第64話
「じゃあ、私はデートの邪魔になってしまうので帰ろうかな」
桔梗さんがゆっくりと立ち上がりながら、そう言った。
「邪魔なんかじゃないですよ、おっお父さん。そろそろ私達も帰ろうかと……」
同意を求めようと、青を見れば、憮然とした顔をしていた。
「青?」
「帰る必要ないよ。一緒にいればいい。体の調子が優れないなら、送って行くよ」
ちょっと拗ねたように青が言う。桔梗さんが自分に遠慮をしたのが気に食わなかったんだろうか。さっき仲直りしたばかりの親子はどことなくぎこちなさをはらんでいた。
「いや、体の方は完全に回復しているから問題ないんだよ。もう、仕事もこなしているからね」
青の気遣いが嬉しかったのか、口元が綻ぶのを抑え切れない様子だった。
今までぐっすりと寝ていたまゆが恐る恐る桔梗さんに近付いていく。
『あなたは誰なの?』
桔梗さんの靴の匂いを嗅ぎながら、つぶらな瞳がそう訴えていた。
「まゆ。青のお父さんだよ」
そう聞いたまゆは尻尾を激しく降ると、桔梗さん目掛けて飛び付いた。桔梗さんと青はとても似ているから、まゆが気に入るのも当たり前ってところだろうか。桔梗さんは顔中まゆになめ回されて、あたふたとしていた。私と青は顔を見合わせて笑った。
「まゆ、勘弁してあげて。おお父さんが困ってるよ」
やはりお父さんと呼ぶのはハードルが高い。桔梗さんをお父さんと呼ぶのはもっと先の事と思っていたのに。
私はバッグの中からまゆのおやつを取り出した。その物音に気付いたまゆは桔梗さんから放れて私の元に嬉々としてかけて来た。どんなに桔梗さんが好きでも、餌の誘惑には勝てないようだ。
「可愛い犬だね。特に眉毛模様が格別にいい」
桔梗さんは顔についたまゆの涎をハンカチで拭いながらまゆを見て言った。
「可愛いですよね。だから、まゆって名前なんです」
そりゃいい、と細い目をまゆに向けながら頷いた。
「父さんは犬が嫌いだと思ってた」
「イヤ、私は犬は好きだよ。犬が苦手なのは母さんの方だよ」
お母さんの話しになると二人の表情が暗くなる。本当の意味で二人に笑顔が戻ればいい。まだ会ったことのない青のお母さんと紫苑さんに想いをはせた。
会ってみたい、二人に。でも、会うのも少し恐い。
「そろそろ帰ろうか」
まゆがおやつを食べ終わるのを待って青が言った。
「そうだね」
三人と一匹で公園の中をゆっくりと通り過ぎていく。
「私、まゆを返してくるから、二人で帰っててね」
「紅は一人じゃ危ないから一緒に行くよ」
青は絶対に過保護だと思う。まだ日も暮れてない明るい時間なのに、危なくなんてないのに。また私がナンパされたら大変だなどと、いらない心配をしているんだろう。私がそんなに人気があるとは思えないのに。
「皆で行こう。俺と父さんはマンションの下で待っていればいいんだから。それなら、俺も安心だし」
青には頑固なところがあって、一度言い出したら私が頷くまで、頑として意見を変えない。
「おっお父さんはそれで良いんですか?」
「そうだね。私も紅ちゃん一人で出歩かせるのは心配なので、お供しますよ」
まったく。過保護親子だわっ。
「解りました。じゃあ行きましょう」
なんか私って格さんと助さんを引き連れた水戸校門様のようではないか。ちょっと古いか、ならば、二人のナイトに守られるか弱きプリンセス。うわっ、ガラじゃない。自分で言っててサブイボ出て来た。でも、二人がナイトって言うのは何だかしっくりといく感じがする。執事とかもなんかいいかも。コスプレ来てくれないかな。白タイツの美しい王子様(青)……、それに、黒いスーツをビシッと羽織った硬派な執事(桔梗さん)。ああ、見たいっ。恐ろしく似合うに違いない。
