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赤青鉛筆  作者: 海堂莉子
86/104

第86話

 釣り堀に行っていた健二さんが帰ってくると、相変わらずの熱烈なお帰りの儀式をしてから、健二さんはリビングに行き、青と食事までの時間を男二人で過ごしていた。

 時折、二人の笑い声が台所まで届いて来ていた。

「健二は青君がお気に入りみたいね。多分、気分は花嫁の父っていう感じなんじゃないのかな」

 クスクスと少女のように笑う母が可笑しそうにそう言う。

「あなたたちが帰ったあと、きっといい男に巡り合えて紅ちゃんは幸せものだって言ってこっそり涙するのよ」

 母は健二さんの口真似を交え(それがそっくりで驚いたのだけれど)、そんなことを口にした。

「健二さんが泣いたりするの?」

「あなたのことを本当の娘のように思っているのよ。この間、あなたが落ち込んでいた時だって、その心配ようは私よりも酷かったんだから」

「ごめんなさい。心配かけて」

「もう、それはさっき聞いたからいいのよ。それよりもあなたの元気な笑顔を見せてあげて。喜んで泣いちゃうかもしれないわね」

 その光景を思い描いたのか、小さくクスリと微笑んだ。

「お母さんは、いい人に巡り合えたんだね」

「そう、彼は最高の人よ。どんな時も私を笑顔にしてくれる。でもね、たまに怖くなるの。もし、健二君が突然いなくなったら、私はどうやって生きていけばいいのかなって。彼をなくしたら笑顔でいられないだろうなって」

「それは……、私も解る」

 台所で親子揃って恋バナをしている。よくよく考えれば、異様な光景だと思う。この世の中に母親と真剣に恋人について語り合っている場面というのは限りなく少ないだろう。こんなに近くに母を感じることが出来ることが、嬉しかった。

 夕食は和やかな雰囲気の中、滞りなく進んだ。

 健二さんは、私の絵本の挿絵のことを自分のことのように喜んでくれて、応援してくれた。

 嬉しい気持ちがいっぱいの中、私と青は帰路に着いた。


「ねぇ、青。健二さんと何を話してたの?」

 私と母が料理を作っている間の、楽しそうな青と健二さんの声が少し気になっていた。二人はどんな話をするんだろうっていうのが私の率直な疑問だったのだ。

「ん~、基本は紅のこと」

 そんな予感はしていたけど……。だって、二人の共通の話題って言ったら私が最大のものであると思っていたから。

「私のこと変な風に言ってないよね?」

「え~例えば? 紅はよく寝言を言うし、寝ぞうも悪くっていつも蹴られてるんですとか?」

「もうっ、いつ私が寝ぼけて青のこと蹴ったのよっ」

 自慢じゃないが、私の寝ぞうは天下一品だ。なんて、寝ぞうを天下一品なんて表現することを現代の日本語でするのかどうかは解らないが、決して寝ている時に誰かを蹴ったり、叩いたりしたことはないのだ。

 学生時代の林間学校や修学旅行の時でも友達に不平を言われたことは一度もない。逆に両隣りの子達がどんどん私の方へ接近して来て、酷く狭い空間で寝たことはある。私は、皆から寝ぞうのことで褒められたことならあるが、不平を言われたことはないのだ。勿論、寝言に関してもそうだ。

 夢は良く見る方だが、寝言はない。

「ええ~、そうかな?」

「うんっ、そうなの。絶対にないんだから」

「でも、涎は垂らしてたんじゃないかな」

 うっ、涎?

 涎は場合によっては、垂らしたこともあるかもしれない。

 学生の頃、特に午後の授業やプール後の授業になるとどうしても眠気を押さえることが出来なくて、眠ってしまったことが多々ある。そんな時に、ブレザーに涎の跡がついていたことが、あったりなかったり?

