第95話
信じられない。信じたくない。
一体、私に何が起こったというのだ。一体、紫苑さんに何が起こったというのだ。さっきの出来事が夢であってくれたらと、何度も思うのに、無情にも唇にはしっかりと感覚が残ってしまっていた。何度擦っても、拭いとれない跡を残されてしまった。
「青に合わせる顔がない」
とぼとぼと足の向くまま歩いていたら、いつも青とまゆの散歩にくる公園に来ていた。
私は何かに導かれるように足を進める。
「……あった」
それは前に来た時と全く同じ様相で、そこに佇んでいた。誰にも忘れさられて、ただそこに置かれているだけの独りぼっちの土管。
私の秘密の場所は、今もなお顕在していた。
「久しぶり。またここに来ることになるとは思わなかったよ」
独り言のように、土管に話しているように、私は一人呟いた。
出来ればここには来ない方が良かった。ここは悩んでいる時や悲しい時に来るところ。来なくて良いなら、来たくはなかった。この間、あの丘でここのことをふと思い出したのは、こうなるように決まっていたからなのかもしれない。
自嘲ぎみな笑みを洩らして、土管の中に潜り込む。入れなくもない。中学、高校とさほどの成長を見せなかった私は、大して狭くなったとは思えなかった。
足をまげて団子虫のように丸くなり、顔を埋めた。
ここからは、公園内の喧騒も殆ど聞こえてこない。自分が迷子の子供のように小さな存在のような気がして、心許ない。
私はこれからどうすればいいんだろう。
今から会社に戻って紫苑さんと顔を合わせる勇気はない。かといって、家に戻って普段どおりに振る舞うことも出来そうにない。
青に何があったのかを全て打ち明けるのはどうだろうか?
すぐにその考えを打ち消すように頭を振る。
そんなこと出来るはずがない。青と紫苑さんの仲直りがまだ出来ていないのに、その事実を知ってしまったら、仲直りどころの話じゃなくなってしまう。今までの全てが無駄になる。
じゃあ、一体……。
自分の唇に触れ、悲しい溜め息をついた。
「青……」
涙が一粒ぽとりと零れ落ちた。二粒、三粒、四粒……。涙は休むことなく、とめどなく流れ続けた。
いつの間にか外は雨が降り出していた。私の心を象徴しているようなその雨を私は涙で霞む目で見ていた。雨を見ることは嫌いじゃない。その奏でるリズムも、当たる場所によって音質を変えるところも、まるで譜面をなぞるように強弱が現れるところも、寧ろ好きだと言えるかも知れない。
でも今は、この雨が悲しい。自分の気持ちが影響しているのか、悲しげなメロディに聞こえる。
不思議だ。幸せな気分の時は、鼻歌なんかを口ずさむのに、今はこのメロディさえ聞きたくはない。
雨を見ることが辛くなって、瞳を閉じた。雨の音だけが耳に入ってくる。どこかとても遠くから聞こえる音のようにも聞こえるし、雨の中に立っている時のように間近にも聞こえる。距離感が不思議だった。
青に会いたい。でも、青は私の表情の変化にとても敏感だから、私の顔を一目見たら何かがあったことがすぐにばれてしまう。
今、何時だろう?
バッグの中を探れば、携帯があるだろう。それを見れば、今が何時なのかは一目で解る。だが、私はそれをしなかった。
それほどに疲れていた。鳴き疲れていた。考え疲れていた。
体が鉛のように重かった。とても面倒になって、考えることを放棄した。そのうち起きていることにも耐えられなくなって、意識を手放した。
失いかけた意識の中で、最後にバシャッバシャッという足音を聞いた。一人……、いや二人。土管の右側から一人、土管の左側からまた一人。
青? でも、足音が二つ?
