第9話
「あの二人は?」
「ああ、吉井が無理矢理連れて帰って行ったよ。吉井がお前に悪かったって伝えてくれってさ。もう連れて来ないからって。吉井の同僚も疲れてたんだろうな。普段はそんなに酔うタイプじゃないそうだ」
「連れて来ていいと思う。私も、私の方も酔っ払いの相手がいつまでたっても下手くそで、安田さんに不快な思いをさせたのも事実だし、安田さんばっかりが悪いんじゃない。私の我が儘で来ないで下さいなんて言えないよ。マスター、ああいう時、私はどんな風に答えればいいの?」
ブルーは吉井さんと安田さんがいたテーブルを片していた。
ブルー目当ての女性客たちはまだ飲んでいて、再びブルーが現れたことで、きゃっきゃっと黄色い声を上げていた。ブルーはいつの間に、照れ男からクール男に変わっていた。
「ああいう質問は、適当に答えればいいんだよ。究極の選択じゃないが、二人しかいなかったら、どっちがいいか、消去法でも何でも、とにかく選んでおけばいい。酔っ払いの言った事だからな、さほど覚えてないんだ。だから、同じことを何度も聞いたりするだろ」
「どっちも好きじゃなかったら?」
「そん時ゃ、彼氏のことしか頭にないからとか言っておけばいい」
「彼氏なんていないもん」
「いなくたって、いるってことにしておけばいいんだよ。そのうち、本当に出来るかもしれないだろ?」
私はその事を頭の中で考えてみた。お客さんに嘘を吐くのはあまり気分がいいもんじゃないけど、そういうのもありなのかなと、考えていた。自分に彼氏がいるってことにしておいた方が、面倒臭くなくていいのかもしれない。どんな人って聞かれたら、秘密だって答えればいいんだから。
「うん、そうだね。今度からは、そうしてみる」
マスターは満足げに頷き、私の頭をポンポンと叩いて、厨房に入って行った。
その後、富ちゃんが来たけど、彼に電話しなきゃいけないからって、凄く嬉しそうに、2、3杯飲んだだけでそそくさと帰って行った。
「ベニ、ブルー。上がっていいぞ」
マスターの声で、初めて私は時計を見た。いつの間に12時になっていたんだ。
私はよく訪れる若い女性のお客さんと話し込んでいた。その女性の名前は知らないが、一人でもちょくちょく顔を見せてくれる。
私達がその時話していたのは、高校時代の部活の話で、二人ともソフトテニス部に所属していた。ソフトテニスというのは、白くて柔らかいボールを使用する。一般的に知られている公式の黄色いボールとはちょっと違う。
「ボール打つ時、『おらーっ』とか言ってなかった?」
「言ってた言ってた。『さあ、来いっ』とかね」
二人見合って、ギャハハハハと笑った。
ソフトテニスでは打つ時の掛け声を『おらー』とか『おりゃー』とか言う人が多くいた。ポイントが始まる前には決まって『さあ、来いっ』と気合の言葉を言う。それは、大抵どこの学校でも同じだった。
そんな会話から話が弾んで、気付けばこんな時間になっていたことに気付かずにいた。
「ブルー、悪いが暫くベニを家まで送って行ってやってくれないか? 近いって言っても女の一人歩きは危ないからな」
マスターの手が私の頭に置かれ、マスターの腕が邪魔でマスターの表情を窺い知ることは出来なかった。私は、顔には出さなかったものの、心の中では、勘弁してよ、と思っていた。ブルーはといえば、無表情のままで、でもきっと心の中では、にたりと笑っているんだろうなと思った。
「へぇ、ベニちゃんはいいなぁ。ブルー君に送って貰えるなんて。他の女の子に睨まれちゃうんじゃないの?」
さっきまで喋っていた若い女性が、大して羨ましそうでもなくそう言った。
「うん、他の女の子に恨まれちゃうよね。ねっ、じゃあさ、一緒に帰らない? 三人でっ」
出来れば、第三者がいてくれたらなんて淡い期待を込めてそう発言した。
「でも、私電車だから駅だよ?」
「ブルーが私を送り届けた後、駅まで送って行ってくれるよ」
