閑話:道化の妹と、黄金の鬣(ヘルマフロディトス)。……目覚めれば、魔窟の王と対峙する
深夜。
世界樹の膝元、ユグド・セコイアの聖都アイオーン。その一角に、地図から抹消されている屋敷がある。
この国を影から守護する最長老、セバスチャン・アエテルナの私邸だ。
その二階にある客間は、死のような静寂に包まれていた。
床には分厚い絨毯が敷き詰められ、足音一つ吸い込んでしまう。窓の外からは、夜風に揺れる木々のざわめきすら聞こえない。
置かれているのは、貴族が使うような豪華な天蓋付きのベッドが二つ。
片方のベッドで、セイラはゆっくりと瞼を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見知らぬ天井だ。
最高級のシルクで織られた天蓋。鼻腔をくすぐるのは、清潔なリネンの香りと、どこか遠くから漂う高級茶葉の芳醇な香り。
(……ここは?)
瞬きを繰り返す。
記憶の彼方にある匂い。情報屋として何度か招かれたことのある、あの老執事の屋敷だと理解するのに数秒を要した。
「……ッ、ぅ」
体を起こそうとして、こめかみに鋭い痛みが走る。
軽い眩暈を覚えながら、セイラはシーツの上で自分の右手を握りしめた。
開いて、また握る。
指先の感覚はある。血管を流れる魔力回路の循環も正常だ。身体的なダメージは皆無と言っていい。
だが、精神の奥底に、得体の知れない不快感がこびりついていた。
まるで大切な記憶のページを、誰かに乱暴に引きちぎられたような喪失感。虫食いのように欠落した時間が、不安を煽る。
ふと、気配を感じて隣のベッドに視線を向けた。
瞬間、セイラの喉がひきつった。
「……ぁ」
そこに横たわっていたのは、蝋人形のように顔色の悪い青年――ヴァル・ヴェリテクスだった。
いつもの笑顔が満ちた表情はない。苦痛に歪んだ眉間と、浅く早い呼吸。
布団から出ている左肩の先は、ない。
純白の包帯が何重にも巻かれているが、それでも隠しきれない赤黒い血が滲み出し、彼が失ったものの大きさを残酷なまでに物語っていた。
左腕切断。
情報屋として数々の修羅場を見てきたセイラでさえ、その痛々しさに目を背けたくなった。
魔力を持たない彼が、どれほどの覚悟で、どれほどの暴力に立ち向かったのか。想像するだけで胸が締め付けられる。
「……ごめんね、ヴァル君」
セイラの声が震えた。
ベッドの脇には、丸椅子に座ったまま突っ伏して眠る女性の姿があった。
長い兎の耳を持つ獣人、ララだ。
彼女の手は、ヴァルの残された右手をしっかりと握りしめたまま、離そうとしない。
祈るように組まれた指先。その寝顔には、極限の疲労と、深い悲しみが刻まれていた。彼女もまた、ヴァルを守れなかった自分を責め続けているのだろう。
(……あぁ。私が彼を巻き込んだからだ)
セイラは唇を噛み、鉄の味を感じた。
ヴァルをこの国へ手引きしたのは自分だ。アイザックに紹介したのも、この危険な任務に彼が必要だと判断したのも。
全ては、使徒としての目的のために。
ズキリ、と頭が痛む。
その痛みがトリガーとなり、脳裏に直前の記憶がフラッシュバックした。
◇
数時間前。
ユグド・セコイアへ到着した直後のことだ。
国境での戦闘情報を掴んだセイラは、セバスチャンの屋敷へと急いでいた。
聖都特有の濃い夜霧が立ち込める石畳の道。街灯の明かりすら届かない暗がりから、それは現れた。
「やァ、愛しい妹。……随分と人間ごっこが板についてきたじゃないかァ?」
霧の向こうから、道化のような派手な衣装を纏った男が、まるで散歩でもするように現れた。
アポロギア。
