第81話
レストランに入ると、私にすぐに気付いた今村先生が、私に手を振りこちらに来るように手招きした。
先日と全く同じ席に今村先生は座っており、その正面、先日私が座っていた席に紫苑さんと思われる男性がこちらに背中を向けて座っている。
なるほど、金髪で一見ヤンキー風に見えなくもない。
紫苑さんは、私を振り返るでもなく、私に背を向けて座っている。
生唾をごくりと飲み下して、ゆっくりと歩き始めた。緊張している場面だからか、実際にはごく短い距離にも関わらず、永遠に辿り着けないのではと思うほどに、長く感じられた。
今村先生の笑顔が近づけば近付くほどに、私の緊張は最骨頂に達し、朝食に食べたものが思わず口から出てきそうになって本気で焦った。
「やあ、紅ちゃん。今日も可愛いね。俺の彼女になる気はないかな? 俺はいつでも大歓迎なんだけど。彼氏に飽きたらいつでもどうぞ」
「こんにちは、今村先生。えっと、間に合ってますのでご遠慮します」
相変わらずの小気味いい口説きっぷりなのだが、今回のは私の緊張を取り除く為のものだと推察する。
「あのっ、こんにちは。私、板尾紅と申します。はじめましてっ」
今村先生から視線を移動させ、紫苑さんを視界に捉える。
「俺のことはもう知ってるんだろ?」
投げ遣りな言葉に身を硬くした。
優しい笑顔でも向けてくれると思っていたのか、私。私は少し期待しすぎていたのかもしれない。
「ねぇ、いつまで立ってんの? そこにいられちゃ目障りなんだけど」
冷たい目で私を見上げる。
紫苑さんは青に顔立ちがそっくりだ。ただ、瞳の色だけが違う。少し濁った色合いをしていた。先天的にこのような色をしているのか、それとも後天的にそうなってしまったのか……。
「あっ、すみません」
私は一体どちら側に座るべきなんだろうか。
紫苑さんの隣り? いや、それはちょっとハードルが高すぎるでしょっ。それとも今村先生の隣り? それもなんかちょっと……。二人が並んで座ってくれるといいんだけど、どちらも動く気配は全くない。
「紅ちゃんはこっち。俺のとなりに座るといい」
困っている私を見兼ねて今村先生が声をかけてくれた。
「ありがとうございます」
席に着くと、真っ正面に紫苑さんが座っている。私がそちらに視線を向けても、決して私を見ようとはしない。
「紫苑さんは今、何をされているんですか?」
私が声をかけるとちらりとだけ視線を向けたかと思うと、すぐに逸らされてしまった。
「別に。何も」
私に会いたいと言ってくれていると今村先生は言っていたはずだが、あれは真っ赤な嘘だったんだろうか。でも、紫苑さんはここに来てくれている。だが、自分から進んで来たわけではなく、今村先生に引きずられて来たという可能性もある。
「じゃあ、普段何してるんですか?」
紫苑さんはテーブルに肘をついて、手の平に顎を乗せ、つまらなそうに窓の外を眺めていた。
「別に。何も」
何もってことはないでしょっ。私に喧嘩でも売ってるのかしら。
徐々に苛立ちを感じ始めていた。
「紫苑さんは、何をするのが好きですか?」
頬の筋肉が引きつるのを感じながら、私はなんとかスマイルを完成させた。
「……」
答えることすら馬鹿らしくなったのか、窓の外に視線を向けたまま、答えようともしない。
「私は絵を描くのが大好きです。最近までそれに気付かなくって悩んだりしてたんだけど、ななちゃんと今村先生のお陰です。ななちゃんって私の友達何ですけど、今村先生の担当編集者なんです。紫苑さんもお会いしたことあるんじゃないですか?」
「ああ、あの馬鹿女……クズだな」
