第70話
会いたいけれど、会っちゃいけない。そう青が思っているなら、私はそれに従うしかない。惚れた弱みというやつだ。思うようにさせてあげたい。馬鹿かもしれないけど、それが私の愛し方なのだ。そして、私は待つ。何日でも、何週間でも、何ヶ月でも、何年でも。青以外の誰かを好きにはなれないから。青が私の最初で最後の人だと信じているから。だから、いってらっしゃい。笑顔でそう言うね。
「ありがとう、紅」
ほんの少し潤んだ瞳で微笑みを浮かべる青を見て、自分の想いが届いたのだと確信する。
青はその笑顔を見せた後、静かに帰って行った。青の後ろ姿を見えなくなるまで見送った。
お別れじゃない。そう信じているから、私は泣かない。
私から去っていく背中を見て、涙が溢れそうになるのを、何度も何度も我慢した。
その翌日から青のいない生活が幕を開いた。
バイトを休んで1週間後、結局青はバイトを止めた。4月から先生になることが決まっていたので、それは遅かれ早かれそうなると決まっていることではあった。
青とはメールでは連絡を取り合ってはいたが、電話では話さなかった。声を聞いてしまったら、会いたくなって、いてもたってもいられず体が勝手に動いてしまいそうな気がして恐かった。
そんなある夜、中学、高校の同級生であったななちゃんがお店にやってきた。この前来た時と同じ男の人と一緒だった。
「今日は、ベニに話しがあってやってきたの。大事な話なんだけど、ちょっとお話出来ないかな?」
ななちゃんの真面目な表情に驚いた。久しく見ていなかったが、この表情はななちゃんが何かを打ち明けるときのもの。高校の時に、好きな男の子を打ち明けた時もその表情だったし、喧嘩して仲直りしようとしていた時もそんな表情だった。
ななちゃんが私に大事な何かを話そうとしている。
最近はそこまで交流があるわけではなかったななちゃん。一体私に何を話そうとしているのか。その内容には、思い当たる節が全くなく、想像すら出来なかった。
マスターの計らいで休憩時間を貰い、ソファ席に移動し、そこで話を聞くことになった。
「私の父が出版社を立ち上げているのは、以前話したよね。今日は仕事の話しなの。ベニもバイト中で忙しいだろうから結論から先に言わせて貰うね。実は、ベニに絵本の挿絵を描いて欲しいの」
「は?」
想像もしていなかった話の展開に私はついていけず、気の抜けた声をあげた。
「高校の3年生の時、下敷きに絵を描いて貰ったの覚えてる?」
確かにななちゃんに頼まれて下敷きに絵を描いた事がある。確か100円ショップなんかでよく売っている無地の下敷きで、なんだか物足りない感じがするから絵を描いてと言われて描いたのだ。マジックでさらっと描いた簡単なものだったと思うのだが、その絵がどんなものだったかというところまでは正直覚えていない。
「絵を描いたのは覚えてるんだけど、どんな絵を描いたのかまでは覚えてないや。でも、それと何か関係あるの?」
「うん。実はね、私今でもその下敷き使ってるの。使い勝手が良いし、ベニが描いてくれた絵も気に入っているから、いつも使ってる。ある絵本作家さんがその下敷きをたまたま目にしてね、是非自分の作品の挿絵を描いてくれないかっておっしゃってるの。その先生に頼みこまれちゃって」
絵本の挿絵。正直惹かれる。だけど……。
「私、絵の勉強とかしたことないし。からっきしの素人なんだよ。そんな突然絵本の挿絵なんて出来るわけないよっ」
「そうね。私も最初はそう言ったのよ。でも、先生はベニの絵がいいと言い張ってらっしゃってるのよ。他の人の絵じゃ、本は出さないとまで言ってらっしゃるの。ベニの絵に惚れこんでしまったみたい」
