連絡・相談
ひとまず現世に戻るのは諦めますとシスターには言ったけれど、その実、僕自身はどうしたいのだろう。今は何もかも目新しいこの世界が、いつか当たり前になって、新鮮さを失って、それでも現世に帰りたいと思わないのだろうか。
それはつまるところ、今の仕事と切り離された僕がどうなっていくのか、という想像とイコールだった。確かに、最初の電話がかかってくる前、一度は喜んだ。それが仮初の衝動でなかったと言い切れるのだろうか?
上手く想像できない。
仕事の成分を根こそぎ取り去ったあとの僕に何かが残るのだろう。
想像できない。それに尽きた。
その夜、僕は自分から千手院部長に電話をかけた。
「はい千手院です」
「師走です。お疲れ様です」
「はいお疲れ様」
「仕事の中身の話ではないんですが、時間いいですか」
「いいよ、大丈夫。居眠りしそうなくらいだったから」プラスアルファのひと言がある時は本当に余裕のある時だ。
「僕、今、異世界に来てまして」
「うん」
「それでですね……」
「異世界?」
「はい」
「異世界って、あのラノベとかの」
「それに近いですね」
「剣と魔法の」
「そうです」
「いわゆるナーロッパ」
千手院部長も管理職である以前に営業職だ。客先と話を合わせるためにこの手のトレンドワードは網羅している。そんなことよりすごいのは異世界の実存をスッと受け入れたところだ。常識に対する感覚が麻痺しているというか、あらゆる理不尽に耐え抜いてきた価値観は伊達じゃない。
「安全確保は大丈夫? 身の危険は」
「衣食住は確保しました」
「それならとりあえずは安心だけど」
「ええ」
「いつから転移してたの?」
「日曜の朝ですね」
「あ……、あー」何かを察したようだ。「ずいぶん隠してたね」
「迷惑かかると思って」
「いや、こちらも気づかなくて、申し訳ない」
も、申し訳ない?
まあ、部下の不便に気づけなかった時の定型文なんだろうけど……。
「お客さんには言わない方がいいね」
「そ、そうですね」
千手院部長は仕事させる気満々だ。そう、異世界転移そのものは業務離脱の口実にはならない。
「電話が通じてるってことは通信は問題なさそうだね」
「はい。有線とWiFiないんでテザリングのパケットがえらいことになるとは思うんですが」
「容量上げるように総務に言っておくよ」
「助かります。ただコンセントがないんで現状電気がソーラー充電器頼みで」
「あー」
「日が落ちるとスマホもパソコンも2時間が限界です。夜間は仕事効率落ちます」
「それは対策必要だね。今はソーラーが元気だからいいだろうけど、もしもの時に昼も仕事できないんじゃ困るでしょ」
「ええ」
「電気が存在しない世界じゃないんでしょ? いや、なんて言うか、電源の有無じゃなくて、電流とか電圧とかいう物理現象が」
「と思います。スマホ動いてるんで」
「燃料は手に入る?」
「ランタン用の灯油はあるんですが貴重品みたいです」
「動物、植物由来かな」
「植物っぽいです」
「化石燃料には手をつけていない文明だね。他の自然エネルギーで補うか」
「魔法で電気を作り出すことはできると思うんですが」
「魔法でね。ただ雷みたいなものはサージ電流だから100ボルト電源規格の機械にそのまま流してもぶっ壊れるだけだね」
「整圧器が必要ってことですね」
「100ボルト交流電源用のインバーターだね。あるいは誘導電流を拾うみたいなやり方でも同じような仕組みで行けそうだけど」
「誘導電流ですか」
「電流電圧が合わないなら、とりあえず強い電流をアース線に流して、横にコイルを置いて磁界から電流を拾うんだよ。とりあえず施設部にかけあって必要な材料と作り方を送ってもらうよ」
「ありがとうございます」
「あと、リモートで仕事はできるんですけど、訪問メンテナンスができないんですよ。物理的に、どうしても」
「あー」
「すみません」
「それは肩代わりするしかないね。いいよ、あと時間のかかりそうなデータ処理系の仕事ももう少しこっちで引き取るようにするから」
「真剣に後任を探した方がいいかもしれないです。引き継ぎはきちんと用意しておくんで、真剣に」
「そうだね」
「お願いします」
とりあえず仕事と距離を置く方向に舵を切って何が起こるのか様子見をするのが妥当な線だろう。今は現実的な問題に1つずつ対処していく方が、たぶん精神的にもいい。
「あとは何か」千手院部長は訊いた。
「あーいえ、特に」
「こっちからも1つ聞いていい?」
「はい?」
「電気さえ行き渡ればうちのサービスを使ってもらえそうな感じなのかな」
「こっちの世界の人たちに?」
「そうそう」
「需要があっても送金手段がないですよ。やり損というか、前金が入らないです」
「あー、そっかー。うん、わかったわかった。じゃあできる限りのサポートはするから」
送金手段といえば、僕の口座に給料が振り込まれたところで使う手段がウェブ上のサブスクくらいしかなくなってしまった――つまりこっちの世界の実生活には何の役にも立たないわけだけど、まさしく社畜の鑑というべきか、その点には千手院部長も僕自身も全く気づかないのだった。