第94話
「青。私、余計なことしちゃったかな?」
食事中の青は、お店でのクール男のように、無表情だった。
「違うんだ。ちょっと思い出してしまっただけなんだ。恥ずかしいことだけど、何か声を出しただけで涙が出て来てしまいそうな気がして。紅のせいとかじゃないよ」
へんに過去を思い出させてしまったんだ。
良かれと思ったことが、逆に青を傷付けてしまった。
「紅、勘違いしてるよ。俺が思い出したのは、良い思い出だよ。イヤな思い出ばかりだと思っていたのに、ただ忘れていただけなんだと思ったんだ。よくよく思い出してみればイヤなことばかりじゃなかったんだ。自分は不幸なんだって、思い込んでただけなのかもしれないな。被害妄想ってやつかな」
青は一体何を思い出したって言うんだろう。確かに私の前では話すほうだとは思うけど、こんなに饒舌な青も珍しい。先程まではまるで貝のように口を閉ざしていたというのに、今の青は貝の口が開いてもう塞がらないといった風に思える。
「なんでだろ。幸せな思い出より、辛い思い出の方が印象に残ってしまうんだ。辛い記憶の方がインパクトが強いから、その強烈な記憶が幸せな記憶を塗り潰してしまうんだろうね」
それは私にも理解できる。母と父が離婚する迄の数年間は私には苦痛でしかなくて、その当時の記憶には幸せなものなどないように思えた。だが、大分落ち着いてきた今、あの頃を思い出すと、幸せだと思える瞬間というのは、辛いと思った数と同じくらいだけあったのだ。
幸せってよく見てないと気付けないものかもしれない。辛いこと、悲しいこと、苦しいことといった負の出来事は敏感にならずとも感じることが出来る。それは、普段が幸せだからそう感じるんじゃないか。みんな基本的には幸せだから苦しみを与えられると、それは酷く印象に残ることになる。誰も気付いていないだけ、見えていないだけ、自分がいかに幸せなのかということに。
私は、今、凄く幸せだ。それは、その幸せというものを青が、見る手助けをしてくれているからなんだと思う。
「たまにさ、母さんと俺だけが家に二人だけって時があるんだ。父さんは出張かなにかで、兄さんは学校行事や塾の行事なんかだと思う。俺と二人だけの時は決まってカレーを作ってくれた。食卓で二人、向かい合って食べるんだけど、母さんはいつも自分の手を動かさずに俺の食べてるのを嬉しそうにじっと見てるんだ。普段、相手にされない俺がその時だけは母さんを独り占め出来た。それが俺の幸せだった。小さいかな」
「ううん、全然小さくなんかない。素敵だと思うよ」
青は涙を流していた。その涙が幸せな記憶を思い出した為の嬉し涙なのか、今まで自分の幸せな記憶を思い出すことが出来なかったことへの悔し涙か、はたまた全く別の涙かは解らないが、静かに涙に暮れる青の隣で、ただ座っていた。
青はなんの言葉も求めていないように見えた。私はただ隣にいるだけでいい。そう感じた。
「あっ、紫苑さん」
トイレに行って、会議室に戻ろうと廊下を歩いている時、給湯室に向かおうとしている紫苑さんとはち合わせた。
「なんだ、お前か」
まるで、私であったことを嘆いているようなその言い方は一体何なんでしょ。
でも、そんなことは一々気にしないように心掛けている。だって、紫苑さんのその話し口調は今に始まったことではないのだから。都合よく、それが紫苑さんの愛情表現なのだと思うことに勝手に決めていた。
「今日、一緒にお昼食べにいきません?」
「何で俺がお前となんか」
「じゃあ、お昼休みになったら迎えに来て下さい。また、絵を描くのに没頭して気付かないかもしれないので」
紫苑さんとは、何度かご飯を一緒させて貰っている。