一体私はあの時、あの下敷きにどんな絵を描いたのだったか。そんなに惚れこんで貰えるほどに、良い絵だっただろうか。
私は、首を傾げることしか出来なかった。
「これ、今回ベニに描いてもらいたい挿絵の原稿なの。読んでみてくれる? また、来るからそれまでに決めておいて欲しいの」
手渡された原稿のコピー。戸惑いながらそれの表紙に目を落とす。
「ごめんね。お仕事中に時間取って貰っちゃって。是非、前向きに検討してみて」
そう言ってななちゃんは帰って行った。結局、今日も隣りにいた男の人は一言も言葉を発することもなく帰って行った。
私にはななちゃんが既に社会人である印象を受けた。まだ、大学生であるにも拘わらず、お父さんの仕事を真剣に学ぼうとしている。
「俺は良いと思うぞ、今の話し」
カウンター内でどうしたものかとぼんやりしていると、マスターが隣りに来てそう言った。
「聞いてたの?」
「人聞きの悪いことを言うな。聞こえたんだよ。聞こうと思って聞いたわけじゃない。お前の友達は声がでかいからな、ここにいる客全員聞いていたんじゃないのか?」
確かにななちゃんは声が大きい。この大して大きくはない店内なら、隅々まで聞こえていたとしてもおかしくはない。
お店のお客さんは私達の会話を無関心を装って、しっかりと聞いている。まあ、聞かれてまずい話しではないので別にいいんだけど。
「私、素人なんだよ? ただ落書きするのが好きなだけな完璧など素人。絵本の挿絵なんて私なんかに出来るのかな?」
「出来る、出来ないはお前の心意気次第なんじゃないのか? お前がやりたいって思えば大抵のことは出来るもんだろ。最初から出来ないと決めつけるなら、良い絵なんか一枚も描けねぇな。誰かにお前の絵が求められてるって凄いことなんだぞ。この先、絵を職にするかしないかは別として、取り敢えずやってみるっていうのも選択肢だと思うけどな」
確かに、自分の絵が求められているのなら、出来る出来ないとうじうじ考える前にやってみれば良いのかもしれない。
「それに、お前、絵描くの好きなんだろ? あるじゃないか、好きなこと。悩んでたみたいだけど、見つかったじゃねぇか」
「あっ」
好きなこと、やりたいこと、私には何一つないんだと思っていた。あるじゃん。小さい時から絵だけは得意だった。一人で寂しい時は絵を描いていれば、寂しかったことさえ忘れてしまったし、親が喧嘩している声が聞こえて塞ぎ込んでしまった時にも絵を描けば落ち着いていられた。思えば私はいつも絵を描いていた。いまさら画家にはなれないかもしれないけど、違う何かにはなれるのかもしれない。そう、諦めなければ。
忘れてた……自分の好きなこと。こんなに簡単なことだった。
「原稿貰ったんだろ? それ読んでじっくり考えてみろ」
「マスター、ありがとう。たまには良いこと言うんだね。さすが年食ってるだけはあるよ、うん」
くすりっと笑い声が聞こえた。
お客さんの若い女性が、思わずといった感じで笑ったのだ。カウンターに一番近いソファ席に座っていた女性二人組の一人だった。びっくりしてそちらに目を向ける。
「ごめんね、ベニちゃん。盗み聞きするつもりはなかったんだけど、マスターが珍しく良いこと言ってたからつい聞き入っちゃった。私、ベニちゃんなら出来ると思うよ。その話凄く良いと思う。是非やってみたら?」
「私もそう思う。ベニちゃん絵上手だもん。きっと素敵な絵本になると思うよ」
次々にお客さんから激励の言葉を頂いて、私は嬉しくて涙が出そうだった。よく知っている常連客のお客さんも、まだ日の浅い常連客のお客さんも温かい目で私を見てくれていた。
マスターが、とんと背中を押してくれた。
「あのっ。ありがとうございます。よく考えて、前向きに検討してみますっ」