第57話:泥濘の交渉(ディール)、温室の幸福。……捨てられた「異物」だけが本物だ
地下水路の奥深くへ進むにつれ、空気は重く、そして淀んでいく。
鼻を突くのは、古い配管から漏れ出る重油の匂いと、汚水の腐敗臭、そして人間の体臭が混ざり合った独特の腐臭だ。
そこは、光の届かない世界だった。
ヴァルたちは、レティナが示した座標――奥深くにある「旧・第4採掘場」を目指して歩いていた。
「……ヴァル。あの子たち……」
ララが足を止め、悲痛な声を漏らす。
通路の脇、湿った毛布の上には、骨と皮だけになった子供たちが身を寄せ合っていた。
彼らの瞳は濁り、通りがかるヴァルたちを見ても、焦点が合っていない。
だが、ララの豪奢な装備と清潔な服を見ると、一人の子供が這いずり出てきた。
「……ねえ、おねえちゃん。……おかね、ちょうだい」
彼らは躊躇なく、ララとルーナの清潔な服の裾を掴む。
「っ……! 待って、今あげるから……」
可哀想。助けてあげたい。
その純粋な善意が、彼女の指先を動かした。
ララが息を呑み、慌てて腰のポーチに手を伸ばすと、周囲の闇から無数の飢えた目が光った。
彼女はその視線に嫌悪感を覚え、背筋がゾッとして動きが止まる。
ガシッ。
その手首を、ヴァルの手が強く掴んで制止した。
「……だめだ、ララ」
「ヴァル……。こ、この子たち、ガリガリよ? 銅貨の一枚くらいなら……」
「でも、あの子たち……死んじゃうよ!?」
ルーナが信じられないものを見る目でヴァルを見る。
「いいから、しまって」
ヴァルの声は、氷のように冷徹だった。
彼は子供の手を、優しく、しかし拒絶の意思を持ってララの裾から引き剥がした。
「……ごめんな」
短く謝り、ヴァルは歩き出す。
子供は絶望に顔を歪め、力なく地面に崩れ落ちた。
「一枚でも出せば、この場の全員があなたに群がります」
ヴァルの瞳は、地下の闇よりも冷たく、凪いでいた。
ただ淡々と事実を告げる。
「ここで一人の腹を満たせば、明日には『なんであいつだけ』という嫉妬が生まれ、十人が殺し合うことになる。……それが、この場所のルールなんだ」
ヴァルの言葉に、子供たちの一人がチッと舌打ちをした。
慈悲など求めていない。奪えないなら次へ行くだけだ。彼らは蜘蛛の子を散らすように闇へ消えていく。
彼女の優しさは、ここでは猛毒になる。
善意が一人の命を救うのではなく、周囲の欲望を煽り、より惨たらしい悲劇を生む。
それが、ヴァルがかつて生きてきた「泥濘」の掟だった。
(私は……何もわかってなかった)
「優しさが毒になる場所もある。……行こう」
「……うん」
ララとルーナは唇を噛み締め、やり場のない痛みを抱えながら、ヴァルを追った。
その背中は、かつて彼がこの地獄をどう生き抜いてきたのかを物語っていた。
彼の優しさが、どれほどの残酷さを潜り抜けた先にあるものなのか、その深淵を垣間見た気がした。
◇
水路を抜けた先、旧文明の遺構を利用した巨大な採掘場の入口が見えてきた。
だが、その鉄扉の前には行く手を阻むように、屈強な男たちが道を塞いでいた。
「おいおい、どこのお上品な観光客だぁ?」
スラムを牛耳る「組合」の連中だ。
瓦礫に腰掛けた巨漢――このエリアのボスが、ニタニタと汚れた歯を見せて笑いながら立ち上がる。
彼の周囲には、粗悪な魔導具やナイフで武装した手下たちが十数人。
さらに悪質なことに、扉には「肉壁」として武器を持たない老人や女たちが立たされていた。
魔法を撃ち込めば、まずは老人たちが死ぬ配置だ。
「ここから先は俺たちの庭だ。てめぇらがどういう奴かは関係ねぇ、ここを通るなら通行料を置いていきな。……女二人を置いていくなら、タダにしてやってもいいぜ?」
