母、旅立ちの時。
置かれた状況は悪い。
ついに父親は帰宅しなくなり、母親は日々疲れた顔で泣いている。
皿屋敷が如く、足りない足りないとしきりに何かを数える声を上げ、届いた郵便らしき何かに怯えては奥の部屋へとしまい込みに行く。
そして彼女は時折、思い出したように赤子の世話をした。
「うみクン、やまタン、ごめんねぇ。本当に、手のかからないお利口さん達ねぇ。こんな、こんなにいい子なのに、お父さん、会ってくれなくて…ごめんねぇ…寂しいよねぇ…」
母親の弱音を横目で聞き流す、無表情のやまんちゅ。母親との感情の落差が激しい。物凄く無の表情であった。
とはいえ、彼には日本語が理解できていないので、致し方ないことではある。
決して世話が足りないせいで、好感度が低いわけではない。
親が気付かずミルクが来ずともオムツが汚れようとも、彼らは夜泣きどころか昼泣きもしない。
実に耐久力のある赤子達であった。
自らも正しい発声ができない身ゆえに早々に言語習得を諦め、日本語レッスンは相変わらずヒアリングから詰まっているやまんちゅ。
優秀な通訳がいるからいいやとばかりに両親への無関心を貫いている。しばしば暗い顔で泣く母親からは、媚びて会話を引き出すのも嫌なようなので、何かのプライドが邪魔をしているのかもしれない。
早々に要領を得ない母親との会話を放棄し、うみんちゅへ状況を確認しようと口を開きかける。
しかし兄たるうみんちゅは、キャハッと小さな声を上げ母親へ向けて笑顔を作ったところだった。
正しい幼な子とは何たるかを、見せつけてくれる。そんな意気込みの彼を、片割れは恐怖に戦いた顔で見ている。
(馬鹿、落ち込んだ母親くらい慰めるのが、子供の役目だろうが)
『…しかし、お前。今、キャハッて…』
(う、うるせぇな。うまく出ませんのよ、可愛らしい声がこれしか!)
名がう段の男うみんちゅにとって、現在は一番発しやすい声が低音での「うんばー!」であるため、若干ジャングル奥地の部族っぽいウンババ感がある。
赤子とて個人差があり、おんぎゃーの発声はなかなか難易度が高い。可愛らしくと縛りが付けば、なりふり構わぬ声も発そうというものだ。
ちなみに、あ段の男やまんちゅは「もぼー?」が一番発声しやすい。当たり前だが、名の母音が何であろうと発しやすさとは関係がないようだ。
うみんちゅの努力に母親は喜び、嬉しそうに赤子を抱き上げる。
うみんちゅはやり遂げた清々しさをしっかりと胸の奥に隠しきっている。大きなおめめをパチパチとさせ、純真無垢な赤子を装うことなど、何の手間でもない。
そうして勇気付けられた母親は、涙を拭い、断言。
「うん。うみクンもこんなに応援してくれているもの。決めた。お母さん、これから働きに出るからね。生活費が、もう、ダメなの…。じゅんクンのことは…も、もう、諦めるよっ」
(………エッ?)
明日からでも、二人の乳児を家に放置して仕事を始めると、胸を張って言う…。
母親はどこまでも残念な子であった。
お金がなければベビーシッターなど雇えようはずもない。当然だが、生活にも困る状況なのに、シッターなど頼む余裕があるはずはない。
だが、それでも…母親は、全く問題を理解していない様子だ。
これは元々の思考がアウトなのか、自分達がクリーチャーを育ててしまったのか…と、うみんちゅは悩む。
説得できる手段などないが、あまりにも考えがお粗末すぎる。そのうえ決断に全く迷いがないというのは考え物だった。
もう少しか弱さをアピールしておくべきだったか、と後悔してももう遅い。
下手に耐久力を見せたせいで、赤子とは多少放置しても生きていけると思い込んでしまったのかもしれない。
(ここまで来ても、実家が頼れないタイプなのかぁ…苛酷だわ)
『…何なのだ、あの女は何と言った?』
(帰ってこない旦那は諦めて働くって。金がもうないって。道理でオムツをなかなか換えないわけだ。節約もあったんだろうなぁ)
『…我々はどうなるのだ。今でさえ、スラムの子供のような劣悪な環境なのだぞ』
不安げに言ってみるものの、やまんちゅは元王子様なのでスラムの子供の生活など実は何一つ知らない。
白熱した兄達の王位争いのせいで命を落とした以外は、マイペースにやりたいことだけをしようとした人生だった。
暴君やまんちゅ、何気ない顔をして見せているが、実は兄というものが一番のトラウマだったのだ。今生では大した時差のない兄弟であるせいか、「これは兄ではなく、うみんちゅという生き物」と判断。トラウマはコツコツと克服していた。
元は売れっ子キャバ嬢に育てられた現代日本出身のうみんちゅも、一時的に暴力や飢えに曝される体験はあっても、常時の危機は特になかった。
されて嫌なことはしないので、暴力を振るう側になることもなく…盗みを働いたことなどないし、他人から何かを力ずくで奪い取ったこともない。
そもそも母に育児を忘れ去られるだけで、極貧生活というわけでもなく、物資はそれなりに供給された。祖父母の元に預けられてからは尚更である。