「……ちょっっっと、カチンときちゃったなぁ。紫苑さんは青のお兄さんで、とっても大事な人だって思ってるけど……、だけどっ、ななちゃんは私の大っ事な友達なんですっ。それを、馬鹿女だなんて、勝手なこと言わないで下さいっ。私への態度は、まあ、我慢出来ますけど、ななちゃんのことを悪くいうことはこの私が許しませんからっ。ざけんなっ、ボケっ!!!」
しまったぁ。
と、思ったが、自分の短気を今更嘆いたところで現状を回避することは出来ないのだ。
引っ込みが付かなくなった私は、仕方がないので、紫苑さんを睨みつけた。
くっくっくっ、と隣りから低い声が聞こえて、ふと振り返ると、今村先生が我慢出来ないと言った感じで笑っていた。次第にそれは本格的な笑いに転じ、私は呆けながらそれを見ていた。
「ふっははっ、いやあ、けっさくけっさく。俺、気が強い女大好きなんだよねぇ。紅ちゃん、俺と付き合わない?」
「断固拒否します」
「あっ、そう」
別段、傷ついた様子もなく、私の拒否を受け入れた。
「紫苑もいい加減態度を改めたらどうだ? お前が会いたいって言ったんだろう?」
呆れた調子で今村先生は紫苑さんをたしなめる。
「別にっ。そんなこと一言も言った覚えない。勝手なこと言うなよな。お前が勝手に連れてきたんだろっ」
これじゃまるで思春期真っ只中の年頃の男の子みたいだよ。
驚き、そして物珍しい物を見るようにじっくりと紫苑さんを見ていたら、私の視線に耐えかねたのか、突然立ち上がった。
何事かと紫苑さんを目で追うと、パッと目が合った途端に逸らされた。
「トイレっ」
怒っているようにも、照れているようにも見て取れた。
青が話してくれた紫苑さんとも、名取さんが話してくれた紫苑さんとも、いざ目の前にした紫苑さんはまるで違う人のように見えた。
青が語る紫苑さんも、名取さんが語る紫苑さんも、どちらかと言えば感情をおもてに表さない冷静な人であるイメージを私に与えた。
恐らくそんな風に自分を押し隠して生きてきたというのは事実だろう。
だが、目の前を背中を向けて去っていく紫苑さんは、私を寄せ付けようとしない紫苑さんは感情が剥き出しだ。
私はそんな紫苑さんを好ましく思った。
紫苑さんは自分の気持ちを表現する術を今学んでいるように思える。こんな風に誰かに怒りを表わにすることすら出来なかった紫苑さんが牙を向けている。 その変化は多分今村先生がもたらしてくれたものなんだろう。紫苑さんは、今村先生と暮らすことで少しずつ学んでいるんだ。言わば、遅い反抗期の真っ只中に紫苑さんはいるんだろう。
だから、嬉しかった。紫苑さんに噛み付かれたことが。紫苑さんが、駄目になってしまっていなかったことが。
「何で笑ってるの?」
今村先生の声で我に返った。もはや無意識に微笑んでいたようだ。
「嬉しいんです。というか、やる気が俄然湧いてきました。どうやってあの野良猫を懐かせようかって思ったら、ワクワクして来ちゃいました」
「野良猫かあ。俺もいつも引っ掻かれてるよ。手強そうだぞ。君に出来るかな?」
「やってみせます。私結構しつこいんですよ。持久戦なら負けません」
「頼もしいな」
私はにかりと笑って見せた。
負け戦には絶対にしない。きっと勝って、青のような笑顔を引き出してやるんだ。
私のお節介虫がむくむくと身体中を元気に動き出した。
「気に入った。君のその心意気を見込んでいいことを教えてあげよう。紫苑はななちゃんとこの編集社でアルバイトをしている。平日フルタイムでね。あそこは事務所が広いし、社員も少ないから場所は有り余ってると思うよ。あそこの場所で仕事してみたらどうかな? 案外静かではかどるとおもうよ」
紫苑さん、ななちゃんとこでバイトしてるんだ。
拍子抜けするくらい近くにいたんだ。
「ななちゃんに頼んでみますっ」