下卑た笑い声が響く。
「……はぁ」
ララが槍に手をかけようとしたが、ヴァルが片手でそれを制した。
彼は『パンドラ』を展開することなく、丸腰のまま一歩前へ出る。
「交渉しよう。……『グレイ・モール(灰色の土竜)』の旦那」
ヴァルが口にしたのは、この地区を仕切る組合の隠語だった。
ボスの眉がピクリと動く。
「あァ? なんでよそ者がその名を知ってる」
「よそ者じゃないさ。……昔、西の廃棄区画で『砂利』を運んでた。あんたのところのシマだ」
ヴァルの口調が変わる。
丁寧な言葉遣いは消え、スラム特有の、低くざらついた発音へ。
それは演技ではない。かつて生きるために身につけた、彼の「地金」だ。
「通行料……相場が変わっていなければ、今のレートは『くず砂利』一袋につきパン二個分のはずだ」
「あ?」
「あんたらが掘ってる第3層の鉱脈、最近は『ガスの匂い』がきつくなってないか? ……あそこはもう掘り尽くされてる。無茶をして奥へ進めば、地盤沈下で全滅だ」
ヴァルは、まるで天気を語るように言った。
ボスの顔色が変わる。
それは、現場の人間しか知り得ない、死活問題に関わる情報だった。
「てめぇ……どこでそれを」
「俺は情報を買いに来たんじゃない。……取引をしに来たんだ」
ヴァルは懐から、上質な「着火石」の袋を取り出し、放り投げた。
ボスは顔色を変えずに受け取る。この湿った地下では、火種は何よりも貴重な資源だ。
「俺たちが通りたいのは第4層へのバイパスゲートだ。昔から、鍵が壊れて開きっぱなしの場所だ。その先にある『ガラクタ』を拾いに来ただけだ。……あんたらの商売を荒らすつもりはない」
「へっ、信用できるかよ。マギアンの手先かもしれねぇだろうが」
「マギアンなら、こんなドブ川を歩かない。……それに、ここで俺たちとやり合えば、あんたの商品(肉壁)も無駄になる。……割に合わないだろ?」
「…………」
ボスは袋の中身を確認し、そしてヴァルの瞳を覗き込んだ。
怯えも、侮蔑もない。
ただ、この泥濘の底を知り尽くした者だけが持つ、昏い同類の目。
「……チッ。いいだろう」
ボスが顎でしゃくると、男たちが道を開けた。
ヴァルは軽く頭を下げ、静かに鉄扉をくぐる。
その背中を見送りながら、ボスは首を傾げた。
(……あの目つき。昔、ヴェリテクスのとこから放り出されたガキに似てやがったが……まさかな)
鉄扉が開く。
ヴァルたちは、暗闇の奥へと足を踏み入れた。
◇
一方、地上。
降りしきる雨の中、アトランティアの高級住宅街の一角。
そこには、地下の腐臭とは無縁の、穏やかな時間が流れていた。
レンガ造りのこじんまりとした、しかし手入れの行き届いた一軒家。
煙突からは白い煙が上がり、窓からは焼きたてのパンと、温かいスープの香りが漂っている。
没落したはずの「ヴェリテクス家」の屋敷だ。
かつての栄華はないが、そこには確かな「生活」があった。
「…………」
窓の外、雨に濡れる庭木の上に、二つの影があった。
レヴォスとアポロギアだ。
レヴォスは無言で、窓ガラス越しに室内の様子を見つめていた。
「……おいおい、拍子抜けだなァ。没落したって聞いた割には、随分と幸せそうじゃねェか」
アポロギアが木の枝に横になりながら、つまらなそうにぼやく。
窓ガラスの向こうには、暖炉の火が燃える温かなリビング。
室内では、夕食のテーブルを囲む三人の家族がいた。
初老の紳士と、優しげな夫人。
そして、その間には10歳くらいの少女が座っている。
「パパ、ママ! 私、もっと魔力を増やして、立派なマギアンになるね!」
「ああ、そうだとも。お前は『私たちの唯一の希望』だからな」
「ふふ、よかったわね。魔力の発育にもいい食材よ。たくさんお食べ」
