…エッ? お前今光った?
相手に近づこうにも、まだハイハイもできない。
それどころか、寝返りさえも打てない。何とか身体をそちらに向けようと試みたが、めいっぱい開いても幅5センチにも満たないような小さな手では何も支えられない。
儘ならぬ身体は相変わらず意思に反して、気付けば小さなお口が開いており、つまりは存分に口内に毛布を味わってしまい、こちらも思わず眉間に皺が寄る。
おかーさん、髪の毛落ちてる、ちゃんと掃除して。こんな強靭な長毛は、我々のものではない。
(…気を取り直して…。おい、お前! おいってば! テレパシーとかないのかな、双子なんだろ? 双子の不思議パゥワーで会話しようぜ!)
あだー、ぷぁー、と自分の声が響き渡ることに、心ばかりは悶絶した。
過去の己の声が気に入っていたわけじゃない。
だが、だが、コレジャナイ…。こんなの俺ジャナイ…。
拳を床に叩き付けたくとも、実際には身を起こすどころか、軽くイヤイヤをする程度の動きしか叶わない。
(精神ダメージ…大きいな。自分の口から「あだー」って。俺、もういい大人よ?)
残念だが、赤子だった。
心と身体は裏腹という奴だ。早い段階で転生を受け入れた割には、「いいや、これくらい、絶対に出来ていたはずのことなのに!」と失われた矜持へと縋るばかりが尚悲しい。
これがベビーというものか…そんな無情を思い知る0歳児。あまりにも早い達観。
「あらあら、うみクンどうしたのかなぁ。やまタンと遊びたいのぉ?」
「へぷッ?」
ツインズパワーより母親の勘か、がっしりと少女は彼を抱き上げ…むぎゅりともう片方の赤子の隣に押しつける。
力強きは母の愛。
そして、ころころしている身体が禍したのか。安定の良い場所を探して、むぎゅりは一度では済まず、ムギュッギュギューくらいの圧を生んだ。
それが如何な悲劇であるかは、本人のみぞ知る危機であり、つまりは…
「やまタン、お兄ちゃんですよー」
(ち、近い! 馬鹿お前、コレ男だっつってたよな、やめろ、距離が! ふおぉ、チューしちまうだろうが! イヤアァ、赤子の時点から黒歴史スタートはイヤアァァ! 謝る、ビッチ呼ばわりは謝るからぁ!)
丸いおめめをこれでもかと見開いて、彼は心の中で絶叫していた。
切なる祈りが天に届いたか、もそりと相手がそつなく顔の向きを変える。
何とか唇が触れ合うのを回避した。
(ぅおお、よくやったぞ、赤子テレパシー!)
頬には熱烈にぶっちゅうしてしまったが、親しみを込めたロシア式の挨拶と思えば些細なこと。
0歳にて弟にヨダレまみれの高度なファーストキスを捧げることに比べれば、靴下の毛玉くらいに些細なことでしかない。
(なんせ毛玉は靴を履けば見えない。見えないならば無いも同じ、だからな!)
靴下の穴も軽度であれば同様だ。重度はダメだ、指がはみ出ると歩行時の違和感がスゴイ。
そんなどうでもいいことを考えるくらい、訪れた束の間の平和を全身に感じていた。
そう、黒歴史回避の解放感だ。
危機は去ったかに思われた。
だが、僅かな安堵の間さえも与えず、母たる少女は浮かれた彼の腕を取り…あたかも操り人形のように片割れに向けて挨拶をさせ始めた。
唐突に、カクカクとした動きを、強いられている!
「やぁやぁ、やまんちゅクン。ボクが兄のうみんちゅだぞー」
アフレコ…! いや、名前ッ…こ、このポーズとか…!?
