第61話
名取さんは語り始めた、幼い頃の出来事を。
その時、紫苑君は高校受験を控えていた。季節は冬だったと思う。
新しく買ってもらったジャンパーが嬉しくて、青に見せびらかそうと青の家に向かっている途中だった。
俺の家から青の家までは3軒離れていて、その間に空き地があるんだ。そこには土管が置いてあって、俺達はよくその土管に入って遊んだりしていたんだ。
その空き地を通りかかった時、紫苑君が一人その土管の中に入って行くのを見たんだ。俺は、こんな時間に紫苑君がいるのを不思議に思った。その時間帯には紫苑君はいつも塾に行っている筈だった。
俺は気になって空き地に入り、土管の中を覗き込んだ。
「紫苑君?」
俺が声をかけると、驚きの余り言葉を失っていた。だがすぐに表情を元に戻した。
「名取一人か? こんな所で何をしているんだ? 青と遊ばないのか?」
驚いたのは俺が青の友達だと認識していたことだ。俺の方では紫苑君の顔を見知っていたけど、紫苑君の方では俺の事なんて知らないと思っていた。
「今から青ん家行くところなんだ。紫苑君こそ何してるんだ? 塾に行く時間なんじゃないのか?」
「ああ、いいんだ。行かなくたっていいんだよ。いいんだ。勉強なんて……」
俺には紫苑君がどこか思いつめているように見えてならなかった。だからといって俺に何が出来るわけでもない。俺はまだまだガキで、受験の苦労なんて知る由もなかったんだ。何と言えばいいのか解なくて、どうする事も出来ずに立ち尽くしていた。
「青と仲良くしてくれているんだってね。ありがとう」
紫苑君の笑顔に俺は見惚れてしまった。その笑顔はとても愛に満ちているように見えた。俺は青と紫苑君は仲が悪いんだと思い込んでいたんだ。青の家の状況は少なからず知っていた。青に直接聞いたわけじゃない、両親が話しているのをたまたま聞いたんだ。両親は青が可哀想だって言っていたんだ。兄弟の仲も悪いんだろうよって。だから、俺は両親の言う事を真に受けていたんだ。
「紫苑君は、青が好きなの?」
ガキだったから、何も考えずにドストレートに聞いてみたんだ。
「大好きだよ。一緒に遊んであげられないけどね。青が産まれた時は嬉しくて眠れなかったくらいだよ。いつまでも見ていたかった。本当はいつも遊んで、いつも一緒にいてやりたかったな」
紫苑君の口ぶりは優しくて、口元には小さな笑顔が浮かんでいた。それと同時に無念さのようなものも滲み出ていた。
「青が待ってるんだろ? もう行きな。青をよろしくね」
微笑みを浮かべてそう言う紫苑君に俺は素直に頷いて、その場を後にした。
俺のイメージの紫苑君は、無口で無表情で、笑う事なんてないんだろうって思っていた。紫苑君は青を嫌っているし、青の方でも紫苑君のことは一切口に出さなかったから嫌っているんだろうと思い込んでいた。
その時の俺には、紫苑君が何に苦しんでいるのか理解することは出来なかった。ただ、青のことが好きなんだって事だけは知ることが出来た。そのことが俺には救いだった。その頃、青の笑顔が徐々に暗くなって来ていることにうすうす気付いていたんだ。
「今になってみれば、紫苑君はあの頃から大分精神的に参っていたんだと思うよ。そして、その約3年後に事件が起きるんだ。君はそれを知っているんでしょ?」
「はい」
名取さんの話を聞いて私は嬉しくて仕方なかった。紫苑さんは青をちゃんと好きでいてくれたんだ。仲の良い兄弟ではなかっただろうけど、きちんとそこには存在していた。ずっと青が求めていたものが。気付かなかっただけだったんだよ。苦しさで真実を見ることが出来なくなっていたんだ。
「紫苑さんは今、どこにいるんでしょうか?」
名取さんへの質問とは少し違う。ほぼ自問自答のような呟きだった。
「この町のどこかにいるかもしれないよ。一度見たことがあるんだ。紫苑君らしき人を。でも、きっと間違いない。あれは紫苑君だった」
「この町に? じゃあ、何で帰って来ないんですか? こんなに近くにいるのに」
紫苑さんがこの町にいる。ならば、私は見たことがあるかもしれないし、すれ違ったことがあるかもしれない、もしくは、肩がぶつかったことだってあるかもしれない。ただ、私は紫苑さんの容姿を知らないのだ。例えすれ違っていたとしても、私には解らないのだ。
「帰りたくても、帰れないんじゃないかな。自分のやったことの重大さが解らないほど馬鹿じゃない筈だから。それに、変わってたよ、紫苑君は。外見がね。だから俺もすぐには紫苑君だって気付かなかったんだ。俺の知ってる紫苑君は優等生って感じできちんとしてたけど、今は悪そうだったよ」
悪そうだったよ……。
今の紫苑さんを見たら、青はどう思うんだろう。桔梗さんは? お母さんは?
