第92話
「お前が結婚を待たせてるんじゃないのか?」
言い返すことも出来ず、唇を噛んだ。
「そうなの? あんまり待たすと捨てられちゃうかもしれないよ」
富ちゃんの笑い声と共に少しからかい気味の声が、私の胸にぐさりと刺さる。
捨てられる……?
そんなこと、考えたこともなかった。いいや、違うのだ。青なら待ってくれると、思い込んでいる節がある。青を待たせてしまっていることに、目をつぶって見ないようにしていた。
青の顔を見ることが出来ずに、俯いた。
大きな手が私の頭を少し乱暴に撫でた。
青の手だ。
マスターにもよく頭をくしゃりとやられるが、目をつぶっていても、どちらの手だか解る。私の頭が青の手に馴染んでしまっているかのように、そうされているだけで、とても落ち着いた気持ちになれる。青はいつだって私の元気がない時に、こうして頭を撫でてくれる。それが私を落ち着かせるためには一番効果的なのだと知っているかのように。
「何も気にしなくていいんだよ」
耳元で、私にだけ聞こえる小さな声が心地好く響く。
どれだけ私を甘やかせるつもりなんだろう。甘えちゃいけないと思っていても、その手を取ってしまうのは、私の意志が弱いからなのか、青がそうなるように誘導しているからなのか。
青を見上げると、待っていたように笑顔が用意されていた。その笑顔に呑み込まれた私はもう何も言えない。
「はいっ。それじゃ二人に。結婚式は是非来てね。二次会はここで。それに新居にも遊びに来てね。すぐ近くだから」
「うんっ。ねぇ、富ちゃん。新婚旅行はどこに行くの?」
富ちゃんの声で、他にも人がいることに気付かされた私は、とにかくこの件は後回しと考え、気持ちを切り替えることにした。
「すぐには行かないで、ゴールデンウィーク中に行こうってことになってるんだ。本当は混んでて嫌なんだけど、そうそう会社も休めないしね。行き先はハワイ。きっと凄い混んでるよ。楽しむ前に疲れて、向こうでぐったりしてたりしてね」
苦笑を浮かべてはいるものの、心底嫌がっているようではなくて、どちらかというと、それさえも嬉しいのだと顔には書かれているようだった。
「そっか、それはかなり混んでるかもしれないね。でもいいね。ハワイ。私、行ったことないよ」
「私も初めてなの。海とかショッピングとかもいいけど、今流行りのパワースポットとかにも行って見ようかなと思って。まあ、そういうところも混むんだろうけどねぇ。お土産買ってくるから楽しみにしててね」
寺西さんは、常に笑顔を見せてはいるが、あまり口数の多い方ではないようだ。富ちゃんが話しを振ると口を開く程度。自ら進んで発言する姿は今のところ見ていない。
「うんっ。楽しみに待ってる」
富ちゃんと寺西さんは、それから二人でゆっくりとお酒を楽しんで、帰って行った。二人でいる時の富ちゃんはとても幸せそうで、本当に寺西さんのことが好きでたまらないというオーラが全身から出ているような印象を受けた。
青は、私のバイトの時間が終わるまで、カウンターで待っていてくれた。たまに常連客の相手をしながら、私が手の空いている時には話をしたり、マスターと話をしたり、そんなに退屈せずに待っていたようだった。
常連客のみんなが、一番に驚いていたことは、青の表情が大分柔らかくなっていたことだった。青のポリシーなんだかは知らないが、この店にいる時には笑わないというのは、変わっていないのだが、全体的な表情が柔らかくなっていると、常連客は口をそろえて言っていた。その原因は、私と付き合いだしたせいなんだろうと、酔っ払いの常連客に絡まれていたが、青はそれをはっきりと肯定し、周りから冷やかされていた。そんな時は、「そんなことないですよ」くらいの謙遜が欲しいものだと思うのだが。
「こうやってこの時間に一緒に歩くのって久しぶりだね?」
バイトのある日は、私を心配した青が迎えに来てくれていたのだが、流石にわざわざこの時間に迎えに来てもらうのは申し訳ないと思って、迎えに来ないように説き伏せた。その説得の作業もかなり難航したのだが、なんとか納得させることに成功した。それでも、アパートの前まで来ると、玄関前で青が心配そうに待っていたりする。
心配症にもほどがある。
きっとこんな風に心配してくれるのも、時が経つにつれてなくなっていってしまうのかな。そう考えると、こんなにも心配してくれる青を大切にしようと思うのだ。
「そうだね。紅が迎えに行かせてくれないから」
怨みがましい視線を投げ掛けられたが、わざと視線を逸らして見なかったことにする。
「でもいいじゃん。こうやって一緒に歩いてると新鮮な感じがしない? 付き合う前のことを思い出すよ」
青を苦手としていた私にとって、このたった数分の道のりが嫌で嫌で仕方なかった。
少々(どころじゃないと思うけど)強引な青のアプローチも殆どこの道で行われたことだった。そう考えると、二人が始まったのはここでだったのだと、考えることが出来る。
このたった数分間の道のりが、二人の未来を決めた。
青が私に会いに来てくれなかったら、私に近づく為に店でバイトを始めなかったら、私はマスターと結婚していたのかもしれない。きっと、それはそれで幸せな生活を送れたであろうけれど、今は、青以外の人との結婚はどう考えても浮かんでこないのだ。
私には、私が愛するのは、青しかいない……。
「青、私ね。最近いろいろ考えてるんだ。今の挿絵の仕事が終わったら、専門学校に通おうと思う。もっと絵の勉強をしたい。それで、将来はイラストレーターになりたいと思ってる……んだ。それで、その……、何というか、こんな私で良かったら、結婚してくれませんか?」
こんなに気恥かしいプロポーズを、青は、私の為に何度もしてくれた。親の前でも、恥ずかしめもなく、高らかと宣言してくれた。今は、私が自分の気持ちをぶつける時であると思う。
「これって、夢……なのかな?」
「ううん。夢じゃないよ。私ね、青とずっと一緒にいたい。だから、私を青の妻にして下さい」
「やばいって。やばいって、やばいよ。紅っ」
頭を抱えてぶつぶつと呟いていたと思ったら、突然力強く抱き締められた。
「青っ。青っ、苦しいっ」
なんとかもがいて、顔を上げると、ぽたりと頬に冷たいものが落ちて来た。
「青……? 泣いてるの?」
青はそれを否定する様に頭を振るが、その振動で、ぽたぽたと涙の粒が降って来る。何よりも美しい涙の雨が……。
青の頬に手をあて、いつも私が泣くとそうしてくれるように、一粒一粒掬って行く。大事な物を扱うように丁寧に丁寧に。
「俺っ。嬉しくて……」
言葉にならない想いが涙として溢れ出すように、言葉の結晶が頬を伝って行く。
「うん。解ってる。ごめんね、沢山待たせて」
「俺っ。絶対、紅を幸せにする。約束するよ。これからは、一緒に歩こう。同じ未来を」
「うん。青と一緒ならきっと楽しいね」
泣き止んだ青の手を取って、歩き出した。
その変哲もない、毎日歩いている小さな道が、昨日と今日とではまるで違う道のように見えた。大袈裟かもしれないが、それが私達への未来への道のように私には映ったのだ。
一歩一歩、未来を踏みしめるようにその夜、その道を、青と二人で歩いた。
この一場面を私は一生忘れないだろう。