彼の精神は更なるダメージを負う。
わなわなする赤子の表情など顧みられることもなく、ましてや姿勢は淑女の嗜みカーテシー。
遊び半分に捻られた、か弱い関節にかかる負荷が、脱臼の可能性さえチラつかせてくる。割と本気で。
もはやどこに重点を置いて怒れば良いのか、彼にはわからなかった。
だが。何とか絞った。
(こ…の…クソお母様ァ! それが俺らの名前なのか! なぜ、しまんちゅにしない! いや違う、そんなことじゃない。てか純大和顔でお前っ、何ッ…沖縄県民に土下座で謝れえぇ!)
絶対、旅行先が沖縄だったんだろ…そして俺達はそこで仕込みが完了したんだ…。嗚呼、名付けセンス、ゼロ。
そんな諦めにも似た思いを抱き、今生の母にも前世の母との近似性を見出す。
簡単でいい、普通でいい、普通がいい。
言葉を発せぬ子の思いはいつだって、絶対君主な親には伝わらない。親が死のうが、名前とだけは別れられない。幼くとも常に共に在り、成長し老いても尚付き合わねばならぬもの…それを考慮してほしい。
彼の名はうみんちゅ…すくすく成長し、クスクスされながら幾度もの自己紹介を乗り越え、しかし名前に反発して海には近寄らない。
前世より長生きしたのならうみんちゅ爺さん…内陸出身。
老人ホームで「実は泳げないんじゃよ」などという自虐ジョークを常套とする…そんな行きつく先までを幻視した。辛い。
自力で横に転がることすら出来ないけれど、とてつもなく、今、前転がしたい。
もしも自由に身体が動かせたなら、ベビーベッドから軽やかに飛び下りて、どこまでも転がって行けるに違いなかった。羞恥とやりきれなさで。
彼が衝撃のあまり自失している間にも時は流れ、母親は部屋を出て行ってしまった。
現実では前転などできていないので、余裕あるはずの柵の中になぜかみっちりと密着して置かれた体勢のまま、赤子達は微動だにしていない。
弟の眉根の皺は相変わらず刻まれたままだ。
密着ボディが温かい。
そして、妙に湿度が高い。短い鼻腔のせいか、普通にしているだけなのにやけに「フンッ…フンッ…」と呼吸の音が耳につく。
目を閉じると、自分が赤子だったかお相撲さんだったかわからなくなってくるくらいだ。のこったのこった。でも、ちゃんこはあんまり好きじゃな…
慌ててハッと目を開いた。
危ない、寝るところだった、と必死に瞬きを繰り返して意識を維持する。
眠ることと泣くことが仕事の赤さんだけに、油断するとすぐに睡魔がでんでん太鼓片手にあやしに訪れ、意識を拉致せんとする。
(しかし、弟のこの、眉間の皺の深さよな…。クサくもないし…俺、考えすぎなのかな。赤ん坊ってこんな渋い顔するもんだっけ。おーい、皺取れなくなるぞー)
何とか気を持ち直した彼は、弟である『やまんちゅ』の額にそっと手を伸ばした……つもりだったが思い通りにならない身体はバランスを崩した。
勢いよく重力に引かれ、伸ばした手はペチンと軽やかな音を立てて相手の額を叩く。
(あっ…、ご、ごめんな、わざとじゃないぞ!)
ギャン泣きされる未来を予想し、気持ちだけは慌てて弁解モードになってしまう。
現実には動揺ゆえに、逆に慌て顔になるほどの表情筋も動かず、むっつりと片割れを見つめているだけだ。
伝わらぬ謝罪を(脳内で)していると、相手はぎろりとこちらを睨んだ。
泣きもせず驚きもせず、如何にも不愉快そうに元凶を睨みつけてきたのだ。「おうおう何しやがんだテメェこんちくしょう!」という純朴さの欠片もない台詞が脳裏をよぎった。だって弟、そんな顔してた。
これは生後何ヶ月モノではない、年季の入ったメンチだと、前世の記憶が判断する。思わず彼が口許を引きつらせると、渋面の赤子は少しだけ目を見張るような表情を返す。
そしてぷるぷるとこちらに手のひらを向け…。
「あだーだ、うぇう、む、あぅあー?」
何かを、喋った。
一瞬自失した彼は、相手の赤子テレパシーに期待して、自分も口を開いてみる。
「おーおー、うだっだー?」
(お前の、名前は?)
