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赤青鉛筆  作者: 海堂莉子
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第72話

 読み終わって原稿を下に置き、ふうっと息を吐いた。

 目尻にはじんわりと涙が浮かんでいた。

 真っ先に浮かんだある一人の女性の表情。この作品を彼女に読んでほしいと真っ先に考えた。大切な人を亡くした彼女に。そして、次に浮かんで来たのは、これが絵本になった時のイメージ。この場面にはこんな絵を描きたい。こんな絵にしようと、幾多のイメージが私の頭の中に現れては消えていく。私の頭の中にはすでにアイデアで一杯だった。

 描きたい。今すぐにでも描き留めたい。頭の中のアイデアが消えてなくなる前に全て描いてしまいたい。

 その辺に落ちていた広告の裏に取りつかれたようにどんどんと描き留めていく。その作業は一晩中続いたが、私に疲労という言葉は浮かんでこなかった。


 その翌日、お店にななちゃんが姿を現した。

 入って来て、すぐに私を見つけるとにっこりと微笑んだ。その表情は満足気にも見えた。

「きっと、紅なら絵を描いてくれるんじゃないかなって思ってたんだ。そうでしょ?」

 ななちゃんは、私の表情を見た瞬間に私がどんな答えを用意して来たのかを見抜いたようだった。

 私は何となく見透かされたようで、気恥かしかったが、素直に頷いた。

「やっぱり。紅なら、あの原稿を読んでしまったなら、描かずにはいられないだろうなって思ってたの。だから、あの原稿を紅に渡したんだよ。でも、良かった本当に引き受けてくれて。確信はあったんだけど、やっぱりどこか不安な部分もあって。紅、これからよろしくお願いします」

 これが仕事なのだと、頭を下げるななちゃんを見て実感として湧いて来た。

「こちらこそ、よろしくお願いします。一生懸命やらせて頂きますので」

 これまでの友達に頼まれて描いていた絵とは次元が違う。責任というものが付いて来て、そして、ギャラというものが発生してくる。中途半端な仕事は許されないということだ。自分は素人だから、本職じゃないんだからなんて言葉は、本を読んでいる人間には解らないのだから。その本が、その絵が魅力的かが読んでいる側には重要な点で、それを書いた作者がどんな人間なのか、その絵を書いたのがどんな人間なのかを気にする人間はごくわずかなのだ。

「今度、その原稿を書いた先生と打合せをするから、その席には紅も出席して貰うからね」

 原稿を書いた先生。

 確か、今村美月と原稿には書いてあった。どんな人なんだろう。

 その人への期待と、ほんの少しの不安が同時に心の中に現れた。

 本人にお会いして、やっぱり私なんかに頼むの止めたって言われたらどうしよう。すっごく怖い先生で、いじめられたらどうしよう。

「今村先生はとても優しい方だから、安心していいからね。でも、手が早いからその点だけ気をつけてね」

 手が早い……? 一体どういう意味なんだろう。ななちゃんの言っていることを理解出来ぬまま、ななちゃんの話がどんどん先に進んで行くので、その流れの中で、私はそれを言われたことさえ忘れていった。