(オムツ交換の頻度は今よりも下がるだろう。彼女が今よりも目を離すんだ、布団が犠牲になる日も近い。尊厳は犠牲にするしかないが、どっちのブツが付いても恨みっこなしだぞ。ミルク代にはかえられん)
なぜこんなことに、と弟は頭を抱えた。
肌着もタオルケットも、…実は結構長いこと洗濯されていない。風呂も入れてもらえていない。
元王子の生活魔法『クリーン』だけが、かぶれからベビースキンを守る唯一の命綱だった。
(何の因果かはわからないけど、お前とペアで生まれたのは幸いだったな)
言葉も状況もわからないものの魔法が使える異世界人と、状況把握はできるものの改善手段のない一般人だ。幾ら双子であろうとも、もし片方が純然たるバブー思考の赤子だった場合には、このように世間話で気を紛らわせることすらできなかったはず。
何者かの作為を感じないわけにはいかなかったが、お互いに神様的な声を聞いたことは一度もない。
そうである以上は、どのような理不尽にも悪態を付きつつ立ち向かい、ただ生き延びるしかなかった。
ブーンと羽音を立てて近付いてきた蠅が、ばちりと小さな紫電に撃たれて墜落する。局地的な風が吹き、それをゴミ箱の上まで飛ばしていった。
やまんちゅの魔法による攻撃だ。
慈悲はない。哺乳瓶にすら消毒が必要な赤子にとって、バイキンまみれの蠅は襲い来る魔物に等しい。
『…そうだな。この世界は魔力が薄い。お前が早めに魔力を育てることを提案しなければ、私も赤子の身体を酷使してまで魔力を伸ばそうとは考えなかった。あれがなければ、今頃我々は病に倒れていてもおかしくない』
先見の明を持つ兄によって、母親がまだ子に手をかけられるうちにと、やまんちゅに意識を失うまで魔力を使わせるスパルタ教育が行われた。
初めは文句タラタラだった弟だが、その効果は目覚ましい。
今となっては身綺麗に保つための生活魔法二人分を安定して使いこなす衛生エキスパートである。
(いいなー、俺も使いたいよぅ、魔法…)
うみんちゅはベビーベッドの柵に掴まり、ギッシギッシと屈伸する。運動も大切なのだ。
決して兄ひとりが楽をして遊んで過ごしていたわけではない。
『魔力の流れは感じられるようになったのだろう。頑張れ』
(頑張る。クリーン一人分、一回でも使えたら、お前の負担も減らせるしな)
なんと、うみんちゅは魔力というものを理解できるようになっていた。
日本人夫婦の間に生まれた双子の弟が使えるのならば、自分にも…。そう意気込んだ彼は頭を下げ、弟に弟子入りしたのだ。
双子の不思議パワーなのか、両手両足をくっつけて魔力を兄へと循環させてみたところ、兄のほうも全身で魔力を感じることができるようになった。
しかしまだ感じ取れるだけ。結局は「フーン、これが噂の…」と訳知り顔で呟くことしかできなかった。
互いの関係が悪くないことだけが僥倖。
彼をお兄ちゃんとして敬うことで現代日本の知識と通訳を手に入れた弟に対し、弟子入りすることで現代日本では手に入りようもない魔法、その序も序の口の魔力を感じ取れるようになった兄。
赤子パタパタ相撲の結果、互いを敬うという口約束をしたことで、彼らはようやく対等の仲間という立場になったのである。
さて、無情にも夜が来て、朝が来る。
望もうと望むまいと、放置系ツインズを更なる放置へと誘う太陽が空へと輝いた。
時は午前六時五十五分。
目覚まし時計の姿を模したキャラクターが、テレビの中で時刻を繰り返し叫んでいる。
目に見えない危機に注意を促すかのように甲高く、やけに耳につくそれは、まるでこれから起こる彼らの運命を示唆しているかのようであった。
「うみクン、やまタン。お母さん、履歴書買ってくるね!」
キリッと顔を上げた母親…伸びてプリンな髪はバサバサ、化粧もせずに、少し臭う服を纏う。
徐々に旦那が家に金を入れなくなり、それでも相手を信じ、節約に節約を重ねた結果の姿だった。
かつては仲間内で可愛いと持て囃されたはずの顔には疲れと病みの色。
新婚だと思い描いた幸せはあっという間に手の中から滑り落ち、不安とストレスから不眠を発症。肌は荒れ、外見年齢さえ上がっている。
如何に子供達が普通よりも手のかからない赤子とはいえ、彼女は同時に二人の子を生み、休む間もなく家事の傍らに育児をしていた。旦那の理解どころか助けは何もなく、実母も義母も補助はない。
出産後すぐから完璧にと家事労働を求められ、責められながらそうせねばならなかった彼女は、身体的な疲労とて限界。まともな思考などできる状態ではなかったのだ。
心にだけでなく、若さだけでは抑えきれぬ身体的なダメージも負っている、母親だった。
眩しい朝日の中へと笑顔で旅立った彼女は…
テレビを付けたまま、扉の鍵をも開けたまま、二度とこの部屋へ戻ってくることはなかった。
(マジすか、おかん…)
母、失踪。
うみんちゅの小さな双肩に、弟と二人分の人生が遠慮なく乗せられた瞬間だった。




