第90話
「ねぇ、青。もし、紫苑さんに会えたら、何をしたい?」
学校から帰ってきた青と台所に立って料理をしていた。こっちに引っ越してきてからは、なるべく自炊をするように心掛けている。
青はいくら疲れていても、料理を手伝ってくれる。休んでいてもいいんだよ、といくら言っても、私と台所に立つのが好きなんだと言って、休もうとはしない。
「突然だね」
「うん。突然、思い付いた。ね、どうなの?」
一度聞いてみたいと思っていた。青は、紫苑さんに会えたら一体何をしたいのか、何を話したいのか、怒りたいのか、笑いたいのか、泣きたいのか。改めて、こういったことを青に尋ねたことはなかったように思う。
「そうだな。まず、殴るかもしれない……」
「えっ?」
予想外の展開です……。いや、当り前のことなのかな……。
「いや、嘘。殴んないかもな。でも、何やってたんだって、怒鳴るかもしれない。それから、泣いて抱きついちゃうかもな。それって、結構恥かしいけどね。会ってみないと何とも言えないけどね。落ち着いたら、紅を紹介するよ」
ズキリと良心が大きく疼いた。
紫苑さんは、もう既に私のことを知っているんだ。
「きっと紅を見たら、可愛くて羨ましがるんじゃないかな」
いえっ、全くもってそんなことはなく、日々、馬鹿だのアホだの言われ放題なのでございます。聞いたことはないが、恐らく青は何でこんな馬鹿女と付き合ってんだ。なんて思っているだろうと思われるわけです。
「それは、ないと思うよ。……うん」
「紅と兄さんと仲良くなったら、一緒にどっかに出かけたいよな」
それもどうかと……。なんでてめぇなんかと出かけなきゃならないんだと、悪態を付かれるのが山かと……。
普段、会社での紫苑さんを作業の合間に観察していたりするのだけれど、私への態度のような酷いものをしているのを見たことがない。目上の人への敬語はとても奇麗に使っているようだし、目下の人への態度にも優しい印象を与える。
って、なんで私だけあんな酷い仕打ちかなっ。
ただ、私まで酷くないにしても、ななちゃんには、ちょっと小生意気な態度を取っているのを見たことがある。それも、他の人が見ていない所で。勿論、私が悪態を付かれるのも、他の人がいない所でである。ななちゃんですら、知らないであろうと思う。
「そうだね。私もそう出来たらとっても嬉しく思うよ」
……出来るかどうかは、別として。
「あとは、兄さんを連れて家に帰る。もう、親とも決着をつけていい頃だと思うんだよね。俺も、いつまでも母さんとこんな関係なままなのもイヤだし、父さんもそれを望んでいると思う」
青、強くなったな……。
以前は、家族の話をするとそれだけで、辛そうな表情を浮かべていたのに、今はもう、笑顔で話すことが出来る。
紫苑さんのことも、今では受け入れ態勢は万全に整っている。いつ、紫苑さんが青の目の前に現れても大丈夫な状態なのだ。
問題は、紫苑さん。まだ、心は決まっていないようだ。あまり追い詰めてもいけないと思うので、そのことについては、触れないようにしている。
「あっ、そう言えばこの間、お父さんに会ったよ」
この間、桔梗さんと待ち合わせて、話をする機会を設けた。
というのも、桔梗さんにお願いしたいことがあったためである。
「ふ~ん」
「あれっ、ちょっとご機嫌斜め?」
「別にっ。そんなことないよ」
もうっ、青は桔梗さんにまでヤキモチ妬くんだから。
でも、嬉しかったから、青の腕に頭をもたれかけてみた。
「どうした? 紅」
「ううん。へへっ、ちょっと甘えてみただけ」
そう言うと、反対の手で私の頭を優しく撫でてくれた。
撫でられた頭がくすぐたっかったので、顔を上げると、それを待っていたかのように青の唇がおでこに落とされた。
一瞬キュッと目を瞑って、再び目を開くと、そんな私の表情を楽しそうに眺めている青と目があった。
「からかったの?」
「いや、本気」
「本気って……」
「キスがしたくなった。……ここに」
私の唇をプニッと人差し指で押した。
その瞳が、どうにも色っぽくて、目が離せなくなってしまった。
ブシューっというお鍋の拭いた音に、飛び上がり、重なっていた視線を開放して、慌ててガスを止めた。
青のすぐ目の前にあるガスコンロを止める為に私は少し身を乗り出していた。
青の腕に掬い取られ、まるでチャンスを待っていたように、スムーズな流れで青の顔が近づいてくる。
さっきまで煩いほどに鳴っていたガスコンロが静かになって、部屋の中は突然に静寂に包まれた。
唇は今にも青のそれに、重なりそうで、それなのにいつまでたっても重なることがなく。それを待ちわびてしまっている自分に、気付かないように目を逸らしたいのに、目を逸らすことを青は許してくれない。
青は、私の言葉を待っているんだ。
「青……、キスして」
その言葉を。
意地悪に、たった数ミリのところで動作を止め、私の言葉を引き摺り出す。
意地悪な人……。
からかわれているだけだって、解っていても、もう少し待っていれば、キスは与えられると解っていても、青のペースに巻き込まれて逃げられなくなるのだ。
「意地悪っ」
唇の離れたその瞬間に、青を睨みつけ抗議の言葉を浴びせた。
その抗議の言葉さえ、嬉しそうに受け止める青がそこにいた。
「そんな嬉しそうな顔してっ。ずるいっ」
「だって、紅が可愛いから。いじめたくなる」
色濃く残る高慢ちき男の影。
それさえ愛おしく思えてしまう私は、青に溺れ切ってる証拠なのかもしれない。
「ご飯。作ろうよ」
「駄目。もう少し、もう少しこのままで」
青は腕を放すつもりはないようで、少しばかり腕の力を強めた。
温もりから離れたくないと思っているのは私も同じ。
いくら隣りにいても、抱きしめ合った時に感じる温もりは感じられない。
料理をするのを諦めて、青の温もりを心から感じることに専念する。
「マスター。お疲れっ」
私のアルバイトは、挿絵の仕事を受けてからは、週に三回に減らして貰った。
もともと、マスター一人でも切り盛りできるこの小さなバーで、私は無理矢理雇って貰って、青もまた私に近づく為に無理に入って来ていたのだ。
「おうっ。お疲れ」
相変わらず、煙草を口の端で燻らせているマスターは、面倒くさそうに挨拶を返した。
「相変わらず、適当な挨拶だね。もっとシャキッと挨拶できないのかねぇ」
ふんっと、直す気も止める気もないといった感じで、厨房に入って行く。
「おいっ。どうだ?」
私に背中を向けたまま、マスターは言った。
「えっ、何が?」
「絵とかブルーとか、上手くいってんのか?」
どうやら、私のことを心配してくれていたようだ。
背中を向けているのは、きっと照れているからなんだろう。
「うん。上手くいってるよ。ありがとう、マスター」
「別にっ。礼を言われるようなことは俺はしてねぇよ」
「そう? 久しぶりに肩揉みしてあげよっか?」
「そうだな。して貰おうかな」
肩を回して、ゴキッゴキッとならしながら、厨房へと消えて行った。
どんだけ凝ってんだと、突っ込みを入れたくなるような凄まじい音にこの後待っているだろうマッサージ地獄を思って、気が重くなるのだった。
とうとう90話です。
私の過去の作品で一番長かったのが、90話でしたので、それを超えるようです。この作品は私の中で一番長い作品になるのですね。