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第66話:生身の右手と、小さな石炭の火。……冷たい鉄塊(バケモノ)になっても、俺はこの「温もり」を背負って聖都の門を叩く

 管理者(アポストル)であるセバスチャンは小さくため息をつき、懐中時計を取り出した。

 カチ、カチ、カチ。

 正確に時を刻む無機質な秒針の音が、広大な地下空間に響き渡る。

 ヴァルたちの決死の足掻きすらも、その時計の針の動きに組み込まれているかのように。


 懐中時計の蓋をパチンと閉じる。

 彼の眼前にそびえ立つのは、純度100パーセントの黒色魔鉱石(ブラック・グリット)


「魔法とは、イメージ……ですか」


 セバスチャンは、誰に聞かせるわけでもなく嗤った。


「そう定義づけるだけで、人類は自ら『論理』を捨ててくれた。魔法という名の特権に酔いしれ、思考を止め、緩やかな死を受け入れている」


 失われた科学の残骸の中で、老いた管理者(アポストル)の冷たい瞳が黒い光を反射する。


「――さあ。歯車は回り始めましたよ、ヴァル様」



 冷たい雨が、アトランティアの貧民街を容赦なく打ち据えていた。

 ここは地下の地熱すら届かない、スラムのどん底。

 錆びた鉄板の屋根から滴る泥水が、悪臭を放つ路地裏に深い水溜まりを作っている。


「……っ、ふぅっ、ふぅっ……」


 ぬかるんだ泥濘に足を取られながら、ララとルーナが荒い息を吐いていた。

 二人の華奢な肩には、絶対的な質量を持った「鉄塊」がのしかかっている。


「すまない、二人とも。俺が……ただの重荷になっている」


 両脇を抱えられ、引き摺られるように進むヴァルが、苦渋に満ちた声を絞り出す。

 左腕の創世の腕(ジェネシス・アーム)。そして両脚の不動の双脚タイタニック・レッグス

 背中のバックパックから繋がる太いケーブルを通じて、すべての電力は充電へと回されている。


「謝らないで、ヴァル」

『……貴方は何も悪くありません』


 ヴァルに、ララとレティナの優しく、けれど胸を痛めているような声が響いた。


『モジュールへの電源供給を絶っている今、貴方の身体の半分以上は、ただの高密度の装甲材です。……本当にごめんなさい。私にもっと、効率的な演算ができれば、こんな思いはさせなかったのに……』

「気にするな、レティナ。お前が泣く必要はない」


 涙声になる彼女を、ヴァルは唯一動く生身の右腕で宥めようとする。

 だが、その右腕すら、冷たい雨に打たれて感覚を失いかけていた。


「重荷なんかじゃない。ヴァルの背中は、私が守るって決めたのよ」

「そうだよ!…これくらい、平気だよ……!」


 ララとルーナは強がりを言って笑うが、その唇は紫に変色し、雨に打たれる膝は限界を迎えてガクガクと震えている。


『警告。ララおよびルーナの深部体温が生命維持の限界ラインを割り込みました。重度の低体温症によるショック状態まで、猶予はありません。……このまま移動を続ければ、確実に全滅します』

「……っ! ララ、ルーナ、少しだけ俺を下ろしてくれ!」


 レティナの無機質な宣告に、ヴァルは慌てて声を上げた。

 泥まみれの地面に降ろされたヴァルは、周囲を見渡す。

 路地裏の片隅。廃棄物の山の中に、彼は「あるもの」を見つけた。



「ヴァル、何をするの……?」


 不思議そうに覗き込むルーナの前で、ヴァルは生身の右腕を伸ばした。

 冷たく重い鉄の義肢が泥に沈み込む中、彼は右手の指先だけで真っ黒な石ころを拾い集め、小さな山を作る。


「これは『石炭』だよ。前にグリット・フォールにもあったろ?魔法がなくても、こいつは熱を秘めている」


 ヴァルはポケットから火打ち石と鉄片を取り出した。

 指先は凍え、死人のように紫に沈んでいる。感覚のない指から何度も鉄片が滑り落ち、泥に塗れた。

 その度に泥を拭い、血が滲むほど強く握り直す。

 動かない左腕と両脚の重圧が、容赦なく彼の身体を泥の底へ引きずり込もうとする。

 それでも彼は歯を食いしばり、右腕一本で必死に石を打ち付けた。


 カチッ、カチッ……!


 何度目かの火花が、用意した乾いたぼろ布の端に燃え移った。

 細い煙が上がり、微かな赤い光が生まれる。

 ヴァルは泥の上に這いつくばるようにして、その小さな火種に右手を添え、優しく息を吹きかけた。


「フゥーッ……フゥーッ……」


 雨の冷たさに消えそうになる火種を、己の生身の体温で庇う。

 それは、物理演算の暴力でも、プラズマの破壊力でもない。

 ただ一人の人間としての、泥臭く、不格好な執念だった。


 やがて――パチッ、と甲高い音が響いた。

 ぼろ布の火種が石炭へと燃え移り、オレンジ色の炎がパチパチと爆ぜ始めたのだ。

 炎の熱気が周囲の空気を暖め、ララとルーナの凍りついた身体を優しく包み込む。


「……あ……火だ……」

「あったかい……」


 ふと、背後から掠れた声がした。

 振り返ると、廃棄物の陰に隠れていたスラムの子供たちや人々が、吸い寄せられるように火の周りへと集まってきていた。

 魔法という特権を持たない彼らが、自らの知恵と工夫で暖を取る術を知った瞬間だった。


『……すごいです、ヴァル。石炭の燃焼効率が上がり、周囲の温度が急激に上昇しています。二人のバイタルも回復傾向へ移行しました』


 レティナの声が、誇らしげに、そして嬉しそうに左肩のスピーカーで弾けた。


『貴方の右手が、彼らに『生きるための種』を植え付けたんですね。魔法なんてなくても、人間は自分の力で生きていけるって』

「ああ。……これが俺の、マギレスの戦い方だ」


 ヴァルは、赤々と燃える炎に照らされた人々の笑顔を見つめ、静かに確信した。

 冷たい鉄に侵食されていく身体。

 それでも、この右腕に残された体温と人間性だけは、決して失われていない。


『現在のバックパックの充電率、微細ながら上昇中。……フル稼働限界時間、約300秒を維持しています』


 レティナの報告が、彼らのシビアな現実を再認識させる。

 戦えるのは、たったの五分間。

 その絶望的な条件は何も変わっていない。


「さあ、行くわよ、ヴァル」

「うんっ! 絶対、最後まで連れていくから!」


 ララとルーナが、再びヴァルの重い身体を両脇から担ぎ上げた。

 彼女たちの瞳には、先ほどの悲壮感はない。

 ただの重荷ではない。この泥だらけで不器用な男の「温もり」を背負うことを、心から誇りに思っているような、強い光が宿っていた。

 燃え盛る石炭の火と、人々の希望の眼差しを背に受けて。

 三人は冷たい雨を切り裂き、秩序の源泉であるユグド・セコイアへと向けて、再び力強く歩き出した。

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