第4話:生存確率0.1%!? 調子に乗った素人を襲う「格上の絶望」
翌朝。
まだ空も白み始めたばかりの早朝、ヴァルはいつもの作業着に身を包みタートルと共に街を出ていた。
辺りは街外れに広がる乾いた岩場で、海からの湿った風が吹き抜け、岩肌には白い塩がこびりついている。
普段なら、この時間にはもう荷運びの仕事に出ている頃だ。休む間もなく働き、日銭を稼ぐ。それが彼の日常だった。
だが、今日は違う。
仕事を休み、向かう先は――『廃坑道』と呼ばれるDランク相当のダンジョンだ。
(……誰も見てないな)
入り口である崩れたトンネルの前で、ヴァルは周囲を見回した。
ギルドの管理下にあるとはいえ、危険度が低いため常駐の警備員はいない。古びた看板が一つ立っているだけだ。
心臓が早鐘を打つ。無許可での侵入。バレればただでは済まない。
『照会中……Dランク相当のダンジョンにおける、一般人の立ち入りに関する規定を参照』
脳内でレティナの声が響く。
『当該エリアは「自己責任区域」に指定されています。原則として、登録証の提示義務はありません』
「だよな。ルール違反じゃない。……ただ、素人が入るなっていう『マナー』があるだけだ」
ヴァルは自分に言い聞かせるように呟いた。
世間的には自殺行為だ。マギレスが武装もろくにせず、単身で潜るなんて。
だが、今の俺にはこの左目がある。
昨夜の恐怖は薄れ、代わりに「稼げる」という甘い期待感だけが、彼の足を前へと進ませた。
俺一人で稼げば、分け前は全部俺のものだ。
『スキャン開始。……前方30m、小型敵性体を確認』
レティナの機械的な警告と共に、視界に赤いマーカーが表示される。
ヴァルは緊張に唾を飲み込み、腰に差したセラミックナイフを引き抜いた。
昨日のような恐怖はない。むしろ、試してやりたいという高揚感があった。
「よし……行ってやる!」
影から飛び出したヴァルの前に現れたのは、体長1メートルほどの巨大なネズミだった。
『エーテル・ラット』。繁殖力が高く、どこにでもいる雑魚モンスターだ。
通常種より少し大きいが、ハウンドに比べれば可愛いものだ。
『推奨:頸椎への刺突』
緑色のラインが、ラットの首筋へと伸びる。
ヴァルはその線の上をなぞるようにナイフを突き出した。
迷いのない一撃。ナイフは吸い込まれるように急所を捉えた。
「ギッ!?」
ラットは短い断末魔を上げ、痙攣して絶命した。
あっけない勝利。
だが、問題はその「後」だった。
「うわっ、汚ねぇ……!」
絶命の間際、ラットが撒き散らした体液と泥で、ヴァルの作業着は瞬く間に汚れてしまった。
臭い。獣臭さと汚水の臭い。
顔をしかめながら、ヴァルはラットの腹を裂き、魔鉱石を探した。
「……あった」
取り出したのは、ピンポン玉ほどの手頃な大きさの石。
だが、色は濁った茶色。輝きも鈍い。
「……『茶色魔鉱石』かよ」
最も価値の低い、最低ランクの石。
市場価値は1 Grit。パン一つ買える程度の価値しかない。
『警告:エネルギー効率低下。本機の稼働維持には、最低でも青色(10 Grit)相当の摂取が必要です』
視界の端に、冷酷な収支計算が表示される。
【本次戦闘収支:+1 Grit / 推定消費エネルギー:-2.5 Grit(赤字)】
「……金食い虫め」
『本機はプロビデンス・レティナ (Providence Retina)。登録名、レティナとなっています』
「んなことは分かってるよ……!」
ヴァルは苛立ちを隠せずに石を懐にしまった。
たった1 Gritのために、服を汚し、神経をすり減らしたのか。
これなら、街で荷運びをしていた方がよっぽどマシだ。
「……次だ、次!」
その後も、ヴァルは数匹のラットを狩った。
だが、結果は惨憺たるものだった。
手に入るのは茶色の石ばかり。
慣れない戦闘でスタミナは削られ、精密機器であるセラミックナイフの刃も、ラットの硬い骨に当たって微かに欠け始めていた。
「はぁ、はぁ……割に合わねぇ……」
壁に背を預け、ヴァルは荒い息を吐く。
冒険者の華やかさとは程遠い、泥臭く、地味で、そして何より「儲からない」現実。
これが、底辺冒険者のリアルだった。
