第58話:致命的矛盾(パラドックス)と、AIの悲鳴。……圧し潰された泥の中、最悪の怪物たちとの邂逅
光の届かない地下深く。
アトランティアの「旧・第4採掘場」。
錆びた鉄扉の先であるバイパスゲートを抜け、ヴァルたちは泥と瓦礫の山に足を踏み入れていた。
「ハァッ……ハァッ……」
ルーナの肩が激しく上下していた。
ララも槍を支えにして、泥の上に膝をついていた。
二人の顔色は青白く、大粒の汗が浮かんでいる。
「二人とも、大丈夫?」
ヴァルが振り返る。
彼女たちの周囲を照らしていたルーナの小さな火花が、明滅を繰り返し、フッと消えた。
「魔力が……上手く使えないの。身体の中身が、全部吸い出されるみたいで……」
『推測:周囲の岩盤に含有される未精製魔鉱石の影響です』
レティナの無機質な声と共に、ヴァルの視界に半透明のウィンドウが展開する。
だが、その青い文字の輪郭には、微かなブロックノイズが走っていた。
『この区画周辺は魔力が極度に枯渇しています。そのため、高濃度の魔力保有体から、環境側へ魔力が強制吸引されています。……ザッ……マギアンの長時間の滞在は、生命維持に深刻な……』
マギアンにとって、ここは毒沼に等しい。
息をするだけで生命力が削られていく。
だが、魔力欠如者であるヴァルには、まったく影響がなかった。
魔力を持たないがゆえに、この「吸魔の泥濘」においても、彼の肉体は平常通りに稼働している。
「俺が探すよ。二人は少し休んでいてくれ」
ヴァルは松明に火を灯し、瓦礫の山へと向かった。
泥まみれになりながら、重量のある岩塊や、旧文明の遺構である巨大な鉄骨を素手で退けていく。
ギィィィッ……。
錆びついた鉄が擦れる嫌な音が地下に響く。
指先が擦り切れ、泥が爪の間に食い込む。腕の筋肉が悲鳴を上げるが、ヴァルの動きは止まらない。
かつて、この街の「西の廃棄区画」で、幼い頃から砂利運びとして酷使されてきた記憶。
朝から晩まで泥水と同化し、背骨が折れんばかりの荷物を運んでいたあの頃の痛みが、今の彼を動かす原動力になっていた。
魔法という便利な力に依存しない、純粋な肉体の力。
労働者として培った無骨な力強さが、この極限環境においてのみ、マギアンを凌駕する唯一の武器だった。
◇
松明の揺れる光の中。
ララとルーナは、ただ祈るようにヴァルの背中を見つめることしかできない。
地上では圧倒的な力を持つ彼女たちも、この魔力枯渇の闇の中では、ただの無力な女性でしかない。息をするだけで精一杯なのだ。
「……これか?」
泥を掘り返していたヴァルの手に、硬い感触が触れた。
瓦礫の底から、ヴァルが泥に塗れた「箱」を引っ張り出した。
幾何学模様が刻まれた、鈍く光る金属製のコンテナ。
その隙間から、重厚な機械の「パーツ」――太く、頑強なシリンダー構造を持つような部品が覗いていた。
ヴァルの右手が、箱の表面に触れた瞬間だった。
『――Error. System Conflict.』
ヴァルの視界が、真っ赤な警告色で埋め尽くされる。
『警告。Module ID:07を確認。……インストール・シーケンス、不可』
『Priority A(マスターの生存)と、Priority B(機密領域へのアクセス権限)が衝突。……論理回路に致命的矛盾が発生』
レティナの音声に、耳障りなノイズが混じる。
目の前にいくつものエラーウィンドウがポップアップし、視界を覆い尽くすように激しく明滅した。
文字列がバグのように崩れ、意味を成さない記号の羅列へと変わっていく。
「レティナ? どうした、大丈夫か!?」
ヴァルが左眼を押さえた、その時。
ズドドォォォォォンッ!!!!