「馬鹿。この場合は逆だろう。ブルーん家はお前ん家の近くなんだから、先に駅まで送ってお前ん家だろう」
マスターの非情な言葉にがっくり。
ブルーと二人にならずに済むと思っていたのに、これじゃ駅からだから、二人でいる時間が長くなっちゃうじゃんか。
「ベニちゃん、送ってもらっちゃっていいのかな?」
「うん、いいよ」
笑顔でそう答えたものの私の心は暗く影が射しているようだった。
しょんぼりする心を抱えて、私達は連れ立って店から出た。
「名前、聞いてもいい?」
「咲子。奥田咲子。よろしくね、ベニちゃん」
「じゃあ、咲ちゃんって呼んでもいい?」
「勿論」
私と咲ちゃん二人並んで歩き、その少し後ろをブルーが無言でついてくる。まるで用心棒みたいだ。
その後の聞き込みにより、咲ちゃんは大学3年生の21歳だということが解った。丁度、年齢的に私とブルーの間(私が20歳で、ブルーが22歳なので)って事になる。咲ちゃんは女の私が見ても可愛くて、お洒落な女の子だった。声も可愛くて小鳥がさえずってるみたいに聞こえる。
駅まではすぐで、あっという間に改札まで着いてしまった。手を振って背を向け歩きだす咲ちゃんの姿が見えなくなると、途端に気詰まりな雰囲気が二人の間を流れた。そう感じたのは、恐らく私だけだと思うんだけど。
ブルーが何も言わずにスタスタと歩き始めたので、私は慌てて後を追った。ブルーは早足でぶすっとした顔をして、歩いていた。
「ねぇ、怒ってるの? ねぇってば」
ブルーの腕を引っ張ってそう尋ねた。ブルーはそれを完全に無視して、早足で歩を進める。私は小走りで、その歩調について行くのに必死だった。
「ブルー。止まってよ、ねぇ」
私の言葉に今まで散々無視を決め込んでいたブルーが急に止まったので、私はブルーの腕に顔面を打ち付けた。
「そんなに俺と二人になるのはイヤ?」
悲しそうな響きを含んだ声が頭上から聞こえて来て、私は顔の痛みなど忘れてぱっと顔を上げた。ブルーの声があまりに悲しげだったので、本当に泣いているんじゃないかと思ったからだ。
「違う。イヤとかじゃなくて。だって、ブルーが強引にキスしたりするから、怖いんだもん。ブルーが悪いんじゃん」
言い訳みたいに聞こえて、馬鹿みたいだった。
何が一番怖いって、ブルーの強引さに流されていってしまいそうな自分自身が怖いのだ。
「キスしたい。キス……してもいい?」
ほら、やっぱり強引じゃない。そんな目をして見詰められたら、どうしたらいいのか解らないよ。イヤだって言ったら、その瞳はどんな風になってしまうのか、想像がつくんだもん。
「頬っぺたになら、いいよ」
私は辛うじてそれだけ言った。苦肉の策だったわけだけど……。
すぐにブルーのキスが頬に落ちて来たけど、それは一度だけでは止まらなくて、何度も何度も落とされた。
「ちょちょちょっと待ってって。人が見てるよっ」
「見せておけばいい」
「イヤ。私は見られるのは絶対にイヤ」
ぴたりとキスの襲撃が終わり、間近で見つめられた。
「誰もいない所ならいいんだ?」
「えっと、いやあ、あの……」
いいわけはないのだ。とにかくキスを止める為だけに放った言葉だったから、あと先なんて考えていなかった。
誰もいない所に行ったら、もっとキスは激しくなるんじゃないの?
そんな疑問が浮かんだが、自分の気持ちとは裏腹に勝手に頷いてしまっていた。
それを見たブルーが、いとも嬉しそうにふんわりと笑顔になった。
この笑顔にはとてもじゃないが、勝てないと思った。そんな笑顔をされたら、誰ももうノーとは言えない。
ブルーに手を取られ、さっきとは打って変って私を案じながらゆっくりと歩く。
ブルーの手は大きくて暖かくて懐かしい。お父さんの手みたい。記憶の中のお父さんの手は、ブルーの手よりもごつごつしていた。
お父さんの手みたいなんて言ったら、ブルーは怒るかな。