第8話
「お客様。うちのバイトが手を上げてしまって、申し訳ございませんでした」
「そうだっ。あの女ただじゃおかなぇぞ」
「ですが、お客さんがしたことも感心出来かねますね。この店は、お酒を楽しむべき場所であって、女性と楽しいことをする場所ではありません。この店でそういうことを望むのは止めて頂きたい。もし、ベニに手を出してみろ、ただじゃおかねぇぞ」
マスターの最後の牽制。マスターの目には凄味があるその一言で、恐らく安田さんは何も言えなくなっただろう。
私はとぼとぼと休憩室に向かいながら、マスターの言葉を背中で聞いていた。
そして、私は知っている。一睨みきかしたあと、にこりと微笑むのだ。その威圧感は横で見ていても凄まじいものがあり、その笑顔を見て酔っ払い達は急に静かになるのだ。
「すみませんでした。もうしません」
その弱々しい声にカウンター席を振り向くと、先生に怒られた子供のように安田さんは頭を下げ、しょんぼりとしてしまっていた。恐らく、酔いも一気に冷めてしまったに違いない。
私は、休憩室にあるソファ(ソファベッドでマスターはいつもここで寝ている)にどさりと腰をおろした。後から入って来たブルーが無言で烏龍茶の入ったグラスを差し出した。
「ありがとう」
ぼそりと呟き、受け取ると、ブルーは私の隣りに腰掛けた。
「……お酒も、酔っ払いも大嫌い」
私は独り言のように小さな声で呟いた。
「ああ」
ブルーはそれだけ言うと、黙って烏龍茶をごくりと喉を鳴らして飲んだ。私もブルーに倣って烏龍茶を飲んだ。グラスを持つ手が震えている自分が酷く情けなく思えた。
「大丈夫だ。もう、大丈夫だよ」
先ほど安田さんにきつく掴まれた手首をブルーが掴んだ。いや、掴んだというよりも優しく触れたという方がしっくりくるかもしれない。不快な感触がいまだ残っていたその手首をブルーのその大きな手が拭い去って行くように、徐々にその箇所が優しい温かいものに包まれて行くように感じた。
震えがやがて治まり、私の中の動揺や怒り震えさえも消えて行くようだった。
「何をしたの?」
「何も。ただ、手に触れただけだ」
確かにそうなのかもしれないけど。私があんな風に酔っ払いに絡まれた後は、暫く怒りが治まらないのが常なのに。
どうして?
私はまじまじとブルーを見据えた。
「その目は、もしかしてキスの催促かな?」
「ばっ、何考えてんのよっ。違うに決まって」
私がそれを言い終わる前には、ブルーの顔は目前にあって、私は反射的に目をきつく閉じていた。
フッとふんわりと小さく笑った気配の後、鼻の頭にキスが落ちて来た。正直、拍子抜けして私は目を見開いた。
「ここにして欲しかった? お望みとあらば」
ブルーの指が私の唇をなぞる。私は、恐らくキョトンとした顔でブルーを見ていたんだろう。ブルーがくすりと笑った。
「違うっ! 望んでるわけないでしょうがっ。この馬鹿っ、痴漢っ、セクハラっ」
ブルーの小さな笑みで我に返った私は、結界が破れたように勢い良く怒鳴った。怒鳴ったついでについつい悪口までぽろりといった感じに出て来てしまって、慌てて口を両手で抑えた。
「どうやら本当にして欲しいようだね。それとも、今ここで襲って欲しいのかな」
妖しい笑顔で手が伸びて来るから、私は焦って首を激しく横に振った。
突然ブルーの顔の表情が崩れ、我慢出来ないといった感じで笑い出した。この間、笑った時は微笑みって感じだったけど、今のはそんなもんじゃない。所謂、大笑いってやつだ。腹を抱えて、目尻に涙まで溜めて、ブルーは笑っていた。
