この声は、扉の向こうに届かない
思えば“兄弟”ってのは、奇妙な関係だ。
赤の他人よりは、互いをよく知っている。だが、全て分かり合えているわけじゃない。
そもそも、分かり合いたいとさえ、思って来なかった気がする。
気づけば当たり前にそこに居て、当たり前に一緒に育って来た。
大切だとか、兄弟愛なんて、そんなこと考えたこともない。
だからと言って嫌いなわけではない――と言いたいところだが、時々無性に腹が立つことはある。
そもそも俺より“出来のいい”人間なんて、赤の他人だって気に障る。
一番じゃなくて良いだの、成績より個性だのと言われたところで、自分より“上”がいることを知れば、俺の自信は勝手に揺らぐ。
自分の方が“下”だと知りながら、それでも自分の存在意義を素直に信じていられるほど、俺は楽観主義じゃない。
まして相手が身内なら、余計に「俺って何なんだ」って気分になる。
他人がよく冗談で口にする「親からもらえる良い資質は全部兄に搾り取られて、弟には搾りカスしか残らなかった」ってアレ――時々本気でそんな気がしてくるから、本当にやめて欲しいんだ。
弟ってやつは、何かと兄と比べられる。
一人目には比較対象も何もいないが、二人目以降はどうしたって、先に生まれた人間と比較されてしまう。
成長の速度、わがままの程度、幼稚園や学校での態度、その他諸々のあらゆる度量……「お兄ちゃんはこうだったのに」と直接言われなくても、いつでも比べられているのを感じる。
俺は明らかに、親から期待されていなかった。
もっと言うなら、途中から完全に諦められていた。
兄の進路にはあれこれ口出しして、その将来を嘱望していたくせに、俺の時には「行ける所へ行けば」くらいな感じで、完全に放任していた。
高校受験の時なんて、本当は偏差値的に“もうちょい上め”も狙えたのに、それに気づかれることすらなかった。
大したことのない俺の成績に、親は興味すら抱かなかったのだ。
面白くは無かったが、俺がちょっと頑張ったくらいで兄と並べるはずもない。
そもそも努力の嫌いだった俺は、早々に諦めた。
親から期待されることを諦めて、早々に“その代わりの立ち位置”を探った。
よく“下の子”は“上の子”より要領が良いと言われる。
だが俺から言わせれば、それは当然の生存戦略だ。
親の期待や愛情を競い合うライバルが“最初から居る”状態で、生き抜くために頭を使ってきた結果だ。
ライバルの失敗を反面教師にしてその“逆”を行くのも、ライバルの得意・不得意を分析して“カブらない”分野で評価を狙うのも、ビジネスの世界じゃ普通にしていることだろう。
育てるのにいちいち緊張感を持たれる“一人目”と違い、“二人目”は何かと“テキトー”に扱われやすい。
それを肌で感じているから、ハングリー精神が違うのだ。
俺が選んだ立ち位置は“家族を笑わせる道化”だった。
学校で“人気者”になるのは“学業が優秀な者”ではない。
勉強ができなくても、皆を笑わせて楽しませられれば、人が集まって来る。
笑いの世界なら“出来の悪さ”さえ、自虐ネタとして美味しく使える。
だから家でも、その方向性を目指した。
兄は明らかに小馬鹿にして、俺の成績の悪さや物の知らなさを、いちいち貶してきた。
何かにつけて知識や能力をひけらかして、上下関係を分からせようとしてきた。
だが俺はその全てを、無傷で受け流した。
マウントを取って優位に浸ろうって相手の意図を、わざわざ汲んでやる義理は無い。
何を言われてもへらへら笑っている俺を、兄はどう思っていたのだろう。
プライドの無い低能とでも蔑んでいただろうか。
出来る人間に、俺の真意なんて分かりっこない。
兄に乗せられて親まで一緒に俺の“出来なさ”をイジってくる中、それを大真面目に受け取って凹んでいたりしたら、惨めが過ぎるじゃないか。
俺にできる生存戦略は「そんなん別にどうでも良くね?」と全てを投げ出し、頭を空っぽにすることくらいなのだ。
初めから勝負にならない兄という存在を前に、俺には諦めグセがついてしまった。
どうせ敵わないなら、ムダな努力なんてせず、ラクに生きた方がいい。
高望みして“ちょい上め”な学校を狙うより“ちょい下め”を選んだ方が、ラクして成績をキープできる。
親の言いなりに高い目標ばかり挑まされる兄を横目に、ゆるく毎日を生きてきた。
兄が俺に対して苛ついていたことに、だいぶ前から気づいていた。
親の期待やプライドで雁字搦めになって極限まで努力する兄にとって、努力もせずにへらへら生きる俺は癪に障るのだろう。
成績が悪くても、いろいろと出来なくても、気にすることなく笑っている――そんな俺は能天気で幸せそうに見えるのだろう。
兄の貶しが俺への妬みの裏返しだと、いつ頃からか気づいていた。
どうして人は「隣の芝生の方が青く見える」のだろう。
俺の選んだ生き方なんて、消去法で残された、なけなしの生存戦略なのに。
俺が羨ましいなら、自分だってこういう生き方を選べばいいだろうに。