頭上の分厚い岩盤が、凄まじい轟音と共に爆ぜた。
◇
地上では、冷たい雨の降る空中にアポロギアが浮遊していた。
彼の見下ろす先には、マギレスたちが這いつくばるスラムの区画がある。
「アハハハッ! 泥遊びは趣味じゃねェ。チマチマ探すより、上から手っ取り早くブチ抜こうぜェ!」
彼が道化の杖を振り下ろすと同時に、極大の重力魔法が地表を叩き割った。
ノアズ・アークのギルド本部を襲撃し、アイザックの腕を奪った時と同じだ。
目的の「知識」や「遺産」を手に入れるためなら、足元の虫ケラ(マギレス)が何千匹死のうが、彼には知ったことではない。
凄まじい轟音と共に、スラムの地盤がすり鉢状に崩落していく。
悲鳴や絶叫すら、重力の渦に圧し潰されて消える。
「……野蛮な真似を」
その光景を見下ろしながら、隣に浮遊するレヴォスが不快げに顔をしかめた。
「応力再分配を無視した破壊だ。地下構造そのものが崩壊するぞ。……目的のためとはいえ、手段を選ばないお前のやり方には反吐が出る」
レヴォスの言葉には、明らかな嫌悪が混じっていた。
彼らは同じ目的のために動いているが、決して「仲間」ではない。
洗練された魔法の美学を重んじるレヴォスにとって、アポロギアの無軌道な破壊はただの蛮行にしか見えなかった。
「アハハッ! お上品ハーフエルフ様にはお気に召さなかったかァ? だが、これで見つけたぜ。……『鍵』の反応をな」
「……行くぞ」
レヴォスはそれ以上語ることをやめ、崩落していく巨大な奈落へと身を躍らせた。
◇
地下採掘場は、阿鼻叫喚の地獄と化した。
巨大な地震が襲い、頭上の岩盤が次々と剥がれ落ちてくる。
ぶち抜かれた天井の巨大な穴からは、地上の冷たい雨が滝のように降り注いでいた。
「きゃあああっ!」
「ヴァル!」
魔力を奪われ、泥に足を取られて動けないララとルーナ。
その頭上に、巨木ほどもある巨大な岩塊が迫る。
「レティナ! 回避ルートは!」
『……ザザッ……エラー。安全圏の算出、不能。……マスター、退避行動を優先して……ザッ……』
音声が乱れている。いつもなら「生存確率」を冷徹に告げるはずのAIが、最適解を導き出せずに処理落ちを起こしていた。
「なら、力技だ……ッ!」
ヴァルはせっかく掘り出した「箱」を泥の中へ投げ捨て、二人の元へ飛び込んだ。
同時に、背中の戦術工廠を強制起動する。
「全兵装、解除。サブアーム、展開しろ!」
ガキンッ!
ヴァルの背中から、マウントされていたスラグ・リボルバーや対物ライフルがパージされ、泥の中へ落ちる。
空いたマウントから、四本の無骨なサブアームが一斉に伸びた。
機械腕が、落下してくる岩塊と床の間に割り込み、強引に突っ張り棒となった。
ギィィィィンッ!!
激しい金属音と共に、背中のパンドラが鈍い悲鳴を上げた。
数トンもの荷重を四本のサブアームで支える。
油圧シリンダーが異常な圧力で軋み、ジョイント部分から火花と高熱の蒸気が吹き出した。
「ぐっ!……ッ!!」
ヴァルの両足が、重みで泥に沈み込む。
◇
崩落の轟音が、ゆっくりと収まっていく。
だが、絶望は終わっていなかった。
ミシッ、メキメキッ。
パンドラのサブアームが、物理的な限界を超えてひしゃげ始めている。
『警告……マスターの骨格に致死的な負荷。……このままでは、機体が……ッ!』
レティナの音声がバグのように繰り返される。
背骨がミシミシと嫌な音を立て、筋肉の繊維がぶちぶちと断裂していく。
ヴァルの口から、ゴボリと大量の血が吐き出された。
「ヴァル! いや、待って、今どかすから……!」
「だめだ……動くな……っ!」
ララが這い寄ろうとするのを、ヴァルは血塗れの顔で制止した。
「……逃げて、二人とも……っ!」
ヴァルは意を決し、四本のサブアームのうち一本を使い、二人を庇うように瓦礫の安全圏へと強く押し出した。
直後、パンドラの警告音がレッドゾーンを振り切る。
『退避を……ザザッ……退避を推奨……嫌、死なないで、ヴァル……ッ!』
無機質なはずの合成音声が、悲鳴のように割れた。
システムに存在しないはずの「感情」のバグ。
だが、ヴァルがそれに答える時間はなかった。
(もたない……! パンドラ、本体パージ!)
ヴァルは自身を圧し潰そうとするバックパックそのものを、背中のコネクタから強制的に切り離し、前方への脱出を試みた。
ガコンッ!
固定具が外れ、支えを失った数トンの岩塊が一気に崩れ落ちる。
間一髪、上半身を泥の中へ投げ出したヴァルだったが――。
バギンッ!!
脱出が、ほんのコンマ数秒、遅れた。
無残に砕け散ったサブアームの残骸と、巨大な岩塊が、ヴァルの両脚を容赦なく圧滅した。
グシャ……。
湿った泥の音に混じって、骨肉が潰れる嫌な音が響いた。
痛みはない。
いや、神経そのものが完全に圧潰され、両脚の感覚が「痛み」と共に完全に消失したのだ。
「ヴァルゥゥゥゥッ!!」
ララの悲痛な絶叫が、冷たい雨音にかき消される。
ヴァルは霞みゆく視界の中で、開いた天井の巨大な穴を見上げた。
そこから、冷たい雨を切り裂くように、二つの影がゆっくりと降下してくる。
無感情な銀色の髪と、嘲笑う道化師の衣装。
世界のバグそのもののような怪物たちが、泥と血に塗れて這いつくばるヴァルを見下ろしていた。
それは、持たざる者が絶対的な絶望と対峙する、最悪の邂逅だった。