紫苑さんが素直にオーケーしてくれたのは、最初の一回だけで、あとは「イヤだ」と悪態をついても何だかんだと一緒に食事に行くといったパターンになっている感じなのだ。
「何で俺がっ」
「それじゃ、後でっ」
紫苑さんの聞くつもりは、全くない。紫苑さんの言い分を聞いていたら埒が明かないもの。だって、私に対する悪態の90%くらいは、照れ隠しなんだから。
そして、昼休み。
そう、こうして何だかんだ言って、私を迎えに来てくれるのだ。
不機嫌そうな顔に、笑顔を向けると、ほんの少しだけ頬を赤らめて背ける。
「やっぱり迎えに来てくれたじゃないですか」
「別に、気が向いたから来ただけだ」
「いいえっ、紫苑さんは絶対来てくれますよ。紫苑さんはそういう人ですから」
紫苑さんが私に背中を向けるので、勝手に紫苑さんのことをあれこれと調子づいて言ってしまったことに、腹を立ててしまったのだと思った。
「ごめんなさい。紫苑さん、怒っちゃヤですよ」
回り込んで、紫苑さんの顔を覗き込めば、そこには意外な表情があった。
「紫苑さん……? もしかして……」
真っ赤な頬をした紫苑さんが一生懸命、平静でいようと努めていた。
「馬鹿っ、見んなっ」
「イヤですっ。見せて下さい。紫苑さん、照れてるんですね? 照れ顔、照れ顔っ。ほらっ、見せてっ」
無理やり腕を両手で掴み、顔から引き剥がせば、そこには本当に真っ赤になった紫苑さんがいた。
観念したように、でも、視線は私には合わせようとはしない。
「すごいっ。真っ赤っかですね。私が言ったどこの部分にそんな照れ要素があったんですか?」
「放せ、馬鹿」
紫苑さんの抵抗にあい、揉み合いになっているうちに、紫苑さんに会議室のテーブルに押し付けられた。
息を荒く吐く二人。見ようによっては、紫苑さんにテーブルの上に組み敷かれているように、今から紫苑さんに襲われますって感じの図に見えなくもない。イヤっ、そうにしか見えないだろう。
いつにない、紫苑さんの真っ直ぐな瞳が、私の心臓をどきりとさせた。
紫苑さん……?
何も言わず、私を見下ろす紫苑さんの瞳がとても強く、私を戸惑わせた。
「紫苑さん? 手、痛いですよ。放して下さい。私も悪ふざけが過ぎました。ごめんなさい。だから、仲直りして、ご飯食べに行きましょ?」
これ以上ないというほどに、明るく、こんな状況何とも思っていません、という風に努めて言った。
だが、紫苑さんは私の瞳を見つめたまま、何も言わず、手を放すこともない。
「紫苑さん?」
呼ばれているのに反応すらしない。
だが、次の瞬間紫苑さんの顔が近付いて来た……。
紫苑さんが何をしようとしているのか、何が起こっているのか、この状況は何なのか。整理することが出来ないまま、近付いてくる紫苑さんの顔を見ていた。
これって、これって……。
私の目まぐるしい回る思考の中で、今一つの結論に至ろうとしていた。
紫苑さんは、私にキス……しようとしてる……の? でも、何故……?
紫苑さんは青に似ている。でも、青じゃない。青じゃない……。
だから……、
「イヤっ」
紫苑さんが、もう目の前に迫っていたところを、思いっきり顔を背けた。
だが、私が顔を背けるよりも、紫苑さんが動けないように私の顎に手を添えるほうが一歩速かった。
青とは違う、唇の感触をイヤでも感じる。
感じるのは、不快だけ。青の唇だけを求めている、私の全身が悲痛な悲鳴を上げていた。
「んんっ、イヤぁっ」
紫苑さんから抜け出した片手で、思い切り紫苑さんを突き飛ばした。面白いくらいあっさりと、紫苑さんの体は私から離れた。
私は、鞄を抱えて逃げるように会社を飛び出した。その場に残してしまった紫苑さんの気持ちを考えることすら出来なかった。