事故。
「…えっ。まさか我々の職場に何か? そしてさっきもここ通ったけど、さっきはわからなかったん?」
『そうだな…先程までと何か状況が変わったのではないか。地下には何がある? 魔力が流れているのかとも思ったのだが、どうやら少し違う気もする』
地下を流れると言われると排水しか思い付かないうみんちゅだった。上下水道かなぁ、と下水寄りの思いで呟くと、言葉にせぬ部分も伝わってしまったらしい。
容赦ない弟がハッと小さな鼻を鳴らして嗤う。
『…そうか。お前の世界では汚水が力を持つのか。お前の力は汚水力か』
(いや、別に茶化したわけじゃねぇのよ。っていうか急に俺一人の世界にしないでくれます!? 今孤立させましたよね、人類から俺単体を!)
『この世界には、罪はなかろう?』
ある意味サステナブルかも知れないが、自分一人だけ汚そうな世界で生きていることにされ、うみんちゅは弁護人不在の不当裁判へと抵抗した。
付和雷同な男から、合わせるべき周囲を軒並み失わせる非道。
曲がり角から通行人が発生したせいで、顔にも声にも出せないのがもどかしい。
念話で気持ちを話せたところで、身ぶり手ぶりに表情筋酷使、哀れっぽい声での弁解までしてこそ、必死さが伝わる気がしてしまう。全力の抵抗。
そう、これはアイデンティティ喪失への抵抗なのだ。
それにしても、魔法のプロたるやまんちゅが先程までは感知できなかったのはなぜなのか。うみんちゅはどうにもそこに引っ掛かったまま、弟運搬マシーンとして示されるままに歩く。
そして、結局職場に戻ってきた。
往復した時間と体力、完全に無駄である。
「…ホント、なぜここ? 正にさっきまで俺働いてたし、お前もそこで待機してたじゃんよ?」
『うみ、あっちだ』
「はいはい、ただ今」
グイグイと胸元を引っ張る小さな指を軽く叩いて宥める。関係者ではあるからと、関係者以外立ち入り禁止の看板の横を通り抜けた。
そこは普段彼が活動している場所ではない。万一にも事故にならないようにと、不要な人員は立ち入りを制限している場所だ。
立ち回りの分からぬ新人バイトが入れてもらえない場所…目を遣った先では、ショベルカーが元気に土を掘り返している。
「確かに、こっちはあまり来たことがないな。確か、重機を入れるから危ないって…」
「お? 帰ったんじゃなかったのか? 危ねぇからあんまりこっちに入るんじゃない!」
「ヒョッ、すみません!」
まだ仕事中の作業員に叱られた。
咄嗟に謝罪を繰り出した。危険だと言われて普段近付けない場所へ、しかも勤務時間外に、更には赤子連れでいて許されるはずもない。
半ば追い出されるようにして撤退する。関係者以外にも許されるほどの距離を取り、工事区域外からもう一度ショベルカーを見つめた。
「…なんか、分かったか? 気に掛かるのは重機?」
こっそりと弟に問いかける。地面を悠々と掘り進めるショベルカーを見つめながら、やまんちゅは小さく首を横に振る。
やはり地下へと気になる様子を見せながらも、確としたものを掴むことはできなかったらしい。
今後も働くつもりの場所で、周囲の人間に不審に思われるのはまずい。
せめてシフト外の日に差入れ持参でなら…しかし差入れ分の出費なんてまだまだ懐に響く。
気にはなりながらも、大人しく帰宅することにした。
それからまた数日、何事もなく時は過ぎた。
弟分がショベルカーに興味を示したのだと言い訳をしたことにより、誰かのお下がりらしいショベルカーのオモチャがベビーサークルに増えてしまった。
やまんちゅが小さな眉間にシワを刻んで、可動域をじっくりと調べる様がオジサマ方に人気だ。
くれたのか貸し出しなのかは分からないが、振り回したり投げつけるような子供特有の乱暴な遊び方をしないことだけが救いだ。
