女医の春子と熊を狩りに行く話
猟銃を担いだ彼女が、朝霧のなかに立っている。
白衣ではなく、迷彩柄の防寒着。
首には細い銀のチェーンが光っていた。ペンダントトップのように見えたそれは何かの牙だと後で知った。
「準備はできた?」
彼女がこちらを振り返る。
ただ頷くのがやっとだった。
僕らの足元には霜が降りていて、息を吐くたびに音もなく空気が白くなる。
前日に見た熊の足跡が頭から離れない。五本の指。泥濘に沈んだ大きな足跡。
それが、熊が近くにいることを示していた。
彼女は外科医だ。手術のときと同じ目で山を読む。
「熊はね、風を読むの」
そう言って、僕らの位置を風下に調整した。
いつの間にか、僕が彼女の後ろを歩くようになっていた。
「どうして熊を?」
僕は訊いた。
彼女は銃を抱えたまま、立ち止まって振り返った。
「命と向き合ってるって、はっきりわかるから」
彼女はそう言って、霜柱をひとつ拾い上げて、指先で崩した。
病院で何人も死なせたのかもしれない。
あるいは、自分の手で死を遠ざけようとするうちに何かを見失ったのかもしれない。
雪がざわり、と鳴った。
彼女の目が鋭くなった。
木々の隙間に、大きな影。
黒々と小山のような、だが動きは静かだった。
彼女は跪いて、銃を構えた。
僕はその横で、息もできずにただ固まっていた。
熊がこちらを向いた。
彼女の指が引き金にかかる。
空気が張り詰める。
しかし、その直後、彼女は深く息を吐き、銃を下ろした。
「撃たないの?」
と、震える声で僕が訊くと
「小熊」
と彼女がポツリと答えた。
帰り道、僕らは何も言わなかった。
彼女は銃を背負い、熊の去った足跡の向こうをまっすぐ見つめていた。
山の霧が晴れて、空が青く広がっていた。
おそらく、彼女は、もう何かを撃つ必要はなかったのだ。
あるいは、撃たないことを選べる場所を探していたのかもしれない。
僕は彼女の背中を見ていた。
「春子先生」と呼びかけようとして、やめた。
名前だけでいいと思ったからだ。