第66話:生身の右手と、小さな石炭の火。……冷たい鉄塊(バケモノ)になっても、俺はこの「温もり」を背負って聖都の門を叩く
管理者であるセバスチャンは小さくため息をつき、懐中時計を取り出した。
カチ、カチ、カチ。
正確に時を刻む無機質な秒針の音が、広大な地下空間に響き渡る。
ヴァルたちの決死の足掻きすらも、その時計の針の動きに組み込まれているかのように。
懐中時計の蓋をパチンと閉じる。
彼の眼前にそびえ立つのは、純度100パーセントの黒色魔鉱石。
「魔法とは、イメージ……ですか」
セバスチャンは、誰に聞かせるわけでもなく嗤った。
「そう定義づけるだけで、人類は自ら『論理』を捨ててくれた。魔法という名の特権に酔いしれ、思考を止め、緩やかな死を受け入れている」
失われた科学の残骸の中で、老いた管理者の冷たい瞳が黒い光を反射する。
「――さあ。歯車は回り始めましたよ、ヴァル様」
◇
冷たい雨が、アトランティアの貧民街を容赦なく打ち据えていた。
ここは地下の地熱すら届かない、スラムのどん底。
錆びた鉄板の屋根から滴る泥水が、悪臭を放つ路地裏に深い水溜まりを作っている。
「……っ、ふぅっ、ふぅっ……」
ぬかるんだ泥濘に足を取られながら、ララとルーナが荒い息を吐いていた。
二人の華奢な肩には、絶対的な質量を持った「鉄塊」がのしかかっている。
「すまない、二人とも。俺が……ただの重荷になっている」
両脇を抱えられ、引き摺られるように進むヴァルが、苦渋に満ちた声を絞り出す。
左腕の創世の腕。そして両脚の不動の双脚。
背中のバックパックから繋がる太いケーブルを通じて、すべての電力は充電へと回されている。
「謝らないで、ヴァル」
『……貴方は何も悪くありません』
ヴァルに、ララとレティナの優しく、けれど胸を痛めているような声が響いた。
『モジュールへの電源供給を絶っている今、貴方の身体の半分以上は、ただの高密度の装甲材です。……本当にごめんなさい。私にもっと、効率的な演算ができれば、こんな思いはさせなかったのに……』
「気にするな、レティナ。お前が泣く必要はない」
涙声になる彼女を、ヴァルは唯一動く生身の右腕で宥めようとする。
だが、その右腕すら、冷たい雨に打たれて感覚を失いかけていた。
「重荷なんかじゃない。ヴァルの背中は、私が守るって決めたのよ」
「そうだよ!…これくらい、平気だよ……!」
ララとルーナは強がりを言って笑うが、その唇は紫に変色し、雨に打たれる膝は限界を迎えてガクガクと震えている。
『警告。ララおよびルーナの深部体温が生命維持の限界ラインを割り込みました。重度の低体温症によるショック状態まで、猶予はありません。……このまま移動を続ければ、確実に全滅します』
「……っ! ララ、ルーナ、少しだけ俺を下ろしてくれ!」
レティナの無機質な宣告に、ヴァルは慌てて声を上げた。
泥まみれの地面に降ろされたヴァルは、周囲を見渡す。
路地裏の片隅。廃棄物の山の中に、彼は「あるもの」を見つけた。
◇
「ヴァル、何をするの……?」
不思議そうに覗き込むルーナの前で、ヴァルは生身の右腕を伸ばした。
冷たく重い鉄の義肢が泥に沈み込む中、彼は右手の指先だけで真っ黒な石ころを拾い集め、小さな山を作る。
「これは『石炭』だよ。前にグリット・フォールにもあったろ?魔法がなくても、こいつは熱を秘めている」
ヴァルはポケットから火打ち石と鉄片を取り出した。
指先は凍え、死人のように紫に沈んでいる。感覚のない指から何度も鉄片が滑り落ち、泥に塗れた。
その度に泥を拭い、血が滲むほど強く握り直す。
動かない左腕と両脚の重圧が、容赦なく彼の身体を泥の底へ引きずり込もうとする。
それでも彼は歯を食いしばり、右腕一本で必死に石を打ち付けた。
カチッ、カチッ……!
何度目かの火花が、用意した乾いたぼろ布の端に燃え移った。
細い煙が上がり、微かな赤い光が生まれる。
ヴァルは泥の上に這いつくばるようにして、その小さな火種に右手を添え、優しく息を吹きかけた。
「フゥーッ……フゥーッ……」
雨の冷たさに消えそうになる火種を、己の生身の体温で庇う。
それは、物理演算の暴力でも、プラズマの破壊力でもない。
ただ一人の人間としての、泥臭く、不格好な執念だった。
やがて――パチッ、と甲高い音が響いた。
ぼろ布の火種が石炭へと燃え移り、オレンジ色の炎がパチパチと爆ぜ始めたのだ。
炎の熱気が周囲の空気を暖め、ララとルーナの凍りついた身体を優しく包み込む。
「……あ……火だ……」
「あったかい……」
ふと、背後から掠れた声がした。
振り返ると、廃棄物の陰に隠れていたスラムの子供たちや人々が、吸い寄せられるように火の周りへと集まってきていた。
魔法という特権を持たない彼らが、自らの知恵と工夫で暖を取る術を知った瞬間だった。
『……すごいです、ヴァル。石炭の燃焼効率が上がり、周囲の温度が急激に上昇しています。二人のバイタルも回復傾向へ移行しました』
レティナの声が、誇らしげに、そして嬉しそうに左肩のスピーカーで弾けた。
『貴方の右手が、彼らに『生きるための種』を植え付けたんですね。魔法なんてなくても、人間は自分の力で生きていけるって』
「ああ。……これが俺の、マギレスの戦い方だ」
ヴァルは、赤々と燃える炎に照らされた人々の笑顔を見つめ、静かに確信した。
冷たい鉄に侵食されていく身体。
それでも、この右腕に残された体温と人間性だけは、決して失われていない。
『現在のバックパックの充電率、微細ながら上昇中。……フル稼働限界時間、約300秒を維持しています』
レティナの報告が、彼らのシビアな現実を再認識させる。
戦えるのは、たったの五分間。
その絶望的な条件は何も変わっていない。
「さあ、行くわよ、ヴァル」
「うんっ! 絶対、最後まで連れていくから!」
ララとルーナが、再びヴァルの重い身体を両脇から担ぎ上げた。
彼女たちの瞳には、先ほどの悲壮感はない。
ただの重荷ではない。この泥だらけで不器用な男の「温もり」を背負うことを、心から誇りに思っているような、強い光が宿っていた。
燃え盛る石炭の火と、人々の希望の眼差しを背に受けて。
三人は冷たい雨を切り裂き、秩序の源泉であるユグド・セコイアへと向けて、再び力強く歩き出した。