 悔しいことに、涎に関しては完全に否定しきれない部分があることが悲しい。

「絶対っ、ない」

「そうかなぁ、俺、見たんだけどな……」

 全否定できない……。

 得意そうに微笑んでいる青が憎たらしくて、歯噛みする。

「それは……、場合によっちゃあ、あったかもしれないけど」

 にっこりと微笑む青が小憎たらしくて仕方ない。

「青だって……、自分が惨めな気分になるから黙っていたけど、私じゃない女の子の名前を寝言で言ってたよ」

「そっ、そんなことあるわけない」

 小悪魔的な微笑みがすっと音を立てて崩れていくようだった。

「だって、私聞いたんだから間違いないよ」

 実はこれ、全くのでたらめなのだ。こんな機会でもないと、日頃の鬱憤を晴らせないので、俄然からかわせて貰う気でいる。

「ないって」

「確かねぇ、名前はあんまり覚えてないけど、二文字の名前だったと思う」

 私がそう言った途端に、ぎくりと肩を強張らせた。

 どうやら、思い当たる節があるようだ。

 青は私と付き合う前は、沢山の女の子と付き合っていた。それは、奈緒さんも証言しているので、周知のことではあるのだけれど、その大勢いるであろう中には、二文字の名前の女の子という条件に該当する女の子もいるだろうと推察したのだ。そして、その推察はまさに正しかったのだと、今、証明出来た。

「そっか、青は色んな事付き合って来たから、身に覚えが沢山あるんだよね? で、二文字の女の子は何人くらいいるのかな?」

 自分で悪戯をしかけておいて、徐々に気分を害してきた。にも拘らず、自分の口はふさがらず、自分の意思とは無関係にすいすいと言いたくもない、聞きたくもないことまで、飛び出して行く。

 もう、これ以上、青の過去には触れたくないのに……。

「過去のことは関係ないよ。今は、紅だけだから」

「でも、寝言でその女の子の名前を呼んでいたんだよ。その子のこと、忘れてないのかな?」

 名前を呼んでいたなんて嘘なんだけど、もう自分の中ではそれが現実に起こった事実なのであるような気がしてきた。

「ただ、昔の夢を見ただけだよ。ただ、懐かしくてその子の名前を呼んだ。それだけの夢だよ。普段、思い出しもしない子だった。夢に見たからどうってことではないでしょ? 寝言を言って紅に不快な想いをさせたのは誤るよ。ごめんね、紅。でも、今は、本当に紅だけなんだから」

「本当に……、寝言言ったんだ?」

「は?」

「嘘だったのに……。本当に寝言言ってたんだ? 私じゃない女の子の名前夢で呼んでたんだ?」

 たかが夢に、何を嫉妬しているんだと、心の奥の冷静な私がそう呟いている。

「紅、嘘だったの? どうしてそんな嘘吐いたの?」

「だって、いつも青が私をからかうから、私もからかってやろうって思ったのに……。もう、帰るっ」

 自分で自分を馬鹿だって思ってる。誰が聞いたって、こんなこと馬鹿げているだろうって思うに決まってる。

 でも、どうしてだろう。こんなに心が乱れる夜はそうそうない。もともとそんなくすぶるような想いが心の中にあって、それが着火してしまったのかもしれない。

 普段、こんなに嫉妬深い女ではないのだ。

 青を置いて、走り出した。

 頭を冷やしたかった。きちんと頭を冷やして、そして、青に謝ろうと思っていた。

 それなのに、いくらも走らないうちに青に腕を取られて、引き止められた。

「紅。怒らないで。もしかしたら、俺は本当に誰かの名前を呼んでいたのかもしれない。だけど、それと紅が大好きだって気持ちは関係ないことだよ」

「……解ってる」

 解り過ぎるくらい解ってる。

「紅、こんな事言ったら、紅は怒るかもしれないけど、俺は紅にあんな風に嫉妬して貰えて、今、飛び上がるくらい嬉しいんだ」

 

 

 


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