『警告:使用者のバイタル低下。疲労蓄積レベル3。休息を推奨』
「うるせえ! 青色(10 Grit)を見るまでは帰れねえんだよ!」
現在の稼ぎ、計12 Grit。
昨夜の消費分どころか、今日のタートルの餌代にすら届いていない。
焦りがヴァルの判断を狂わせた。
「もっと奥だ……奥に行けば、デカいのがいるはずだ」
Dランクの浅い階層には、もうラットしかいない。なら、もっと深層へ行けば。
レティナの警告を無視し、ヴァルは暗い坑道の奥へと足を踏み入れた。
そして、広い空洞に出た瞬間。
空気が変わった。
『警告:高質量の敵性体を検知。……回避不能』
赤い警告ウィンドウが視界を埋め尽くす。
暗闇から現れたのは、全身が岩のようなゴツゴツとした装甲で覆われた、巨大な猪だった。
『グリット・タスカー』。
体長は3メートルを超え、その皮膚は天然の魔鉱石でコーティングされている。
本来、こんな浅い階層にいるはずのない強敵だ。
「ブモォォォォッ!!」
鼓膜を破るような咆哮。
ヴァルは足がすくみ、動けなくなった。
ラットとは違う。これは、俺が戦っていい相手じゃない。
『右へ回避。緊急回避行動』
レティナが最適なルートを表示する。
だが、ヴァルの足が恐怖と疲労で追いつかない。
「がっ……!?」
ドォォォォン!!
回避しきれず、突進の余波――衝撃波だけで吹き飛ばされた。
壁に激突し、肺の中の空気が強制的に吐き出される。
手からナイフが滑り落ち、カランと虚しい音を立てて転がった。
「あ、が……は……っ」
肋骨が軋む音。激痛。
タスカーは蹄で地面を削り、再び突進の構えを取っている。
その全身を覆う装甲には、安物のナイフや素人の腕力では傷一つつけられないだろう。
『損害報告:肋骨に亀裂を確認。戦闘継続困難。……生存確率0.1%未満』
レティナが、死の宣告を読み上げた。
ヴァルは壁にもたれかかったまま、腹を押さえてうめく。
逃げ場はない。ここは行き止まりだ。
タスカーの下顎から伸びる二本の巨大な牙が、魔力に反応して青白く発光し始めた。
あれを喰らえば、人間の体など紙くずのように千切れるだろう。
「クソっ……こんな、小銭稼ぎ程度も出来ないのかよ……」
涙が滲む。
死にたくない。もっと稼ぎたい。タートルに美味いものを食わせたい。
そんなささやかな願いすら、この世界は許してくれないのか。
タスカーが地面を蹴った。
死が、迫る。
『生存確率上昇のための撹乱行動を推奨:投擲』
レティナの表示が、足元に落ちていた手頃な石を緑色にハイライトした。
無駄だ。あんな石ころで何になる。
だが、ヴァルの体は無我夢中で動いていた。
石を掴み、渾身の力で投げつける。
カッ!
石は吸い込まれるように、タスカーの眉間――装甲の継ぎ目のわずかな隙間に命中した。
タスカーが一瞬、ビクリと動きを止める。
だが、それだけだった。
巨体の突進エネルギーは止まらない。
終わった。
ヴァルが目を閉じた、その時。
――ズドンッ!!
世界が白く染まった。
鼓膜を破るような轟音と共に、「紫色の雷光」が目の前を走り抜ける。
「……っ!?」
鼻を突く強烈なオゾン臭。肌が粟立つような静電気。
ヴァルは腕で顔を覆い、衝撃に耐えた。
やがて、光が収まる。
恐る恐る目を開けたヴァルの視界に飛び込んできたのは――黒焦げになって倒れ、煙を上げているタスカーの巨体だった。
あんなに硬そうだった装甲が、飴細工のように溶解し、ドロドロに溶けている。
「……え?」
何が起きた?
呆然とするヴァルの視線が、その「原因」へと吸い寄せられる。
タスカーの死体の傍らに、一人の男が立っていた。
パチパチと紫色の電流を帯びた、身の丈ほどもある大剣を肩に担いでいる。
鍛え抜かれた体躯。鋭い眼光。
その男は、ただ立っているだけで空気を支配するような、圧倒的な「本物」のオーラを纏っていた。
「……」
男がゆっくりと、ヴァルの方へ顔を向ける。
助かった。
だが、その安堵よりも先に、ヴァルの本能が警鐘を鳴らした。
この男は、タスカーよりも危険だ、と。
「……おい。生きてるか?」
低く、腹の底に響く声。
ヴァルは言葉が出ず、ただ震えながら頷くことしかできなかった。