そして荷物は、本当に、増えないでほしい。
「親が不在とはいえ、いつ何があるかわからないんだから、家にあんまり物が増えてるわけにはいかないんだけどなぁ…。やまに貢ぐなら、消え物だと助かるのに」
実際にはオムツ消費は二人分だ。ミルク以外の食料は、主にうみんちゅが消費することができる。
人手不足の現場で、すっかり信頼されたうみんちゅに常時の監督はなく、一人で出来ることは完全に任されている。近くに似たような作業員はいるが、工事音で独り言などかき消される気楽な職場だ。
しかし限られた人員しか出来ない作業は遅れ気味で、重機との距離も次第に近付いてきていた。
この分では数日は調整に休みが入るな、と考えながら地均しされた場所へとアスファルトを敷き終わり、うみんちゅ本日の業務は終了となる。
各種免許があれば、もっと役に立てるのに。職能手当も付くのに。まだまだ貯蓄など絵に描いた餅。実務経験年数の壁もまた、資格取得を目指すことすら許されない。実は一歳に満たない我が身が本当に憎い。
なるべく作業に関わらせてバイト代を発生させてくれる良い職場なのだが、自分のできることの少なさには不甲斐なさを感じてしまう。
『うみ! 地面の下が妙だ、退避しろ!』
声なき忠告が飛んだのは、その時だ。
咄嗟に飛び退いたのと、前方で作業員が唐突に崩れ始めた地面に足を取られてバランスを崩すのが見えたのは、ほぼ同時だった。
身体能力に自信があるわけでもないのに、助けようと駆け出してしまったのは、弟の告げるそれが外れないと信じていたからだろうか。
へたり込む作業員の腕を掴み、何となく感知する危険の範疇内から退避を試みる。
しかし逆に取り縋ってきた相手の力強さにうみんちゅも体勢を崩した。
それはそうだ…と、どこか冷静な頭の一部が納得していた。
身長でも筋力量でも負けている。
『この、痴れ者がァ!』
物凄い追い風が作業員を掬い上げるように叩きつけ、迂闊な兄を巻き込んで安全圏まで転がした。
うみんちゅは、嵐の日に風に飛ばされる傘の気分を味わった。数秒とはいえ、浮いた。しかも回転した。
息をつく間もなく、地響きを上げて地面がメリメリと崩れ落ち、張ったばかりのアスファルトが破壊されていく。
崩落は止まらず広がり続け、悲鳴のような軋みを上げた重機が大穴の中へと倒れ込んでいった。
無意識に「ヤバッ」と呟いていたが、轟音が響き渡る中とあっては流石に誰にも届かない。
思いのほか深く陥没していく地面が視界の端に入るが、地揺れと自分より大きな体格の男がしがみついてくるせいで動けず、状況が把握しきれない。
しっかりと音と揺れが収まるまで、いや、収まってややしばらく経っても、立ち上がれる人間はいなかった。
普段なら魔法ですっ転ばされたことに、不平のひとつもこぼしたのかも知れない。
マッチョが上から降ってきたので各所に打撲を受けており、青痣ができる確信もある。二回転半からの尻もちはそれなりに痛かったし、既に擦り傷は多数。
赤子サイズに戻れば、恐らく尻全域が真っ青であろう。このままでは仰向け寝は不可能だ。回復魔法をもぎ取る必要がある。
しかし自分の靴先のあるほんの数センチ先の地面から、ガクンと深く抉れたクレーターのような大穴があいているのを見てしまえば、うみんちゅには一片の文句すらなかった。
背筋がゾワゾワするどころの騒ぎではない。
むしろよくぞ吹き飛ばしてくれましたと褒め称えたいくらいだ。回復だけではない安定感のある後衛ぶりに、弟株の上昇が止まらない。
「そんな…、うちの現場で、事故…?」
呆然として呟く作業員の弛んだ手をそうっと外して、うみんちゅは全力のステルスモードでプレハブまで駆け戻って来た。
痛む身体より弟の安否。兄の鑑である。