魔神の使徒であり、セレーネ・アビソスを裏で統べる混沌の体現者。
そして――セイラの「兄」と呼ぶべき存在。いや、正確には同じ親から生み出された、完成品と失敗作と言うべきか。
「……そこを退きなさい、兄さん。私は急いでいるの」
セイラは足を止めず、冷たく言い放つ。
だが、全身の毛穴が恐怖で開くのを感じていた。本能が「逃げろ」と叫んでいる。
アポロギアはケラケラと笑い、わざとらしく両手を広げて通せんぼをした。
「つれないねェ。せっかく俺が育ててきた『火種(議員)』を、お前が連れてきた『水 (ヴァル)』が消しちまうなんてなァ」
その言葉に、セイラの足が止まった。
「……なんですって?」
「俺は何年もかけて、この国の腐った議員どもに餌をやり、太らせ、内部から国を食い破らせる『脚本』を書いていたんだよ。……それを、お前が全部台無しにした」
アポロギアの目が、三日月のように細められた。そこには笑いはない。
セイラは息を呑んだ。
セイラはセバスチャンのために、ヴァルを使って急進派議員を排除し、国の秩序を取り戻そうとした。
だがアポロギアは、その急進派議員を使って国を崩壊させようとしていた。
二人の作戦は、最悪のタイミングで交差してしまったのだ。
「あいつは良い『舞台装置』だ。魔力がないからこそ、何色にも染まる。……お前の描く『秩序の物語』にも、俺が描く『混沌の物語』にも使える」
アポロギアは恍惚とした表情を一変させ、底冷えする声で告げた。
「だが、今回は演出過剰だ。俺のオモチャ(議員)を勝手に片付けやがって。……いつからてめぇは、エルフの掃除屋になった?」
「……偶然よ。私はただ、セバスチャンと協力して、膿を出そうとしただけ」
セイラは震える声を押し殺し、兄を睨み返した。
「貴方の遊びなんて知らないわ! 邪魔をするなら……」
セイラの手元に、風の魔力が渦巻く。
だが、アポロギアは動じない。それどころか、憐れむような目でセイラを見下ろした。
「排除? 邪魔? ……ハッ、笑わせるな」
瞬間、肌を焼くような濃密な殺気が、セイラの全身を貫いた。
息ができない。重力が増したかのように、膝が震える。
「お前ごときが、俺の邪魔をできるとでも? ……失敗作の『不完全な器』風情が、使徒の真似事をするんじゃねェよ」
ブチリ。
セイラの中で何かが切れた。
心臓を鷲掴みにされるような劣等感。抗えない恐怖。そして何より、傷つきながらも懸命に生きるヴァルを「道具」と侮辱された怒り。
「黙りなさいッ!!」
セイラは叫びと共に、掌から不可視の風の刃を放った。
本気の一撃。鉄すら切り裂く真空の刃が、アポロギアの首を狙って疾走する。
だが。
アポロギアは避ける素振りすら見せない。
ただ、退屈そうに欠伸を噛み殺しながら、指をパチンと鳴らしただけだ。
――パリン。
何かが割れる音がした。
風の刃が、セイラの意識が、そして世界の理そのものが。
直後、セイラの視界が歪んだ。
天地が反転し、意識が泥の中へと沈んでいく――。
◇
「……そこから、記憶がない」
セイラは額に手を当て、深い溜息をついた。
恐らく、一瞬で無力化され、気絶させられたのだ。そして、運良く(あるいは気まぐれで)セバスチャンに回収されたのだろう。
殺されなかったのは慈悲ではない。「殺す価値もない」と判断されたからだ。
悔しさが込み上げてくる。爪が食い込むほど拳を握りしめた。
自分はまだ、あの男の手のひらの上で踊らされているだけなのか。
「……ごめんね、ヴァル君」
眠るヴァルとララに背を向け、セイラは逃げるように部屋を出た。
