第60話:黒鉄の創世腕(ジェネシス・アーム)。……AIが泣きながら繋いだこの腕は、エルフ様の魔法よりずっと「重い」
崩落した天井の巨大な穴から、地上の冷たい雨が容赦なく降り注いでいる。
地下特有の淀んだ空気――重油と鉄錆、そしてカビの匂いが、叩きつける雨水と混ざり合って不快な泥濘を満たしていた。
瓦礫に押し潰され、絶望的な静寂に包まれていた「旧・第4採掘場」。
だが、その天井に穴が開いたことで、完全に枯渇していたこの空間の物理法則に、わずかな変化が起きていた。
外気の流入と共に、地上の魔力が僅かながら流れ込んできたのだ。
「……魔力が、少し……戻ってきた……!」
泥に塗れたララが、震える手で長槍を握り直す。
ルーナも荒い息を吐きながら、短剣を持ち直し臨戦体制へと移る。
肺を焼くような魔力枯渇の苦しみが和らぎ、少しずつ身体が動くようになっている。
だが、彼女たちの前には、圧倒的な絶望が立ちはだかっていた。
「アハハハッ! いいねェ、少しは抵抗してくれないと面白くねェからなァ!」
嗜虐的な笑みを浮かべる道化師――アポロギアが、圧倒的な魔力圧を放ちながら一歩を踏み出す。
アポロギアの殺気が、物理的な重さを持って二人を打ち据える。
ララたちの足が震え、泥の中に深く沈み込んでいく。
逃げ出したい本能。だが、背後には両脚を潰されて動けないヴァルがいる。
ここで退けば、自分たちも、彼も終わりだ。
ララとルーナは歯を食いしばり、絶望の中で必死に武器を構え続けた。
◇
それを見ることしかできないヴァルは、奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばっていた。
両脚は巨大な岩塊の下敷きになり、完全に感覚を失っている。
動けない。助けられない。
無力感が、喉の奥からせり上がってくる血と共に吐き出される。
音もなく、ヴァルの足を押し潰している巨大な岩塊の上に、一つの影が降り立った。
雨を弾く不可視の障壁を纏ったレヴォス・アトラスだ。
泥まみれで這いつくばるヴァルと、岩の上に立つ高潔なエルフ。
あまりにも残酷な、絶対者と最底辺の「垂直の対比」だった。
「このままじゃ何も出来ずに死ぬだけだ」
レヴォスは、氷のような瞳でヴァルを見下ろした。
その視線には、怒りも憎しみもない。あるのは、ただ実験用の「素材」を見るような冷徹な観察眼だけだ。
「その血は役に立つが……お前はただ、二人の獣人が嬲り殺しにされるのを眺めているしかない」
あまりにも傲慢な宣告。
すべてを諦め、絶望の中で這いつくばれという言葉。
だが、その瞬間。
這いつくばるヴァルの瞳に、狂気じみた執念の火が灯った。
彼らは知らない。
魔力欠如者が、泥水をすすりながらどうやって生きてきたかを。
持たざる者が、奪われ続ける世界で、たった一つ残された「意地」をどうやって貫くかを。
肉が裂ける音がした。
構わない。
岩に挟まれた骨が軋み、千切れる。
知ったことか。
ただ、その傲慢な喉元に、一太刀を――。
「黙ってろよ、エルフのガキ……ッ!!」
ヴァルは下半身が潰れる激痛を完全に無視し、上半身の筋肉だけで身体を無理やり捻った。
泥に塗れた左腕の義手で、腰のホルダーから高熱刃を引き抜く。
そして、背後の頭上――岩の上に立つレヴォスへ向けて、渾身の力で一閃した。
「なっ……!?」
完全に無力化したと侮っていたレヴォスの顔に、初めて驚愕の色が浮かんだ。
潰れた足の肉が引きちぎれることすら厭わない、狂気の反撃。
下から突き上げられた必殺の刃。
レヴォスは咄嗟に身を翻して直撃を避けたが、バランスを崩し、岩から転げ落ちて泥の中へ無様に尻もちをついた。
◇
「……ハァ、ハァ……マギアン様が……」
泥水と自らの血を吐き出しながら、ヴァルは不敵に笑った。
雨に打たれ、泥にまみれた顔で、嗤う。
「マギレスに油断して、尻もちかよ……」
それは、レヴォスの絶対的な自尊心を真っ向から踏みにじる、泥濘からの痛烈な挑発だった。
「貴様……ッ!! ――いや、身の程を知れ、猿が」
レヴォスの声は一瞬激昂に震えたが、すぐに氷のように冷たくなった。だが、その瞳の奥には明らかな不快感が燻っていた。
絶対的な自尊心を汚された報い。彼が杖を振るうと同時、ヴァルの『両腕』を完全に潰すための極大の重力魔法が放たれた。
不可視の重圧が、空間を歪めてヴァルへとのしかかる。
内臓が潰れるような圧迫感。
だが、ここは魔力が極度に薄い魔力空白域だ。
エリートであるレヴォスの魔法であっても、大気中の魔力不足により威力が著しく減衰し、即死レベルの破壊力には至らない。
ズドンッ!!
