第96話
「そしたらその時、今の続き聞きます。思いっきりふってあげますから」
あまりのことに紫苑さんの瞳は飛びださん限りに見開かれていた。
「ふっ。お前、最後の台詞は失礼過ぎるだろう。もう俺、言う前からフラれてるじゃねぇか」
つい、頭に血が上ったというか、暴走してしまった為に、相当失礼な言葉をぶつけてしまった。
だが、紫苑さんは気分を害しているというよりも、面白がっているように見えた。
「ごめんなさい。つい、勢いでっ」
「お前に突然キスしたことは謝る。悪かった。でも、あの時の俺の気持ちは冗談半分なものじゃなかった。だから、俺は後悔はしてない」
「あっ、紅。忘れてた」
それまで黙って二人の会話を聞いていた青が、そう言って私の前に立つと、抱き締めて、少し強引なキスをした。
「ちょっ、青」
……紫苑さんがいるのに。
「消毒完了。紅は隙がありすぎる。俺が今、どんな気持ちか解る? 紅が帰って来ないのをどんな想いで待ってたか解る?」
「ごめんなさい、青。ごめんなさい。私、青に顔向け出来ないと思ったの。紫苑さんのことも黙ってたし、どう話したらいいか解らなくて、嘘を吐く自信もなかった」
私の身に何が起こって、あの土管にいたのか、恐らく紫苑さんから話を聞いたのだろう。
青がどんな想いでそれを聞いたのか、どんな想いで私を待っていてくれたか、どんな想いで私を探してくれていたのかを考えると申し訳なくて、自分の腑甲斐なさが情けなくて仕方なかった。
「兄さんのこと、俺のためにしてくれたことだろ?」
「すぐに言いたかった。だけど、紫苑さんが自分から青に会いに行くのを待ちたかったから。黙っていてごめんなさい」
「うん。紅が考えそうなことだ。兄さんとは、仲直り出来たよ。紅が寝てる間に色々話せたからね。でも、紅にキスしたことは許してない」
「青……」
どんなに嘆いたって、どんなに消したくたって、その事実は消えない。
じゃあ、私はどうすればいいの?
「もう、この唇は俺だけのものだ。誰にも触れさせない。もう二度と、いい?」
私なんかより、悔しがっているのは、青なんだ。
でも、青。私もそれは同じ気持なんだよ。青以外の人とキスなんてもう、二度としたくなんかない。
「うん。私も青だけがいい」
「なあ、おまえら。俺の存在忘れてんだろ?」
それは、私が青の唇にキスをしようと顔を寄せている時だった。
その言葉どおり、私は完全に紫苑さんの存在を忘れていた。二人の世界に入っていたのだ。
そのためか、私の反応は恐ろしく遅かった。
「……え?」
声のする方へ、振り向こうとするも、青に制止され、強引に引き戻された。
「兄さんに紅は渡さない。紅は俺の婚約者なんだ。紅だけは、いくら兄さんにだって渡せない。他のどんなものだっていらない。でも、紅だけはだめだ」
まるで子供のように、私を抱き締めて、これは俺のだからやらないっと断言しているようだった。
私という存在が、下手をすればおもちゃと同レベルの扱いのようにされている気がしなくもない。
「まだ完全にお前のものになったわけじゃないんだろう? 俺にチャンスがないわけじゃない。俺も、自分から初めて欲しいって思ったものなんだ。そう簡単に諦めるつもりはない」
やっぱり私は、おもちゃなのかな?
私の名前を「おもちゃ」に直しても、会話が成立しそうなそんな感じの攻防が続いていた。
「ねぇ、私の意思は? そこに私の意思はあるのかな? 私は物じゃないんだからね。さっきから聞いてれば、私をおもちゃかなにかと勘違いしてんじゃないの? 二人とも失礼だよっ」
本当は怒ってなどいないけれど、怒ったふりをしてキツめに言い放った。そうでもしないと、このくだらない言い合いが終わらないと思ったからだ。
「紅、ごめん。そんな風に思ってないよ」
「悪かったよ、馬鹿女」
「兄さんっ。紅に、馬鹿女なんて言わないでくれよ」
「俺の勝手だろっ」
また始まってしまった兄弟喧嘩。
だけど、私はその光景を嬉しく思いながら見ていた。兄弟喧嘩なんてこの二人には、なかったことだと思うから。だから、思う存分やればいい。
「良かったねっ」
「「何がだよっ」」
兄弟喧嘩の勢いのまま叫ぶ二人。
こんなに、意地になってる青を見たことはないし、こんなに嬉しそうな紫苑さんを見たことはない。
私は嬉しさが込み上げて来て、笑いまでも込み上げて来て、馬鹿みたいに一人で笑っていた。
最初、一人で馬鹿みたいに笑っていたが、そこに青も加わり、その後戸惑いがちに紫苑さんも加わった。
こんな風に青と紫苑さんが一緒に笑っている姿が見られるなんて、なんて幸せなんだろう。
昨日までは、どん底にいるような気分だったけど、結果的に良かったのかもしれない。
「青。お前も一緒に来てほしい。二人一緒に行った方が話が早いと思うんだ。それに、馬鹿女。お前も付き合え。俺達家族の醜態を、お前は証人として見ていろっ」
笑いが漸く治まった頃、真剣な表情をした紫苑さんが、口を開いた。
「うん。もう、そろそろ決着をつけよう。紅、一緒に来てくれるかな?」
なんで、紫苑さんは一々私に命令口調なんだということが気にならないわけではなかったが、雰囲気的にそんな突っ込みを入れる状況ではなかった。
なんにせよ、二人が一緒に家に帰る決心を、特に紫苑さんが家に帰る決心をしてくれたことが何よりも嬉しかった。
「勿論。お供します」
二人が私に立ち会うことを望んでくれるなら、私は全てを見届けようと思う。
「そっか、ありがとう紅。だけど、行くのはちゃんと紅の熱が下がってからだよ。まだ、もう少し寝てた方がいい。その前に、喉が渇いたんだったね」
真剣な表情が瞬時に優しげないつもの青に変わり、甲斐甲斐しく私の体を気遣い始めた。
「あっ、私、熱があるって忘れてた。青、風邪引いたりしないかな?」
自分が熱を出していることも忘れて、青とキスをしてしまって、もしかしたら青も熱をだしてしまうかもしれない。
「大丈夫。平気だよ」
頭をくしゃりと左手で撫でて、右手には用意してくれたスポーツドリンクの入ったグラスを私に差し出してくれた。
「ありがとう」
スポーツドリンクの入ったグラスを受け取って、口に含む。
私がこくこくっと飲んでいる姿を、青が笑顔で見守っている。見守っているというより、凝視しているといった方がいいほど、見ている。あまりに見られているので、私はついその視線から目を逸らした。
「あんま見ないでよ。恥かしいでしょっ」
もう既に青に見つめられて、私の顔は真っ赤に変貌している筈だ。
「いけない? 紅、ずっと寝てたから、こうやって紅を見るのは久しぶりなんだ」
いけなくはない。ただ、恥かしいだけだ。恥かしくて、飲み物も上手く飲めなくなってしまう。だって、ドキドキが止まらなくて、緊張してしまって。緊張した時って飲み物も食べ物も喉を通らなくなってしまうでしょ?
「いけなくはないけど……。恥かしいからあんまり見ないで」
青から体ごとくるりと反転して、視線から逃れた。
だが、それを追いかけるように、私を覗き込んでくる青。そんなことを繰り返していた。
「なあ、だから、お前ら。俺がいるんだから、ちょっとは気を使えよっ」