「おんぷ、おーおぁ」
相手は眉根を寄せ、こちらを睨んだ。
しかし、弟は兄よりもお口が緩いようだ。たらりーんとその口の端からヨダレが滴り落ちる。
或いは兄より周囲に気を使わないようだ。粘度の高いそれを纏った手を、無造作に差し出そうとしてくる。躱そうとしたが、素早さが圧倒的に足りない。
「よあゅ! いちゃえーあー!」
(ヨダレた手ぇ! 俺に付けるんじゃねぇよ、きちゃねーな!)
会話になっているのかいないのか。理解できないまま、彼も眉根を寄せた。
お互いに渋い顔をし、見つめ合う赤子。
掛け時計の秒針をBGMに、時間だけが淀みなく二人の間を流れ去っていく。
言葉なくして分かり合うには、共に過ごした時間が短すぎる。
うみは0しゃい、やまも0しゃい。足そうがかけようが0は0だ。なお、母親の胎内で過ごした時間は記憶にないので、数えないものとする。
(…うむ。やはりわからんな。無理ッス)
赤子テレパシーは、ない。
そう判断した彼は、「ほふっ」と溜息をついた。
「…うぇ、あーぁうおぴゃー」
途端に間近で聞こえた謎の音声。しかもやたらテンションが低い。
あまりの意味不明さに彼は笑った。
ついでに息を詰めていたせいで飲み込み逃していたヨダレも、どばっと口外へ溢れ…重力に従い下方へと流れゆく。
(おいおいお前、あの渋面で「おぴゃー」はねぇだろ。笑わせんなって。ヨダレでアゴ冷てぇ…あぁ、赤子ってのは大変…)
含み笑いしながら顔を上げた彼の前で、集まっていく光。
弟がかざす左手に、へろへろとその弱々しい光が纏いつく。
切れかけの豆電球のように頼りなく瞬いて、しかし少しずつ明度を増していく。
(…なん…だ、これ…)
正面の赤子は、ぴゃっと手を振った。
勢いのままに、光は手から放たれてこちらに向かってくる。
…ただし、超鈍足で。
じわじわと迫るような遅さだが、素早く動けない彼には避けられそうもない。
未確認飛行物体。いや、物体か?
光の正体は、不明だ。何かの攻撃なのか、そうでないのか。
常識外の事象。ひたひたと這い上がるような恐怖。固まる彼の小さな鼻先に、光が触れようと…
「…ぅうっだーぃ! おむ、むにゃー!」
(触んじゃねぇ、この不思議物体が!)
彼は光に対して啖呵を切った。
是非回避したい。こんなの、触れたら何が起こるかわからない。
しかし持ち主の言うことを聞かぬ乳児のワガママボディは勢いのままに傾ぎ、自ら光に突撃したうえ相手の肩に突っ込んだ。鼻に触れた気がした光は戦くように、ぱぁっと室内の空気に散った。
その様子を見つめ、弟は固まっている。
(ふざけんな、よくわかんねぇもん放つんじゃねぇよっ、魔法使いか! ずるいわ!)
内心で悪態をつきながら、意趣返しとばかりに相手の服でのったりと(気持ちとしてはごしごしと)ヨダレを拭く。しかし、案外吸水性がなかった。塗り伸ばしただけで、液体は拭われない。後悔先に立たず。
そして、己の悪態の言葉に自身で目を瞠った。
(…魔法使い…。もしかして、俺じゃなくて。主人公は、俺なんじゃなくて。こいつが異世界からの転生者なんじゃないか?)
彼が目線だけでゆっくりと見上げた相手は、ぽかんとした顔のまま。
同様に目線だけをこちらに下ろしていた。




