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赤青鉛筆  作者: 海堂莉子
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第74話

 マスターと、まるで家族のようなひと時を過ごした後、あまりにお客が来ないのでマスターが私を早退させてくれた。

『もしもし、紅? 私だけど……、なんて私じゃ解らないか。名波ですけど』

「ななちゃん? 改めて言われなくても、声聞けばわかるよ」

 お店から帰って一息ついた頃、ななちゃんから電話がきた。

 下手をすると青と奈緒さんのことばかり考えてしまうので、ななちゃんの電話は私としてはとてもありがたいものだった。

『あのね、今度の打ち合わせの件なんだけど、今話しても大丈夫かな?』

「うん、もう家についてるから大丈夫だよ」

 こんな風に相手を気遣ったりするところも、ななちゃんが社会人としての自覚を持っているように思える要因の一つだろう。

『そっか、良かった。それでね、今度の日曜日のお昼なんだけど、ランチを食べながら顔合わせでもって今村先生がおっしゃってるんだけど、紅の方の予定はどうかな?』

 今日は木曜日だから……。

 手帳を見てみるが、青と会わなくなってからの予定はガラガラなのだ。短大の友達とたまにあったりもするけど、土日は誰とも会わない。

 それはきっと、心のどこかで青が私に会いに来てくれるんじゃないかって期待しているからなのかもしれない。

「うん。大丈夫だよ」

『本当? それじゃあ、そう今村先生にも伝えておくね。時間とか待ち合わせ場所とか詳細が決まったらまた連絡するから。じゃあ、ごめんね。こんな時間に電話しちゃって。おやすみっ』

「うん、解った。おやすみっ」

 ななちゃんからの電話が途切れると、一気に部屋の中に静寂が訪れた。隣の住人が帰って来ているのか、微かにテレビから発せられている笑い声が漏れ聞こえていた。


 その日の深夜、私は青のその後が気になって布団の中に入っても寝付く事が出来ずにいた。

 マスターの話の後、青がどんな風に感じて、どんな決断を出し、どう動くのか。私には解らなかった。

 もしかしたら、私がフラれるってこともあるのかもな……。

 そんな事を考え、一人枕を濡らしていた。

 時間だけが刻一刻と過ぎて行くそんな時だった。

 誰かが階段を上がって来る靴音が聞こえ、その靴音は私の部屋の前で止まった。そのまま次のアクションがないまま、静寂が訪れた。

 小さな溜息が部屋の中まで聞こえて来た。

「……青?」

「……うん」

 私は寒さも忘れ、パジャマのまま玄関を開けた。

 そこには、傷ついた顔をした青が佇んでいた。

 とにかく、青を部屋の中に招き入れ、温かいお茶を出した。

 青は酷く疲れているようにも、傷ついているようにも見えた。萎れた植物のように、力無く見えた。

 あの後、青に一体何があったんだろう。

「奈緒を……名取に任せて来た。俺は……、奈緒を傷つけた。マスターが言ったように奈緒は、俺がずっと傍にいることを望んでいた。でも、それは俺には出来ない……。出来ないんだ……」

