第93話
私の願いは、みんなに祝福されて、結婚式を挙げたいということ。
私の家族はなんとかなるかもしれない。私は健二さんにも、離婚して離れてしまったお父さんにも結婚式に出て欲しいと思う。母は会いたくないと思っているかもしれない。だけど、同じ女として、結婚式というものがどれだけ重要な意味を持っているかは解っているだろうから、反対はしまい。
問題は青の家族だ。桔梗さんは出てくれるとして、紫苑さんと青のお母さんのことが気に掛かる。出来れば、式をあげるまでに仲直りをしてもらいたいところなのだけど。
そんなことを考えながら、ブツブツと一人呟きながら、鍋をかき回していた。
今日は作業を早めに切り上げて帰って来ていた。今夜はバイトも休みの日なのだ。そして、青からは今日は少し遅くなりそうだと電話があったばっかりだった。
「グッドタイミングだね」
おたまを回す手を止めて、にんまり笑って、うんうんと頷いた。
じっくりと煮込んで、さあ出来上がりという段になって、タイミングよく青が帰って来た。
「お帰りっ。丁度出来たところだよ」
「あっ、いい匂い。カレーだ」
「うん。うまく出来たと思うよ。着替えてきて」
「その前に……」
青がそのまま台所に来て、鍋の前に立っていた私の背後に立つと、後ろから手が伸びてきて、ガスを止めた。そのまま抱き締めると、ふぅっと長めに嘆息した。
「充電、充電」
こうやっていつも仕事から帰ってくると、一緒にいれなかった時間を埋めるように、私をきつく抱き締めるのだ。
そして、最後はキスで締めくくる。
「紅。キスしてもいい?」
青はいつだって私にこう聞く。キスを拒んだことも、拒むつもりもないのにどうしてだろう。
「いいよ。でも、青。どうしていつも聞くの?」
くすりと笑うと、青の顔が徐々にクローズアップされていく。
毎日、日常化した行為なのに、私の心臓は青に見つめられたその瞬間に、叩きつける乱暴な太鼓の音のように、ドカンドカンと鳴り響きだす。見つめられた瞬間にではない。実際には、その姿を見た瞬間だ。ただ、少しくらいならそのドキドキを悟られないようには出来ていると思う。青以外には。青には私の心情を見抜かれているのが解る。
そして……、
「いいよ。って言った時のちょっと照れた顔が可愛いから、ついそれ見たさに聞いている」
ドキドキを抑えきれない私を理解した上で、こうやって私を振り回して、楽しんでいる。
「じゃあ、もう、いいよって言わないようにする」
「じゃあ、もう紅とキス出来ないんだ?」
あっさりと離れていこうとする青。
「ちょっ、待って。イヤっ」
慌てて、青のワイシャツを掴んだ。
「どうした? 紅」
わざとらしい。
ほんの少しも隠し切れていない口端の笑み。
憎たらしくて、はねのけたいけど、青の瞳がそうはさせてくれない。
「ん? どうした?」
追い打ちをかけるように、青は重ねて問い掛けてくる。
「きっ、キス……、して」
青は顔いっぱいで嬉しそうに笑った。私は、恥ずかしさのあまり俯いて、この真っ赤に熟れたトマトのような顔を隠しているというのに。
「やっぱり青は意地悪だよ」
「そうかな?」
「そうだよ」
「こんな俺はイヤ?」
顔を上げると、青の瞳に出会った。その瞳には、まゆがボールをおねだりする時のような色が浮かんでいた。
かっ、可愛いっ。
小動物のようなその愛くるしい瞳は、そのへんの男がやったらはり倒してしまいたくなるに違いないのに、青がやると鼻血が出そうなほどに威力のあるものになる。
それは、天然か、計算か。
どちらにしても、私はその瞳に勝てないのだ。
「イヤじゃないけど、恥かしいんだってば。解ってるくせにっ。でも、でもね、青が嬉しそうな顔を見るのは嬉しい」
