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第59話:魔法文明の墓標(エンドマーク)と、泥だらけの盾。……血に塗れた手が掴むのは、絶望を砕く「新たな力」

 開いた天井の巨大な穴から、容赦のない冷たい雨が泥濘へと降り注ぐ。

 瓦礫に押し潰されたヴァルの下半身から流れ出す血が、泥水と混ざり合い、地下特有の重油の匂いに鉄錆のような血の匂いを上書きしていく。

 両脚の痛覚はすでにない。あるのは、這い上がることもできない絶対的な無力感だけだ。


「ヴァル! ヴァルッ!」


 ララが泥に塗れながら、必死に岩塊を押し退けようとしていた。

 ルーナも短剣を投げ出し、素手で瓦礫に挑んでいる。指先から血が滲み、爪が割れても、彼女たちは瓦礫を退けることをやめない。

 だが、ビクともしない。数トンの岩だ。魔法による身体強化がなければ、華奢な彼女たちの力ではどうにもならない。


「動いてよっ……! なんで、魔力が……っ!」

「無駄だよ」


 頭上の雨を切り裂いて、冷徹な声が降ってきた。

 冷たい雨を受けながら、レヴォスが瓦礫の山に音もなく降り立つ。

 その隣には、風魔法でゆっくりと舞い降りたアポロギアの姿があった。


「ここは魔力空白域だ。君たちが信じるその程度の『魔力保有量』では、この場所では使えないだろう」

「……ッ!」


 ララが鋭く睨みつけるが、レヴォスは彼女を路傍の石のように無視した。

 道化師の衣装を雨に濡らしたアポロギアが、不気味な笑みを浮かべて一歩前へ出る。

 彼の手には、見覚えのある長方形の端末が握られていた。


「アイザックさんの……情報端末(タブレット)……」


 ヴァルは口の中に血の味を感じながら、泥を噛むように呟いた。

 ギルドの長たる男の、失われた左腕と共に奪い去られたもの。

 世界をより良く導こうとしたアイザックが、どんな覚悟でそれを守ろうとしていたか。そして、腕と感覚のない足を隠し、病室でどれほど痛みを堪えて笑顔を作っていたか。

 それを思い出した瞬間、ヴァルの身体の底から、どす黒い怒りの炎がこみ上げてくる。


「ギャッハハハッ! いい目だァ、マギレス!」


 アポロギアが端末を弄りながら、下卑た笑いを漏

らす。


「こいつのロックを解除するのに手間取ってなァ。……ノアズ・アークのギルド長が、わざわざパスワードを設定してやがったから、少しばかり面倒なことになったのさ」


 アイザックの腕を切り落としたのは、単なる悪意の産物ではなかった。彼らは明確な「作業」として、一人の英雄の誇りを切り刻んだのだ。

 だが、アポロギアの瞳には、それ以上の愉悦が浮かんでいる。


「まぁ、ユグド・セコイアでの一件の意趣返しでもあるがねェ! お前がちょこまかと俺の邪魔をしてくれたお礼さァ!」


 悪辣な嘲笑が、地下採掘場の冷たい空気に響き渡る。

 その横で、レヴォスは冷ややかに目を細めた。


「……悪趣味だな、アポロギア。私情を挟むな。無駄口を叩いている暇はないはずだ」


 レヴォスの言葉には、明らかな嫌悪が混じっていた。

 彼らは同じ目的のために動いているが、決して「仲間」ではない。ただ利害が一致しているだけの共闘関係。洗練された魔法と秩序を重んじるエルフにとって、アポロギアの俗物的な残酷さは不快でしかなかった。


「へいへい。エリート様は気が短いねェ」


 アポロギアは肩をすくめ、一歩下がる。

 代わって前に出たレヴォスが、這いつくばるヴァルへと氷のような視線を向けた。


 ◇


「……魔力とは、数千年前に人類の遺伝子に混入した『一時的な変異』に過ぎない」


 唐突な、しかし重々しい宣告だった。

 レヴォスは、周囲の鉄錆と泥に塗れた空間、そして這いつくばる無力な人々を見回す。


「無秩序な混血を繰り返せば、結果は見えている。……事実、その変異因子は薄まり、このアトランティアにはまともなマギアンすら存在しない。魔力がなければ体温すら維持できず、地下の熱に縋る哀れな姿がその証拠だ」

「何を、言ってる……」

「退行しているんだ、種として。……南の大陸の獣王 (レオ・プライマ)は、純血を守ることで魔法を繋ごうとした。だが、それはただの延命に過ぎない」


 レヴォスの言葉は、冷酷なまでに論理的だった。


「最後には、魔力因子を一切受け付けない『純粋な人間』……いや、今の我々からすればただの猿へと戻る。君のようにな」

『……演算一致』


 左眼の奥で、レティナの音声が響いた。

 その声には、かつてないほどの激しいノイズが混じっていた。


『レヴォス・アトラスの推論は……ザザッ……生物学的に、事実です。当該国家の住民のDNA塩基配列をスキャン。魔力生成因子の著しい崩壊、および欠損を確認……。マスターのDNA構造は、旧人類の……オリジナルに、限りなく……』


