第79話
『紫苑がなぜ家に帰らないのか君は知っているかな?』
「はい。知っています」
『そうか、なら話しが早い。紫苑は十分に自分のした事を反省しているんだと俺にはそう見える。だけど、中々一歩が出せないんだ。青君に会いに行く。だが、青君を前にするとその先の一歩がどうしても出せない。紫苑はそんなことをずっと続けている。君のこともそんな時に見たんだろう。俺は紫苑から青君のことも君のことも聞いていた。写真も見たことがある』
紫苑さんは近くにいてくれたんだ。青のことを気にして何度も会いに来てくれていたんだ。嬉しさが込み上げてきて、涙が溢れてきた。
「紫苑さんに会えますか?」
『紫苑も君に会いたいと言ってるよ。ただ、まだこのことは青君には内緒にしてくれないかな』
「解りました」
本当は私なんかより、真っ先に青に会わせたい。だけれど、紫苑さんが青に会うということは、私なんかと会うよりも何倍も勇気がいることなのだろう。
今すぐには無理でも、私が二人の橋渡しになれればいいと思う。
『紅ちゃんの番号登録してもいいかな?青君が嫌がりそうだけどね』
耳元に今村先生の苦笑が響く。確かに、青はヤキモチ焼きだから拗ねるに違いない。そもそも今村先生が男だとは思っていない。私ですら女の人だと思い込んでいたのだから。今村先生が男だと解ったら打ち合せに参加すると言い出すんじゃなかろうか。
暫く今村先生が男だったことは伏せておいたほうがいいだろうか。だけど、青に隠し事はしたくないし…。でも、紫苑さんの居どころが解っているのに話しちゃいけないんだから、その時点で隠し事は出来ちゃっているわけなのだが。
ん〜、やっぱり今村先生のことはちゃんと話しておこう。二つも三つも隠し事があるのは私には荷が重すぎる。
「きっと大丈夫だと思いますよ」
『それじゃ、また連絡するよ。紅ちゃんも淋しかったらいつでもかけていいんだよ、俺が相手してあげるからね。勿論、人肌恋しい時もいつでもどうぞ』
「間に合ってますので。では、また」
今村先生が口説きモードに突入しようとしているようなので、さっさと通話を切ってしまった。
携帯をバッグにしまうと、青が待つアパートへの道を急いだ。
今村先生が男だと知って、拗ねてしまうだろう青をどんな風に宥めればいいのかを、思案しながら歩いていた。
思案しながら歩いていたせいか、足元ばかりを見ていて、前など見ていなかった。誰かにぶつかって、私は慌てて「すみませんっ」といって顔を上げた。
射ぬかれるような鋭い目、私を敵とでも思っているような歪んだ表情が一瞬その人が誰であるのかを判断するのをワンテンポ遅らせた。
「奈緒さん?」
以前に会った時のような穏やかさも、優しそうな雰囲気も、大人な女性の立ち居振る舞いも今の彼女にはない。明らかにやつれているのを見ると、良心が痛むとともに、青の辛そうな表情が脳裏をかすめる。
私達は、彼女をこんなふうにしてしまったんだ。
勿論、その前に大切な父親を亡くしたという、心の傷があったのだが、そこに塩を塗るようなことを私達はしてしまったのだ。
「返してよ……。青を私に返してよ……。彼がいないと私、生きていけないのよ。あなたには、色んな人がいてくれるでしょ? 私には彼しかいないの。お願い、返してっ」
小さな低い声が、奈緒さんの口から紡ぎ出されるのだが、その掠れた声はまるで亡者のように恐ろしいもので、私の背筋に冷たいものが走った。それは恐らく狂気というものを見せつけられた為の悪感だろう。
「青は貸したり返したりするものじゃないです。奈緒さんは私よりうんと小さい時から青のことを見ているから、私なんかよりずっと青が好きだって思ってるかもしれないけど、私だって大好きなんです。私は、青が幸せになって欲しいって思います。大好きな人には幸せになって欲しいって思うでしょ? 奈緒さんの傍にいて、青は幸せになれますか? もし、そうなんだとしたら、その時は私は手を引きます。だけど、青が私の隣りにいることが幸せなんだって言ってくれるのなら、私はどんな事があっても彼を手放すつもりはありません。誰を傷つけることになっても、それは引けません」
心が痛む……。
こんな事、こんなに傷ついている人に、こんな事本当は言いたくなんかないのに。今にも崩れそうな弱っているこの人にこんな事言いたくなんかないのに……。
だけど、私は覚悟を決めたから、見たくないから、言いたくないから、イヤなことから逃げない覚悟を心の中に持っているから、私は決して屈さない。
「あんたなんかっ、青の何を解ってるっていうのよっ。あんたなんかにっ、私の気持ちがっ……」
膝から崩れ落ち、泣き崩れる奈緒さんを私は覆い被さるように抱き締めた。
何度も手で振り払われたが、それにも負けず私は強く彼女を抱き締めた。
「私は、まだ本当に大切な人を失ったことがないから、本当の意味で奈緒さんの気持ちを理解することは出来ないかもしれない。でも、私の両親は離婚しているので、大事な人に会えなくなった気持ちは多少なりとも解るつもりです。私も、両親が離婚した時、自分は一人ぼっちだって思いました。母もいましたけど、離婚の直後は少し距離を置いていました。だけど、私はすぐに一人ぼっちじゃないって気付きました。私を支えてくれる人は、ちゃんといました。自分が傷付いている時って自分の内に内に籠って行ってしまって周りが見えなくなるんですよね。だけど、ちゃんと周りを見れば、そこには支えてくれる人はいました。奈緒さんにも支えてくれる人がいるじゃないですか? ちゃんと見て下さい」
とんと肩を叩いて、奈緒さんの顔を上げさせた。
奈緒さんから少し離れた場所に立っていた、その人は少し困った顔で私達二人を見下ろしていた。
「俺じゃ、役不足かもしれないけど、俺はずっと奈緒の傍にいるから、一人だなんて言うなよな」
「優……」
そこに立っているのは名取さんだった。
ちょっとした予感はあった。名取さんが奈緒さんを好きなんじゃないかという予感。でも、今はっきりと解った。
奈緒さんがまだ、名取さんに気付いていなかった時、名取さんが奈緒さんを見つめるその瞳は、私を見つめる青の瞳と同じものだった。切なそうな、嬉しそうな、苦しそうな、でも、瞳を逸らすことが出来ない。そんな瞳だった。
「お前は一人じゃない。俺がいるだろう? 青だって、恋人ではないけど、俺達には永遠に幼馴染なんだぞ。そうだろ? それに、紅ちゃんが悪いんじゃないことくらい、お前なら解ってるんだろう? 俺が、お前の苦しみも悲しみも怒りも全て受け止めてやる」
好きって言葉を一つも言っていないのに、どうしてだろう、私には名取さんが好きだって言っているように聞こえる。
名取さんの一世一代の告白なんだってそう思った。
「優は私の傍からいなくなったりしない?」
「しないよ」
「他に好きな人が出来たりしない?」
「しないよ」
「私、青がまだ好きなのよ?」
「知ってるよ。でも、青が好きな奈緒ごと俺は好きなんだら、気にするな」
「私、優に甘えちゃうかもしれないよ。それで、優を傷つけてしまうことだってあるかもしれない」
「いいよ。甘えても、傷つけても。お前なら許す」
私は、そっと二人から離れ、気付かれないようにその場を後にした。
立ち去り際、名取さんが私に目だけで、「ありがとう」と伝えてくれた。
私は何もしてないのに……。