ここにいると、自分が彼らを壊した元凶だという事実に押しつぶされそうになる。
冷たい空気を吸いたい。
そう思って廊下を歩く。
深夜の屋敷は静かすぎるほど静かだった。使用人の気配もない。ただ、廊下の突き当たりにある応接室から、微かな光と、異質な空気が漏れ出していた。
濃密な、獣の匂い。
そして、肌が粟立つような圧倒的な覇気。
セイラは吸い寄せられるようにその扉の前へ立ち、震える手でノブを回した。
ガチャリ。
扉を開けた瞬間、セイラは再び息を呑むことになった。
「――おや。お目覚めですか、セイラ嬢」
部屋の中央、ローテーブルを挟んで、優雅に紅茶を啜るセバスチャンの姿があった。
彼はいつもの温和な笑みを浮かべている。
だが、セイラの視線は彼には向かない。向けられない。
その対面に座る、圧倒的な「存在感」を持つ人物に、視線も魂も釘付けになったからだ。
椅子が軋んでいる。
最高級の革張りソファが、その重量と圧力に悲鳴を上げているのだ。
その人物は、豪奢な毛皮のマントを羽織っていたが、その下にある肉体は規格外だった。
黄金色の肌。
丸太のように太く、鋼のように引き締まった腕。
頭部には、百獣の王たる雄々しい黄金の「鬣」が広がり、その中心にある鋭い瞳孔が、入室したセイラを射抜いている。
どう見ても、最強の獅子の獣人(レオ種)。
しかし、はだけた胸元には、豊満で巨大な乳房が揺れ、腰つきは妖艶なほどに女性的だった。
男であり、女であり。
獣であり、人であり。
相反する属性を暴力的なまでの「美」で統合した、究極の生命体。
彼の国では「神の奇跡」として崇められる両性具有。だが、目の前の存在はそんな生易しいものではない。
生物としての格が違う。
捕食者としての本能が、全身から溢れ出している。
「……目が覚めたか、小娘」
その人物が口を開く。
腹の底に響く地響きのような重低音と、鈴を転がすような高音が混じり合った、不思議な声色。
耳心地が良いのに、背筋が凍るような威圧感を含んでいる。
レオ・プライマの支配者。
生命と多様性を司る、獣の神の代行者。
「貴様がアポロギアの妹か。……ふん、匂いは似ているが、随分と脆そうだな」
黄金の瞳が、値踏みするように細められた。
セイラは金縛りにあったように動けない。蛇に睨まれた蛙だ。
セバスチャンが困ったように、しかし深い敬意を込めて微笑み、紹介した。
「セイラ嬢。紹介しましょう。……遠路はるばる、お忍びで駆けつけてくださったのです」
老執事は手を開き、その王の名を呼んだ。
「レオ・プライマの使徒――マジェスタス殿です」
セイラは扉のノブを握ったまま、立ち尽くすしかなかった。
魔窟だ。
兄という怪物から逃れ、目覚めた先には、また別の、さらに強大な怪物が待ち構えていたのだから。
【あとがき】
読んでいただきありがとうございます!
……はい、ただの閑話ではありませんでした(笑)。
セイラさんの視点で描かれる、第2章での裏側。
アポロギアとの関係性、そしてヴァル君への罪悪感。
彼女もまた、板挟みの中で苦しんでいる一人なんですね。
そしてラストに登場した、超弩級の新キャラクター!
レオ・プライマの使徒、マジェスタス。
「男であり女であり、獣であり人である」
カオスな存在ですが、実力は本物です。
(セバスチャンとも旧知の仲のようですね)
これで役者は揃いました。
月曜日から始まる第4章では、
彼らがヴァルたちとどう関わってくるのか……?
波乱の幕開けにご期待ください!
(※ネトコン14参加中です! 「マジェスタス強そう!」「セイラさん頑張れ!」と思った方は、応援ブクマいただけると嬉しいです!)