 AIの冷徹な客観的データが、レヴォスの言葉を「科学的な絶望」として裏付ける。

 物理(P.M.)を扱う上では最適であるはずのその血が、魔法文明においては「破滅」を意味する呪い。


「君は進化じゃない。魔法文明という輝かしいこの時代の、『終わり』を告げる墓標なんだよ」


 ヴァルの存在そのものを否定する、究極の絶望。

 魔法がすべての世界で、魔法を持たない彼を「世界の終焉の象徴」と断じた。


『……ザッ……ちがう。マスターは、無価値なんかじゃない……!』


 レティナのシステムに、あり得ないはずの「否定」が混じる。

 ただのプログラムであるはずの彼女が、論理を無視してヴァルを肯定しようとしていた。

 自我の芽生え。だが、そのバグのような声は、ヴァルにしか聞こえない。


 ◇


「さて、講義は終わりだァ。……さっさと終わらせようぜェ」


 アポロギアが、瓦礫を踏み越えてヴァルへと近づいてくる。


「この地下深くにある旧文明の研究所。……あそこに入るには、アイザックの端末だけじゃ足りないんだよォ」

「何が、目的だ……」

「鍵だよォ。……魔法を弾く、旧人類の遺伝子情報を持った『血』がなァ!」


 アポロギアがヴァルの目の前にしゃがみ込む。

 彼の手が、泥に塗れたヴァルの髪を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせた。


魔力欠如者(マギレス)ゥ〜、お前の血が必要だァ。……よかったなぁ! ようやく、この世界で必要とされる存在になれたなァ!」


 醜悪な嘲笑。

 ヴァルの中で、どす黒い怒りが限界まで膨れ上がる。


 殺してやる。この手で、こいつらを。


 だが、身体は動かない。下半身は完全に岩に縫い付けられている。

 雨に濡れながら、レヴォスはただ静かに、その野蛮な光景を無関心に見下ろしていた。

 アポロギアが、ヴァルの首筋にナイフを当てようとした、その瞬間だった。


 ガッ!!!!


 泥を蹴り上げる鈍い音と共に、アポロギアの身体が大きく体勢を崩した。


「……あァ?」


 アポロギアが忌々しげに顔をしかめる。

 彼に突進し、その細い身体ごと体当たりをぶちかましたのは、ララだった。

 武器を振るう力すら残っていない。ただ、純粋な体重と気力だけで、使徒をヴァルから引き剥がしたのだ。


「その人から、汚い手を離しなさい!」


 ララは震える足で泥の上に立ち、ヴァルを庇うように両手を広げた。


「何とかするしかないよね……! ヴァルを、絶対に死なせたりしない!」


 ルーナも短剣を構え、ララの隣に並び立つ。

 魔法が使えないこの絶望的な状況で、彼女たちは一歩も退かなかった。

 圧倒的な力を持つ怪物たちを前にして、震える足で、泥だらけになりながら立ち向かおうとしている。

 それがどれほど無謀なことか、彼女たち自身が一番よくわかっているはずだった。


「ハッ……ハハハッ! 面白いねェ、ウサギとイヌが、俺様に噛みつくかァ!」


 アポロギアがゆっくりと立ち上がり、殺気を膨れ上がらせる。

 魔力がない彼女たちでは、アポロギアの暴力の前に一瞬で肉塊に変えられる。

 それは明白な事実だった。


「遊んでいる暇はないぞ、アポロギア。さっさと片付けろ」


 レヴォスが冷たく急かす。


(だめだ……逃げろ、ララ、ルーナ……!)


 声が出ない。

 ヴァルは血を吐きながら、必死に左手を伸ばそうとする。


『マスター……! 危険です、バイタルが極端に低下しています……!』


 レティナの警告音が、頭蓋の奥で鳴り響く。

 視界を埋め尽くす赤いエラー画面が、ノイズで激しく波打っている。

 論理回路がショートし、プログラムの枠を超えた何かが溢れ出そうとしていた。


『優先順位、崩壊……システム、深刻なエラー……! お願い……ザザッ……抑えて……死なないで……!』


 機械であるはずの彼女が、泣いているように聞こえた。

 だが、ヴァルの決意は揺るがない。

 血の繋がった家族には見捨てられた。魔法文明からは「猿」だと蔑まれた。

 だが、血の繋がらない彼女たちは、命を懸けて泥に塗れ、自分を守ろうとしている。

 大切な仲間を、これ以上失うわけにはいかない。


「くれ……」


 ヴァルは、泥の中で鈍く光る幾何学模様の箱に、血塗れた右手を這わせた。

 エラーを吐き出し続けるシステムへ、ただ一つの命令を下す。


「レティナ……俺に、力をくれ」


 その言葉に呼応するように。

 箱の中の『Module ID:07』が、青白い光を放ち、鈍く、そして力強く脈動を始めた。

更新遅くなりました!すいません!

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