だから、青が望むなら、私は青の願う言葉を、恥かしさを撥ね退けてでも、言うのだ。
青が私の頭をくしゃりと撫でると、おでこにかかる前髪をかきあげて、そこに短いキスをした。
私は、青を見つめると、青はくすりと笑った。
おでこだけ? と私が不満に思ったのが解ったのかもしれない。
ゆっくりと下降してくる青の顔を、私は少しだって見逃さないように目の中に入れていく。
あっ、青が目を閉じた。なんて奇麗な顔なんだろう……。
見惚れている間に青の唇が、私の唇に重ねられた。
外気を未だに含んでいるのか少しひんやりと冷たい青の唇は、家の中にいた私の唇と溶け合って中和されていく。
「紅。キス上手くなったよね」
「そっ、それは、青がいつもするからでしょ? それに、いつとくらべてるの? もしかして、青と初めてキスした時? あの時のは、青が強引に奪ったんであって、キスとはいえないんだからね」
私がペラペラと喋る姿を微笑みをたたえた顔で見ていた。まるで、はいはい、解りました、といっているように。
「青が教えたんでしょ?」
青のネクタイを引っ張って、ぐいっと自分の方へ寄せ、そのまま唇を奪った。
最初、私の主導権だったキスは、いつのまにか主導権を奪われ、結局青に翻弄される形になってしまった。
こんなことを毎日やっている私達って……。
母のことをとやかく言える筋合いもないような、バカップルぶりなのかもしれない。でも、誤解しないように言っておくけど、こんな風にイチャイチャしたりするのは、二人きりの時だけなんだから。決して、誰かの前ではやっていないんだよ……多分。
「もう、着替えて来て。折角のカレーが冷めちゃうでしょ?」
「もう少しこうしてたいのにな……」
そりゃ、私だって青といつまでもイチャイチャしていたいって思うよ。だけど今日は、今日のカレーは自信満々なんだ。早く青に食べて欲しい。
「また後でね」
「仕方ないか。じゃあ、着替えてくる」
諦めて台所から出て行く青を見送る。
カレーを再び温めてから、皿に盛り、テーブルの上に並べて行く。
青が着替えて戻って来た時には、あらかたの準備は整っていた。
「これ……」
「うん? どうした?」
今日のカレーには、一番てっぺんに温泉卵が乗っけてあった。それを見た青が、少し不思議な顔をした。
「ううん。いただきます」
「いただきます」
私は、青がそのカレーを口にふくむのを、手を止め観察していた。
口に含んで、二、三度噛んだ後、目を少し見開かせた。
「これって……。いつものと違う……よね?」
「うん。違うよ。どう?」
「美味しいよ。でも、これって……?」
カレーを見つめたまま、何かを考えていた。いや、何かを思い出していた。
「……これって、母さんのカレーの味と一緒だ」
「うん。そうだね」
「え?」
驚いたように、私を見つめる。
「青のお母さんにレシピを教えて貰ったの。お父さんに頼んで」
この間、母の実家に帰った時、思い付いたことだ。
ずっと、お母さんの味を食べていない青は、やっぱりおふくろの味を食べたくなるんじゃないかなって、そう思った。まだ、実家に帰ることが出来ないと青が思っているのなら、せめて私がお母さんの味を再現できないだろうかと、そう思ったのだ。
当時青が好きだった料理を桔梗さんに頼んで、お母さんのレシピを貰って来て貰ったのだ。この間、桔梗さんと会ったのはそのレシピを受け取るためだったのだ。
「俺のため? ありがとう。俺、母さんのカレーが大好きだったんだ。ずっと食べたいと思ってた。どうして解った?」
「愛の力かな?」
そっか、と小さく笑って青はカレーを再び食べ始めた。お母さんの味を思い出しながら食べているのか、今日の青は無言で食べていた。
もしかしたら、余計なことをしてしまったのかもしれないと、一抹の不安がよぎった。