 今にも泣きそうな青を私の小さな体で包み込んだ。いつになく青の体が小さく感じた。

「俺は残酷なことをしていたんだ……。俺のせいで奈緒は、よけいに傷ついた。でも、もう奈緒に何かをしてやることは俺には出来ない」

 かすれた声で、自分の無念を語る青の背中をゆっくりと摩り続けた。

「俺は最低だ。偽善者ぶって、結局傷を抉るような真似をして、自分だけ幸せになろうって思ってんだ。卑怯なのかな、俺?」

「青は卑怯じゃないよ。卑怯なんかじゃない。絶対、卑怯じゃない。誰だって幸せになりたいっておもうものだもの。それは、青だけじゃないよ。私だってそうなんだよ」

「そっか、卑怯じゃない……か。紅に言われると本当にそんな気がしてくる」

「青……。今日は泣いてもいいんだよ? 私も一緒に泣いてあげるから、ね?」

 青の背中を摩りながら、そう言った。

「泣かないよぉ、俺は」

 と、ケタケタと笑った青だったが、その笑いは次第に小さくなって消えて行った。

 私の手に感じる青の背中が、小刻みに震えている。

 青は声もあげずに、涙を流していた。静かに何かに耐えるように、涙を落して行く。

 青のそんな姿を見て、私の目からも大粒の涙が零れ落ちた。

 私も声をあげずに、静かに涙を流した。私が声を出したら、青が思う存分に泣く事が出来ないと思ったからだ。

 青の苦しみが全部私に移ってしまえばいいと、本気で思った。こんなにも苦しみにくれる青を、見ていることも辛かった。

 青の苦しみなら、青の悲しみなら、それらを共に受けよう。それを青が許してくれるなら、私は青の苦しみも悲しみも全て受け持つ。

 本気で誰かを愛するということは、大きな喜びと大きな楽しみを与えてくれるが、そして、それと同時に大きな苦しみと大きな悲しみをも与えるという事を身を持って実感した。

 桔梗さんが言っていた大恋愛っていうやつは、生半可なものじゃないのだと、私は感じずにはいられなかった。

 私と青は、そのまま泣き続け、いつのまにか兄弟のように丸まって眠ってしまっていたようだ。

 朝を告げる小鳥の声と、太陽の光に起こされ、隣りに眠る青が小さな子供のように蹲って眠る姿を見ていると、ここが日本ではないどこか別のところのような気がして不思議な気がした。誰もいない無人島のような所にいるような、二人だけがこの世界とは関わり合いのない所にいるようなそんな気分だった。

 だが、やがて時間が経つにつれ、人が動き始める音が私の耳にも届き始めた。それは、自転車のベルの音だったり、バイクの音だったり、車や電車の音だったり、挨拶を交わすご婦人の声だったり、犬の吠える声だったりするのだ。

 自分の世界に引き戻された私は、安心して青の寝顔を見つめた。

 このまま今日は、青の隣りで寝ていたい。だけど、現実は容赦なく襲いかかり、金曜日の今日は午前から授業があるのである。

 青を起こさないつもりでこっそり起き上がったつもりでいたが、青から離れた途端に腕を引っ張られた。

「おはよう、青。私、授業があるから起きるけど、青はもう少し寝ててもいいよ」

「おはよう。残念。俺も授業があるんだ。だから、起きるよ。一緒に出よう」

 ギュッと抱き締められ、おでこにそっとキスをされた。

 一晩泣き晴らした青は、心なしか表情に赤みが戻ったように感じた。昨日のボロ雑巾のような青は姿を消したように見えた。勿論、それは外見だけの話ではあるが。

 二人、一緒にアパートを出て、手を繋いで歩いて行く。

 サラリーマンが急ぎ足で横をすり抜けていく中を、少しゆっくりな速度で歩いていた。

「あのね。実は私、絵本の挿絵を描くことになったんだ」

 本当は青に真っ先に伝えたかったことではあったが、状況が状況だっただけに、中々伝えることが出来ずにいたことだった。

 青と会えない間に私の身に起こった出来事を、青に話して聞かせた。どんないきさつで私が絵本の挿絵を描くことになったのかを、青は興味津々で聞き入っていた。

「私、やっと自分の好きな物を見つけることが出来た。それをどんな風にしていくかは、まだ解らないけど、とにかく一生懸命今与えられた仕事をやってみようって思うの」

「良かったね、紅」

 頭をくしゃりと撫でられ、褒められた子供のように嬉しくなって、見上げて微笑んだ。

「止めよう、紅。大学行くの。今すぐ帰ろう」

 繋いでいた手を引っ張られて、今来た道を戻って行く。

「えっ、何? ちょっと、青。どうしたの?」

 意味が解らず、青の大きな背中に声を掛けた。

 だが、太陽の光に降り注がれた青の大きな背中を見ていたら、このまま青に連れ去られるのもいいのかもしれないという気分になってしまった。

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