メイス〜機密漏洩
飛びかかってきたのはオオカミよりもっと大きな猛獣だった。長い牙と、舌と、振り上げたゴツい爪が目に入った。ネコ科の黒い大型種――クロヒョウか?
弓を引く猶予はない。
シスターが前に出て杖で噛みつきを受け止めた。
時間を稼いでくれた。
とはいえ体格の差がありすぎる。長くは持たない。
矢をつがえ、引き絞る。狙いは首元、心臓を貫く位置。
が、だ。
クロヒョウの体が大きく揺さぶられた。足を踏みかえ、よろめく。
僕は目を疑った。
シスターが杖を捻っていた。それに合わせて牛の大腿骨を折るような鈍い音が立て続けに4回聞こえ、ヒョウの牙が根元から曲がったのだ。
ヒョウは慌てて顎を開き、前足を振り回しながら後退った。
爪も鋭いがシスターのフルプレートには通らない。
「ラトナ、トラが出たわ」
トラ? ヒョウじゃなくてトラか。
シスターはマントを外し、杖を長手に持ち替えてトラに殴りかかった。
杖の先端はトラの肩に入った。一撃で押し倒した。
さらに大根切りで真上から首に一撃、額に一撃。これでトラは完全に事切れ、岩の上から滑り落ちた。地面にぶつかってドスッと重い音がした。
「やっつけた」シスターが吹き込んだ。
「見えたよ。こっちもカタがついた」
ラトナは岩の下に出てきてトラの首に足を当てて脈を確かめた。
「あーあ。頭がめちゃくちゃだ。これじゃ売り物にならないよ」
「仕方ないでしょ。緊急事態だったんだから。――テツヤさん、怪我はないですか」
「大丈夫です。シスターは」
「大丈夫です」
シスターはトラの亡骸に向かって手を合わせた。よく見ると杖の先端は台形の覆いが外れて十字形の刃が剥き出しになっていた。見覚えのある形だった。そう、メイスだ。それは杖なんかではなく柄の長いメイスだったのだ。だからトラに噛まれてもひしゃげなかった。頑丈だから重いのだ。
僕はシスターがヒーラーか何かだと思っていた。聖職者といえば杖を持って魔法を唱えるものじゃないか。とんだ勘違いだ。メイスといえば聖職者は聖職者でも僧兵の方だ。
たぶん木の上から襲ってきたのだろう。狩りのやり方はヒョウそのものだけど、トラと呼ばれているのは他にこれより大きな肉食獣が存在しないからか。確かに森林性で単独行動というのはヒョウよりトラらしい。
我々は電話を切って獲物の回収に取りかかった。片っ端から僕のゲートに放り込んでいく。
「魔晶石はとらないんですか」
「ただのベタからはとれないよ」とラトナ。
「あれ、これモディじゃないんですか」
「モディだったらもっと大きいよ。ただのベタでも襲ってくるやつは切る。邪魔になるからね」
「あれ、僕の思い込みですか。モディにも種類があるんですよね?」
「あるよ。ベタの数だけモディにも種類がある。トラのモディなんてのは、まあ、見たことがないけどね。要はありふれたのと珍しいのがいて、レアリティに差があるのよ」
「ベタそのものにも数の差があるでしょう。珍しいベタのモディは珍しいって解釈であってます?」
「それはあるだろうね。モディばっかり出てきてベタがいないってことはないからね。というのはね、モディはベタを感化するのよ。だからモディは同じ種類のベタを引き連れていることが多い。ああ、コウモリの時は夜だったし、何よりコウモリだからね。気づかなかったとしても無理はないわ」
「じゃあ、ベタの動きを辿ればモディに行き着く、ということもあるわけですか」
「ご明察。森に入った時からコウモリを探してるんだ」
「全然意識してませんでした。言ってくれれば僕も探したのに」
「探せるような状態だったと?」
魔法を使うたびに布団みたいに気絶していたのはどこの誰だ?
