持ち帰る情報が、イコール自分達の知り得る全てとなってしまうのだ。弟にブーブー文句を言われたとしても、今は探索を優先するべきだ。

 少なくとも、彼はそう考えた。


『…まだ無理だな。タオルのせいか瓶が冷めにくいのだが、取ると熱くて持てぬ。中身はそろそろ飲めるのではないかと思うのだが…』


(あー。了解、油断するなよ。そちらも引き続き頑張って)


 ミルク自体が適温なら、瓶を浮かせたらどう?という言葉は飲み込んだ。探検場所の足場も悪くなって集中力が必要になってきたし、互いに中身はゼロ歳ではないのだ。あちらのことはあちらに任せよう。

 洗濯済なのかどうかも謎の衣類の山を乗り越え、時に開けっ放しのタンスの引き出しをよじ登り、険しき道をひたすらに進む。その姿、まさに修験者。


 そうして五感を駆使して得た情報によれば、ここはどうやら夫婦の寝室。しかし衣類その他の収納も兼ねており、中でも夫の所持品が多数を占めているようだ。


 …まるで泥棒が入ったかのように、あまりにも荒れている。

 そこからも、旦那が帰宅しなくなってからの母親の心理状況を把握することができた。

 これはもう、どう見ても不安と怒りの所業である。

 普段は見えない場所だから、ここまで荒れていることなど知らなかった。二人の息子だけでなく、扉一枚を隔てたこちらで、母親はスクスクと狂気を育てていたらしい。


 奥底に仕舞い込まれた忘れられしジャケットから、幾ばくかの現金を入手。

 見慣れた硬貨にホッとする。実は日本と見せかけた並行世界で、見知らぬ貨幣が出てくるというオチも、微粒子レベルでの存在を疑っていた。うみんちゅは慎重派なのだ。


 隠しているつもりなのか、不自然な隙間に押し込まれていた通帳を発見。何の気なしに開いてみると、残高は大きくマイナスだった。

 自らの口と鼻の穴がほわわと広がる感覚を、どこか遠くに感じる。

 記帳が最近の日付であることを見て背筋がゾワッとなる。

 更には隠すかのように一つの鞄に押し込められた請求書の山が発掘された。


(ピェッ、こ、これ支払ったのかな? …電気、ガス、水道…ライフラインがヤバイ)


 請求書の山を検分していると、督促状まで出てきた。

 請求を無視し続けないと督促状にまでは至らないのではないか。だが、それすらここに詰め込まれているのなら、やはり母親は現実からは目を逸らしたということなのだろう。

 発行日の順も滅茶苦茶に押し込まれているが、どれも支払っているとは思えない。マイナス云万円の通帳、届き続ける督促状、生活費を入れぬ父親。そして働けぬ二児の母。

 手元に僅かの小銭があったところで…生活の破綻が、すぐ背後まで迫っている。


(うーん…俺でも失踪するかな、これは)


 パートやアルバイトといっても、労働の対価は翌月払いが殆どだろう。こんなギリギリになってから働き始めても、もはや手遅れといえる。

 …母親は、今朝のどこかの段階でそれに気づいてしまったのかもしれない。


 ここまで悪化する前にどうにかならなかったのだろうか。

 そんな疑問がふと浮かぶ。

 こうなる前に取れる手段は幾つかあるのではないのかとどうしても思ってしまう。

 公的機関には頼れないのか。帰らぬ夫に見切りをつけたなら、離婚はどうあれ、母子を補助するような機構はないものか。或いはここに至るまでに、もっと早くに、子供を預けて働く手段や場所はなかったのだろうか。

 うみんちゅの口元には、裏腹に自嘲が浮かぶ。


 …なかったのだろう。

 少女と言っていいような顔をした、今生の母親を思った。

 親兄弟、友人知人、自治体などの公的機関まで…断られたのか、考えもつかないのか、そもそも知らないのか。何にせよ相談できて手を差し伸べてくれるような相手がいれば、ここまで悪化はしていないはず。

 彼女は、今朝、何かが振り切れてしまうまでは確かに子供を愛していたのだから。


『何があったのだ。今、お前に失踪されても困るぞ。…放置すれば私は確実に死ぬぞ。死ぬからな。嘘ではないのだぞ、心せよ』


(だよねぇ。っていうかお前それ、フフフ、何の脅迫なのよ。まぁ、俺は失踪しないけどね)


 うみんちゅは赤子としては異常にパワフルに動き回れるが、ドアノブには手が届かない。現在は物理的な問題として、単体で玄関から外に出ること自体が不可能だと言えよう。

 扉を開けたところでここはアパートの二階である。


 赤子が一人でえっちらおっちらと後ろ向きで階段を下りているのが見つかれば、流石に捕獲か通報されてしまうだろう。室内に片割れを残したまま、親切な第三者によって連れ去られてしまえば、残された方は死亡確実。

 人目を避けて何とか階段を下りられたところで、車の行き交う道路が目の前だ。横断歩道でスーパーハイハイしても、信号が赤になる前に渡り切れるかどうか…。

 そして諸々を乗り越えてどこかにある職安の地へ辿り着いたところで、意思疎通と就労年齢のぶ厚い壁が立ち塞がる。


 日本でも異世界でも、どこであろうと赤子が保護者もなしに生き抜くことは難しい。母親が帰宅しない以上は、確実に別の大人の力が必要である。

 父親はもう月単位で帰宅しないうえ、双子にとっては一度も顔を見たことがない相手なので、頼るなど論外。毎朝見るテレビのニュースキャスターよりずっと遠い存在である。

 求む、早急な太スポンサー。


(この俺がパパ活を羨む日が来ようとはな…)


 部屋の中のものだけで今を生き延びられて、だからってどうなるというのだろう。

 …粉ミルクが尽きても、両親が戻ってくる保証はない。如何に節約してもカビる可能性もある。

 支払いの滞ったガスや電気はいつ止まるのか。もしそうなればお湯を作ることすら難しい。水道は魔法で代替されているため、正直あまり使用していないが…水ではミルクも溶けないだろうか。

 室内の物を苦慮して集めたところで、使い尽くした時には、再び今と同じ…いや、より悪化した苦境に陥るだろう。恐らくはそれがまさに、今朝失踪に至った母親の現状といえる。


(せめて俺が大人だったなら…)


 前世トレースだけの人生なら、正直彼は、独りここで潰えたところで構わなかった。希望なんて抱いても仕方がないし、苦境も少なくて済む。

 だが、弟はそうではない。


 元王子だという魔法使いは、ネグレクトされるなんて体験は初めてのことだろう。「亘辺 庸輔」が死んだ時からどれだけの時間の開きがあるかは定かではないが、失踪した母親を見れば然程時代の流れや差を感じられない。

 知識は、弟の役に立たせることができるのだ。

 彼には一般的な知識も常識もある。排除されない程度の、世間に溶け込むコミュニケーション能力も。


 …足りないのは、大人の身体だけ。


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