「紅。何か変なこと考えてる? 顔が恐いよ」
顔が恐い…? 失敬なっ。でも、一体どんな顔して妄想してたんだろ、私は。涎垂らしてなかったよね。顔を手で探ってみたけど、特に異常はないように思う。
「もしかしてエッチな事でも考えてた?」
青の探るような、面白がっているような瞳が覗き込んでくる。
「違うに決まってんでしょっ。青じゃないんだから」
「最後の言葉余計じゃない?」
不満そうに唇を尖らせる。
「だって、実際そうでしょ?」
「いや、否定はしないけどさ」
否定はしないんだ……。肯定されても私もどうしようもないんだけどさ。そんな私達の様子をくつくつ笑いながら聞いてる桔梗さん。何だか楽しそうで良かった。
マンションをあと約50mに迫った時、前方に厄介な人物を発見。何であのお方はいつもバッドタイミングで現れるんだろう。何とか回避する方法はないかと熟考していたその時、あろう事か青がその存在に気付いてしまった。
「あっお母さん。こんにちは」
手を振って、大きな声を張り上げる青に頭を抱えたい思いだった。青の声をかけた先にはこちらに気付いた母が少女のようにはしゃいで手を振っている。
「紅さんのお母さんかな?」
少女のようにはしゃぐ母を見て、桔梗さんが私に尋ねた。
一体、あのような母を見て、桔梗さんはどう思ったんだろうか。聞きたいけど、恐ろしくて聞きたくない。
「はい、そうです」
私はデジャヴュを見ているんだろうか。今回は桔梗さんもいるから、もっと現状は悪いように思う。どうか、青が余計なことを母に言いませんようにと心の中で何度も唱えた。婚約したこと、母に言いませんように。
何故私がこんなにも母に知られるのをイヤがるのかというと、それは、それを知ってしまった母が、暴走しかねないからだ。普段おっとりした母ではあるが、ここぞという時の行動の早さは目を見張るほどだ。仕事の時の母がいい例だ。鬼のような速さで作業をし、材料の注文をし、クライアントさんと交渉し、アシスタントさんに指示を飛ばす。傍から見れば圧倒される光景と言えよう。
そんな母は、私が結婚することをそれはもう心待ちにしているのだ。婚約したと知られた日には、翌日には式場が勝手に予約されていて、ドレスも発注済み、招待客のリストも作成済みなんて状態であってもおかしくはない。勿論当事者の意見も聞かずにだ。きっと、私が何か文句を言えば、就職が決まっていないんだからさっさと永久就職しなさい、と言われるのがオチだろう。
「あら? この方……もしかして、青君のお父様かしら?」
「ええ、いつも息子がお世話になっております。よくお解りになりましたね」
「似ていらっしゃるもの。そうして並んでるとすぐに解りますよ」
おっとりの母と冷静な桔梗さんが会話をすると、会話が静かに流れていくような感じがする。小川のせせらぎのような穏やかな会話だ。
「もし宜しかったら、寄って行って下さい」
この展開的に、そうなるとは思っていた。だけど、そうはならないで欲しいと何度となく願った。
「宜しいんですか? 突然伺って迷惑なんじゃ…」
「いいんですよ。遠慮なさらないで下さい」
「それじゃ…」
母と桔梗さんの会話を聞きながら、予想通りの展開になっていくのを、恨めしい思いで見守っていた。
私の隣りには私の表情とは正反対の晴々とした表情の青がいた。私の意志だけを置いて、世界が回っているようだ。三人がマンションに入ろうとしている今、私だけこの場から逃げ出すことも出来ず、渋々後について行く。
まゆの軽い足取りを見て、お前もか、と突っ込みたくなった。まゆはお気に入りの人々に囲まれて、上機嫌だ。その足取りも普段より弾んでいるように見えた。