わざわざ自分を追いつめて苦しむ兄を「可哀想に」と上辺で思いながら、特に何を言うでもするでもなく、横目で見て来た。
親の期待というものが、そんなに良いものではないことくらい、兄を見ていれば嫌でも気づく。
親の目がずっとついて回ることの重圧。
期待を裏切ってしまった時の失望の眼差し。
それが無い俺の人生は、幸せなのかも知れないと思う。
だが、これっぽっちも目を向けてもらえないのは、やっぱり寂しい。
裏切るほどの期待さえかけてもらえないのは、やっぱり空しい。
そもそも他人に認められるスペックを持っているというだけで、普通に羨ましい。
俺だってずっと、兄が妬ましかった。
だからかも知れない。
兄の苦しみに気づきながら、それに気づかないフリをして来たのは……。
兄が不登校になった時、家族の誰もがショックを受けた。
どんなに優秀な人間も、メンタルが折れてしまえばそれまでなのに――俺たちは皆、心のどこかで、優れた人間はメンタルの管理も人間関係も、全てそつ無くこなせると思い込んでいた。
だけど兄は普通に弱い部分を抱えた人間で、知らぬ間に精神をすり減らし、ある日ぽっきり折れてしまった。
両親――特に母の目は、ますます兄に向けられっ放しになった。
兄が自傷行為に走るたびにオロオロし、兄が病んだ発言をするたびにビクビクし……いつも、いつか兄が“いなくなってしまう”のではないかと怯えていた。
親の目がますます向けられなくなったことに、俺は不満を覚えたりはしなかった。
俺自身、衝撃が強過ぎてそれどころじゃなかったし、今まで兄に何もして来なかったことへの後ろめたさもあった。
仕方がない。
今、この家で一番気にかける必要があるのは兄だから。
俺は今、べつにそこまで家族の助けを必要としていないから。
――そう、自分に言い聞かせた。
昔から、そこを我慢するのには慣れている。
事態は好転することはなく、兄は部屋からも滅多に出て来なくなった。
母が何を言っても、父が何を諭しても、兄の胸には響かない。
言葉が悪いと言うより、兄の側に、他人の言葉を受け容れる余地が無さそうに見えた。
どんなに正しい理屈でも、どんなに優しい言葉でも、受け容れられない、受け容れたくない――そういう時って、あるんだよな。
それは言葉の内容のせいじゃなく――その言葉の主が“自分とは違う人間”だからだ。
同じ苦しみを知っているわけでもないのに――そんな反発心もある。
その言葉をカンタンに受け容れてしまえば、自分の“負け”な気がする――そんな対抗心もある。
だから、分かるんだ。
きっと俺の言葉なんて、両親以上に響かない。兄の心に届かない。
事態が長引くにつれ、俺もへらへら気楽なだけの弟ではいられなくなってきた。
お兄ちゃんがああなってしまった以上、あんたにしっかりしてもらわないと――そんな親の言外の重圧が、俺に圧し掛かってくるようになった。
今まで何の期待もかけず、気にもかけて来なかったくせに、勝手なものだ。
正直、俺にだって学校に行きたくないくらい嫌なことはある。
へらへら笑って何でも受け流せるつもりで、受け流しきれない理不尽なんてザラにある。
だけど、それを家族に話したことは無い。
いつも何でもないフリで学校へ行き、授業中ひそかに胃痛に苦しんだりする。
だって、言えないだろう。
兄がああなってしまったのに、さらに俺も、だなんて。
それを言い出した時の親の絶望の表情がカンタンに目に浮かぶ。
だから、言い出せなかった。
所詮はギリギリ耐えられる程度の悩みだったんだろう――そう言われてしまえばそれまでだ。
だけど俺としては、歯を喰いしばって乗り越えてきたつもりなんだ。
人の悩みや苦しみの、誰の方が重くて誰の方が軽いかなんて、一体誰に量れるだろう。
それは問題の重さにもよれば、本人の問題解決力やストレス耐性にもよる。
兄の抱える痛みがどの程度のものかなんて、俺には測り知れない。
俺の抱える痛みより重いか軽いかなんて、余計に分からない。
兄とはたまに台所ですれ違った時、挨拶や軽い世間話程度のことはする。
あえていつも通りの何でもない会話を、いつものようにへらへら笑ってする。
兄は前より口数が減ったが、相変わらず俺を小馬鹿にする。
きっと、そうすることで、ささやかな安心感でも得ているのだろう。
きっと俺が何を言っても、兄は変わらない。
俺の言葉に、あの閉ざされた扉を開く力なんて無い。
他人を拒絶して自分の世界に引き籠もる兄は“小馬鹿にしている弟”に救われたいなんて、欠片も思っていないだろう。
それでいながら、兄の苦しみを理解できない弟を、恨んだりしているのかも知れない。
兄弟ってのは奇妙な関係だ。
その胸の内を推測できても、本当に何を考えているのかは、結局のところ分からない。
俺は兄の本心を知らない。
兄だってきっと、本当の俺を知らない。
俺が今まで何を我慢してきたのか、何を隠してへらへら笑うのか……きっと兄は、一生知ることはないだろう。