「紅っ」「馬鹿女っ」
最後に聞こえた二つの声。青と……、あんな失礼な呼び方をするのは紫苑さん……かな。でも、これは夢。ただの夢。夢なんだ。
そこで完全に意識を手放した。
どこかから聞こえる話し声に、私は耳を傾けた。
青の声だ。聞くだけで安心する青の声。
ああ、良かった。青がいてくれている。
もう一人は誰?
ぼそぼそと内緒話をしているような声であまりはっきりとは解らない。男の人の声だということだけは解った。
誰なんだろう。マスターかな、それとも名取さん? 桔梗さんかもしれない。
「解ってるよ、青」
この声、紫苑さんだ。
……あれ?って、紫苑さんっ!
がばりと勢いよく起き上がると、頭がトンカチで殴られた時のように、激しい痛みが襲い掛かってきた。
「いっっっつぅぅ」
あまりの痛さに頭を抱えた。
「紅っ。まだ起きちゃ駄目だ。ひどい熱なんだから。何にも心配いらない。だから、もう少し休もう」
「何にも?」
そんなわけない。恐らく紫苑さんがここにいるのに何にも心配ないわけなんてないのに。
「うん。何も心配いらないんだ。大丈夫」
あまりに青の表情が穏やかだったので、少なからず安心した。
まだ、頭が朦朧としていた私は、安心すると再び眠りについた。
とにかく眠かった。気になることも、心配になることもあるが、今は体が言うことを聞いてくれなかった。
昔から、普段病気をしない健康優良児だっただけに、一度風邪などを引くと酷くなった。こんな時、幼い頃は母が一晩中寝ずに看病してくれた。
「……」
「……」
私が目を覚ました時、聞こえてきたのは、声を潜めた二つの声。
私を起こさないために、台所で話しているようだ。一つはどんな小さな声でも解る、青の声。もう一つは多分紫苑さんなんじゃないかな。
私の体はぐっすりと睡眠を取った為か、大分楽になっていた。ただ、酷く喉が渇いていた。私が声をかければ、青が飲み物を持ってきてくれるだろうが、動けないほど酷い感じは既にない。
もしかしたら、台所には紫苑さんがいるかもしれない。出来れば顔を合わせたくはないけれど、なんであんな事をしたのかを知りたくもある。私はむっくりと起き上がった。
「紅には兄さんの気持ちは言わないで欲しい」
青の声が私の耳に届いた。
「解ってる。でも約束は出来ない」
私のことを題材にして話がされていることに間違いはないようだ。
「兄さんが紅を好きだってことを知ったら、紅は……。解って欲しい」
今、青はなんと……? 聞き違いだよね? そうだよね?
これ以上聞いていてはいけないと、判断した私は布団の中に戻ろうとした。だが、慌ててしまった私は、足元に積んであった本を倒してしまっていた。
「紅っ」
瞬時に青に見つかり、私は体を強ばらせることしかできない。逃げることも隠れることも、普段どおりににっこり微笑むことすら出来ない私は、仕方なく振り返った。
青と紫苑さんが私を見ていた。無理を承知で懸命に笑顔を作ったが、自分でもうまく出来ていないことくらい解っている。
「……喉が渇いちゃって」
二人がまるで話さないものだから、私はその沈黙に堪えられずに、言い訳のような言葉をかけた。
「紅、今の話し聞いて」
「何の話? 私に内緒の話でもしてたの? ていうか、二人、こうやって話しているってことは、仲直り出来たってことだよね? 良かったね」
喋りすぎだ。これじゃ、ばっちり聞いてしまいましたと言っているようなものだ。
「聞いてたなら、言わせて貰うぞ青」
青は何も答えなかった。それを紫苑さんは承諾したと捉えたようだった。
「俺はお前が」
「私は何も聞きませんっ。少なくとも今の紫苑さんからは。今の紫苑さんは逃げてばかりですっ。男見せてくださいよ。頭を下げなきゃならない人たちがいますよね? きっちり男らしくおとしまえつけて来て下さい。そしたらその時、今の続き聞きます。思いっきりふってあげますから」