「いや、それは……」
我々は手分けしてコウモリを探すことにした。手分けというか、ローラー作戦だ。ラトナが真ん中、シスターが左翼、僕が右翼。声は届かないが互いにぎりぎり姿が見える、という距離を保って足並みをそろえる。
「テツヤ、少し遠い」などトランシーバーの面目躍如だ。
問題の電話が来たのはその最中だった。
僕は社用スマホの振動に気づいた。
「すみません、キャッチです」
「キャッチ?」ラトナが聞き返す。
「電話使えなくなるので少し足止めててください」
「はいよ。休憩しよう」
登録のない電話番号だ。
「はい、師走です」
「あっ、アイボリーファームの言問です」
「ああ、どうも、お世話になっております」
社交辞令が森に響き渡る。
「先日のミーティングありがとうございました」と言問さん。
「こちらこそです。導入も判断していただきまして、その実務担当も言問様がされるということでメールにて伺っております」
「そうですね。その挨拶も兼ねてと思って電話させていただきました。あっ、お時間大丈夫ですか」
「はい、大丈夫です。実装・稼働まで作業をお願いすることが多くなると思うのですが、お願いできればと思います」
「こちらこそよろしくお願いします」
挨拶も兼ねて、ということはメインの用件が別にあるはずだ。言問小鞠氏はかなりいろんなことが気になるタイプの女の子なのだ。
「それで、1つ聞きたいことがあって、社内ユーザーの登録画面で部門グループというのがあると思うんですけど」
「はい」
やっぱり。しかも初歩の初歩。厄介ではないけど、手間と時間がかかるタイプの顧客なのは確かだ。
「シスター、コウモリがいた。そっちに飛んでったよ」ラトナの声が耳元で聞こえた。
「どこ?」シスターの声も耳元で聞こえた。
「もっと右手。こっちから見て右の方」
「えっ」と言問さん。
「えっ」僕も同じ反応だった。
こっちの声が入ってる?
「大丈夫ですか。コウモリがって、聞こえましたよね?」
「聞こえました?」
「はい」
「すみません、騒がしくて、ははは」
「いえ、でも、本当に大丈夫ですか。コウモリさん、師走さんの頭の上くらいを飛んでませんか。それくらい声近かったですよ」
「ええ、さっきはちょうど。離れました」
「社内、ですか」
「ええ」
「オフィスに入ってきちゃったんですね。珍しいですね。トンボでも驚くかもなのに」
「私もこんなの初めてです」
「東京にもいるんですね」
「夕方になるとわりと飛んでいるみたいですよ」
「……何の話でしたっけ」
「ユーザー登録画面の部門グループでしたね」
「ああ、そうそう、ユーザー登録の部門グループの……なんでしたっけ、ええと、飛んじゃって。というか、頭の中がコウモリ祭りで」
「あー」
「ごめんなさい、ど忘れしちゃいました。思い出してからまた連絡差し上げてもいいですか?」
「はい。全然構いません。こちらの騒ぎのせいで、申し訳ないです」
「いえいえ、そんな。では改めますのでよろしくお願いします」
「よろしくお願い致します」
「失礼します」
「失礼します」
キャッチが切れ、私物スマホとの通話に戻る。
静寂。
森の静寂。
「えっと、終わった?」ラトナが何か見計らったように訊いた。
「はい」
「あのさ、言いにくいんだけど、今の話全部聞こえてた」
「ぜ、全部?」
「全部」
考えてみればそうだ。言問さんにラトナの声が聞こえていたということはラトナにも言問さんの声が聞こえていたということになる。
キャッチというのはグループ通話とは違う。あとからかかってきた電話に出たらもともとつないでいた通話は保留になる。両方の通話が一緒になるということはない。問題は魔水晶だろう。特定の回線に対応しているのではなく、あらゆる回線を拾って音声と信号を変換しているのだ。そうか、いままでシスターやラトナにカチューシャをつけてもらったまま他の電話に出たことがなかったから気づかなかったんだ。
こいつは改めて運用を考えなければならないぞ。僕は頭を抱えた。