「それで、紅はいつが空いてる? 土日とか大丈夫? あっ、彼氏がいるから日曜日は駄目だよね」

 ななちゃんには、彼氏がいることは話してある。だが、その相手がこの間までここで働いていた青であることは知られていない。

「ううん、平気。日曜日でも大丈夫だよ」

 自分でも上手く言えていないと自覚している。平気なつもりでいても、青を思い出すと胸が締め付けられて痛い。

 こんな風に誰かと話している時でも、ふっと青を思い出し、青に会いたいと思うのだ。大丈夫なつもりでいても私の心は青を求めて仕方ない。

 青と会えなくなってより深く青を焦がれるようになってしまった。

 ななちゃんは、ビールを1杯だけ飲んで帰って行った。恐らく、私の返事だけを聞く為だけに寄ってくれただけなんだと思う。


 今夜はとても暇な夜で、ななちゃんが帰った後、雪崩のようにだだだっと皆いっぺんに帰ってしまった。

「お前、もしかしてブルーと会ってないのか?」

 突然に、マスターの口から青の名前が紡ぎ出されたことにぎくりと身を硬くしてしまった。

「会ってないんだな。何があったんだ?」

 私のあからさまな態度に、ちょっとキツイ設問を投げかけてくる。

「別に別れたとかそんなんじゃなくて……。ただ、青の幼馴染のお父さんが亡くなったから、傍についているだけで。忙しくて会ってる暇がないだけなんだよね。ははっ」

 笑って誤魔化そうとしたけれど、マスターの目は私を鋭くとらえ、何の変化も見逃すまいとする態度が窺えた。

「その幼馴染ってのは女なのか?」

「うん、そう。だけど、青と二人きりってわけじゃなくて、もう一人幼馴染がいて……。だから、マスターが心配するようなことは何もないんだよ、本当に」

「じゃあ、何でそんなに泣きそうなんだ? 何でそんなに辛そうなんだよ? あきらかにおかしいだろう、最近のお前。上の空だし、たまに涙目になってる時だってある。何もないなんて俺は言わせないぞ。俺に話してみろよ。話せば楽になることだってあるだろう?」

 やっぱりバレてた。きっとマスターには隠せてないとは思っていたけれど、こんなにも早く問いただされることになろうとは思いもしなかった。

 もっとちゃんと出来ているって思っていたのに……。情けない。

「楽になるのかな? 話せば少しは楽になれるのかな。昨日ね、原稿読んですっごく色んな絵が描きたくなって、寝るのも忘れて何枚も何枚も絵を描いてたの。そうやって何かに集中している時は何もかも忘れていられた。っていっても、青のこと考えないように今回の話を受けたわけじゃないけどね」

「そんなこと解ってるよ。お前はそんな理由で、受けたりするような奴じゃない」

 マスターと話していると涙が出そうになる。

 私の性格を解ってくれていて、私の気持ちを楽にしてくれて、甘えてしまいそうになる。きっと本当は駄目なのに。ちゃんと一人で、青の帰りを待っていなきゃ駄目なのに。

 それでも、今夜だけマスターに甘えちゃ駄目なのかな……。

「マスターはいつでも私のこと解ってくれるんだね?」

「そりゃ俺はお前の兄みたいなもんだからな。頼れるお兄さんってやつだ」

「自分で言ってらぁ」

 ケタケタ笑ってそう言うと、軽いゲンコツが飛んで来た。全く痛みのないゲンコツが。

「マスター。私、青とは別れてないよ。だけど、別れてるのと殆ど変わらないのかもしれない……。青が凄く遠いの。凄く凄く遠くに感じる。マスター。今日だけ、話聞いてくれる?」

 ああ、とマスターの低い声が煙草の間から漏れ聞こえた。

「青の幼馴染の子ね、青のことが好きなんだ。小さい頃からずっと、青のこと見て来たんだって。その子、既にお母さんが亡くなってて、お父さんも亡くなってしまって一人になってしまったんだ。青はその子が元気になるまで、傍にいてあげたいって。直接聞いたわけじゃないけど、その間私とは会わないつもりなの。青もその子が自分を好きなんだってことに気付いてるから。彼女といる間は私という存在を消すつもりみたい」

 ふ~ん、と気のない返事とも取れる声がマスターから洩れた。

「それって優しさなのか? 残酷さなのか? 俺には残酷さにしか感じられないな。あいつは間違ってるって俺は思うよ。本当に大事な人悲しませて、そして、きっとその幼馴染のことも泣かす派目になるだろうよ」

 カランとドアのベルが鳴って、私とマスターが同時に振り向くとそこには彼が立っていた。


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