私はその笑いで、自分がからかわれていたのだと気付いて、むかっ腹がたったが、それも一瞬のことで、腹を抱えて笑っているブルーを見ていたら可笑しくて、私もいつしか笑い出していた。笑いが伝染したのだ。
高校時代に友達と話している時にこうゆう現象が間々あった。友達が何かのツボにハマって笑いだし、訳も解らずそれを見ていたら、こちらまで可笑しくなって、気付けば皆笑っていて、笑いが治まった後になんて笑っていたんだか誰も解らなかったりする。あの頃は、ただただ可笑しかった。そんな年頃だったんだと思う。
その久しぶりの感覚を今、私はブルーと味わっていた。意味なんてないけど、なんか可笑しくて仕方なくて、笑わずにはいられなかった。でも、笑ったお陰で、さっきのイヤな気分が全て吹き飛んで行ってしまったようだった。笑いが治まった時には、すっきりとした気分になっていた。
「ありがとう、ブルー」
素直に私の最悪な気分を払拭してくれたのは、ブルーだと思えた。
ブルーは、最初何を言われたのか理解出来なかったのか、ぼへっとした顔をしていたが、突然ぼぼぼぼぼっと顔を赤らめた。
これは、照れ男がブルーに舞い降りたんだと私は思った。
「べ別に、俺は何もしてないから」
真っ赤な顔をして、しどろもどろになっているブルーが可笑しかった。
「はははっ、照れてやんの。可愛い」
言った後、自分の発言に驚いたのはブルーよりも何よりも自分自身だった。
「違っ、えっと、これはその」
今度は私がしどろもどろになる番だった。
「ああ、そろそろ戻らなきゃ。マスター困ってるかもしれないし」
照れ男から高慢ちき男に変わってしまったら大変だと思った私は、急いで休憩室から脱出しようと試みた。が、手をドアノブにかけた時、後ろからぎゅうっと抱き止められた。
ブルーの顔が私の顔のすぐ横にあって振り向く事も出来なかった。高慢ちき男になっちゃったんだと思った。だけど、耳元で、
「好きだ」
と想いを伝えるその声は、少し震えていて、凄く切なげで、その声を聞いただけで、自分まで胸が締め付けられるくらい切ない気持になった。
「放して」
だからだろうか、そう言った私の声も酷く震えていて苦しげだった。
ブルーは本当に大人しく私を解放した。放してと言った私でさえ、すぐに開放してくれるとは思っていなかったのにだ。驚きに思わずブルーを振り返ると、真っ赤な顔で苦笑を浮かべ、ごめん、と言った。照れ男だった。高慢ちき男に変わってしまったんだと思っていたけど、照れ男のままだった。不思議と抱きしめてあげたいという願望が体のどこかから湧き上がって来て、私を動揺させた。
「別に、大丈夫……だから。もう、行こう」
ドアを開けると、目の前にマスターがいて、私を心底驚かせた。
もしかしたら、今の会話を全て聞かれていたんじゃないかと思って、ぎくりとした。
「お前ら休憩し過ぎだ。いつまで俺一人に働かせておくつもりだ」
いつものマスターの口の端だけ持ち上げるあの笑顔だった。いつもと変わりのないマスターに私は心底ホッとした。
「ごめん、マスター。立ち直るのにちょっと時間がかかっちゃった。でも、もう大丈夫だから、今からバリバリ働くよ」
マスターは私を細い目をして見下ろすと、そうか、と優しく私の頭を撫でた。マスターに頭を撫でられると、自分が猫か犬になってしまったような気がするけど、私はそれが嫌いじゃなくて、出来ればずっと撫でていて欲しいくらいだったりする。
「お前は猫みたいだな」
マスターの言葉に私はにこりと笑った。マスターは、私が怒るか拗ねるかすると思っていたようで、不思議そうな顔をしていた。私は、いっそのこと、マスターの飼い猫にでもなりたいものだなどと思っていた。