笑顔。
そこにあるのは、どこにでもある幸せな家族の肖像だった。
父親も母親も、穏やかな顔をしている。
かつて「魔力を持たない長男」を産んだことで失脚した悲壮感など、微塵もない。
なぜなら、彼らは「捨てた」からだ。
一族の汚点である長男を捨て、優秀な魔力を持つ長女(妹)を得たことで、彼らは再び「マギアンの社会」に受け入れられ、ささやかな幸福を手に入れたのだ。
(……なんて、残酷な「正解」だ)
レヴォスは無言でその光景を見つめていた。
BGMが途切れたような、完全な静寂。
彼の瞳に映るのは、あまりにも皮肉な因果だ。
魔力を持たない異物――ヴァル・ヴェリテクスを排除したことで、この家族は「再生」したのだ。
「マギレスを捨てられたから……この幸福は完成したのか。残酷なほど合理的だ」
レヴォスの独白は、誰に向けたものだったのか。
ヴァルへの同情か。
それとも、こんな「品種改良された家畜」のような幸せしか許さない、世界への嫌悪か。
少女が笑うたびに、レヴォスの脳裏には、泥にまみれて生きるマギレスの姿が重なる。
鏡合わせの光と影。
その対比があまりにも鮮やかで、そして途轍もなく醜悪だった。
「……で? どうするんだい、レヴォス君?」
アポロギアが、窓ガラスに爪を立てる。
キィィ、と不快な音が鳴るが、室内の家族には聞こえていない。
「書斎も見たが、めぼしい情報はナシだ。……このまま帰るのか? ヴァルとかっていうマギレスを捨てた、この『お幸せな家族』をバラバラにしてもいいぜェ? 悲鳴や恐怖に歪む顔は、最高のショーになる」
「……必要ない」
レヴォスは冷酷に言い放った。
彼はすでに、興味を失っていた。
「こいつらには、真の人類の血は流れていない」
「ああん?」
「あの少女も、両親も。混血が進み、薄まったマギアンの成れの果てだ」
レヴォスは、幸せそうに笑う少女を一瞥する。
「あの少女も、2、3歳で魔力が発芽し、18歳で固定されれば、ただの魔力が低い凡庸なマギアンで終わる。……我々が探している『鍵』ではない」
レヴォスにとって、この家族は殺す価値すらない「家畜」だった。
世界を変える可能性を持つのは、この家を追放されたヴァルただ一人。
皮肉にも、捨てられたゴミこそが、至宝だったのだ。
彼は踵を返した。
「行くぞ、アポロギア。……本物は、やはり泥の中にいるようだ」
レヴォスの視線が、地面の下――アトランティアの深層へと向けられる。
「へいへい。……命拾いしたなァ、豚共」
アポロギアは最後に一度だけ、幸せな食卓に向けて中指を立て、レヴォスの後を追って空へと溶けた。
室内では、何も知らない家族の笑い声が、温かなスープの湯気と共に揺れていた。
それが、誰かの犠牲の上に成り立つ、あやふやな砂上の楼閣であることにも気づかずに。
【あとがき】
読んでいただきありがとうございます!
前半は、スラムでのヴァルの交渉術。
「地金」を見せた彼の姿、かつての苦労が偲ばれますね。
綺麗な言葉だけじゃ生き残れない世界で、彼は強かに生きてきました。
そして後半。
ヴァルの実家、ヴェリテクス家の食卓。
彼を捨てたことで手に入れた「ささやかな幸せ」。
……残酷ですね。
レヴォスが彼らを「家畜」と断じて見逃したのも、ある意味で最大の皮肉かもしれません。
「本物は泥の中にいる」。
この言葉が、ヴァルとレヴォスの奇妙な因縁を深めていきそうです。
次回、いよいよ地下深層へ。
そこで待つ「ゼロ・シリーズ」とは?
引き続き、応援よろしくお願いいたします!
(※ネトコン14参加中です! 「ヴァル、かっこいい!」「実家の描写が辛い…」と思った方は、応援ブクマいただけると嬉しいです!)