威力が減衰したほんの一瞬の隙。ヴァルが潰れた両脚を引きずり、死に物狂いで身を捩ったことで、重力の矛先がずれた。
放たれた魔法は、ヴァルの両脚を拘束していた巨大な岩塊を粉砕する。
岩が砕け散り、ようやくヴァルの両脚が解放された。
その瞬間、レヴォスはヴァルの不敵な笑みの「本当の真意」を察した。
遅かった。
ヴァルは潰れた両脚を引きずりながら、左腕の義手を泥に突き立てた。
右脇には、泥の中で見つけた幾何学模様の箱を、しっかりと抱え込んでいる。
そのまま、虫のように泥を這うほふく前進で、レヴォスの間合いから素早く逃れようとする。
最初から、レヴォスを挑発して岩を壊させるための「計算」だったのだ。
「そこまでして、あがくことに何の意味がある」
レヴォスが忌々しげに見下ろして問う。
絶対的な死地で、両脚を潰され、泥水に塗れながら進む滑稽な姿。
「意味なんて、後からついてくる……!」
ヴァルは血を吐きながら、左眼の相棒へと呼びかけた。
◇
「レティナ……このままじゃ俺らは全滅だ……頼む……!」
ヴァルの悲痛な懇願。
視界を埋め尽くす赤いエラーログの洪水の中で、レティナのシステムはすでに限界を迎えていた。
論理回路がショートし、プログラムの枠を超えた「感情」が溢れ出す。
『論理プロトコル崩壊。……未定義の感情モジュール、生成を継続中……』
『(こんなの……自滅行為です。換装の物理的負荷に、今のマスターのバイタルが耐えられるはずがない……! 生存確率、0.03%……!)』
『(私は……ただ、マスターを守りたいだけなのに……! どうして……っ!)』
無機質なAIであるはずの彼女が、まるで泣き叫ぶように自問自答を繰り返す。
システムに組み込まれた『Priority A(生存優先)』の命令が、彼女の行動を縛り付けていた。
だが、ヴァルの決して折れない魂の熱と、泥に塗れても仲間を守ろうとするその意志が、彼女のすべての迷いを焼き尽くした。
『!!!……全論理回路を棄却。マスターの意思に、全面同意します。……どうなっても知りませんよ、マスター!』
赤いエラー画面が一瞬でクリアされ、視界が澄み切った青色に染まる。
『Module ID:07 "Genesis Arm" ――インストールを開始します!!』
「いいぞ、レティナ!」
ヴァルは咆哮した。
幾何学模様の箱をこじ開け、中から鈍い光を放つ金属の腕を掴み出す。
直後、ヴァルの左肩から接続されていた、戦術工廠が生成した美しい焼き色の義手が、根元から強制解除された。
ガコンッ、という音と共に、見慣れた義手が泥に落ちる。
肩の切断面から、神経接続された無数の配線と、生々しい結合端子がむき出しになった。
「ぐっ……アァァァァァァッ!!」
想像を絶する苦痛に、ヴァルの顔が歪む。
だが、彼は右手に持った『ジェネシス・アーム』を、躊躇なく自身の左肩の断面へと押し当てた。
ギュゥゥゥンッ!!!!
凄まじい火花が散り、青白い放電が周囲の泥水を沸騰させる。
狂気の機械腕が、ヴァルの神経と肉体を侵食していく。
何千本もの極細のナノケーブルが、ヴァルの肩口から血管や脊髄へと強制的に入り込み、生体組織と融合していくホラーのような侵食。
魔法の光や音ではない。
それはまるで、眠りについていた巨大な戦車のエンジンが、無理やり始動させられたかのような、禍々しい重低音の駆動音だった。
ガギュンッ……ギュイィィィィンッ!!
換装が完了した瞬間。
絶対的な「質量」が、ヴァルの左肩に宿った。
これまでヴァルが使っていた義手のような、美しいテンパーカラーの面影はどこにもない。
光すら吸い込むような、深く禍々しい黒鉄の腕。
関節部からは高熱の蒸気が荒々しく噴き出し、周囲の雨を瞬時に気化させている。
「……な、なんだ、それは……!」
レヴォスが、思わず一歩、後ずさった。
自らの魔法(世界の理)の余波でひしゃげたはずの箱の中から、さらに強大で、おぞましい「異物」が産声を上げたのだ。
エルフとしての高潔な理性が、未知の科学技術に対して本能的な「戦慄」を抱いていた。
「……ハァ……ハァ……」
ヴァルは、新しく結合した左腕――ジェネシス・アームの指を、ゆっくりと握り込んだ。
黒鉄の太い指が擦れ合い、重々しい金属音を鳴らす。
この「力」は、大切なものを守るための盾か。
それとも、触れるものすべてを砕く、マギレスの呪いか。
冷たい雨と鉄錆の匂いの中、英雄の反撃の狼煙が、鋼の産声と共に重く鳴り響いた。
大変遅くなりましたが、第60話の完成です!
お待たせしました!