「今もまだこの町にいるかは解らないけどね」
「名取さんが紫苑さんを見たのはいつなんですか? 紫苑さんは名取さんに気付きましたか?」
「確か去年の秋ぐらいだったかな。紫苑君は多分俺に気付いたと思う。一瞬目が合った気がするんだ」
去年の秋。
紫苑さんはこの町に住んでいるんだろうか。ただ、家族のことが気になってたまたま来ただけか。もし、この町に住んでいたとして、名取さんに気付かれたとしたら、どこかよそに引っ越してしまうのではないか。
紫苑さんはまだこの町にいるだろうか。いてくれるだろうか。紫苑さんはこの町で、もしくはここではない町で何を思っているんだろう。その心の中にあるのは後悔か、懺悔か、それとも憎しみか。憎しみでないことを強く願う。青の為にも、紫苑さんの為にも、桔梗さんとお母さんの為にも。
「それじゃ、俺そろそろ戻るね。あんまり遅いと青に殺されそうだよ」
ケタケタと笑う名取さん。その内容の過激さに驚く。
「殺されっ? まさかっ」
「解ってないなぁ。青はね、本当はベニちゃんをどこかに閉じ込めて、誰の目にも留まらないようにしたいって思ってるんだよ。青は変わった。いつ頃だったか、ぎこちなく笑うだけだったあいつが柔らかく笑うようになった。普段の表情も柔らかくなって、雰囲気も柔らかくなった。だから、冗談で聞いたんだ。好きな女でも出来たのかって。嬉しそうに頷いてたよ。俺はあいつが本気で人を好きになることはないと思ってたんだ。だから、最初は冗談だとばかり思ってたんだ。でも、話を聞いているうちにその疑問も打ち消さなくてはならなくなった。あんな顔、長い付き合いの中で一度だって目にしたことはない。一時期塞ぎ込んでて、もしかしたらこっぴどくフラれたんじゃないかって心配してたんだけど、聞くに聞けなくて気を揉んでいたけど、君が彼女になったって聞いた時には自分のことのように嬉しかったよ。ベニちゃん、君は君という存在が青の隣りにあるというだけで、青には救いなんだ。あれもこれもと君が背負い込む必要はないんだよ?」
「心配してくれてるんですよね? 有難うございます。だけど、私は大丈夫ですから。青の為に私がしたいんです。青にとったら、迷惑でしかないのかもしれないけど。ただのお節介でしかないのかもしれないけど。青は戻りたいと思っているような気がして、どんな風に拒んでもそんな気がして仕方ないんです」
思い違いかもしれない。実際は一人でいたいと思っているのかもしれない。だけど、私の脳裏には家族の愛を求める小さな少年の青が見える。それが私を突き動かしているのだ。勝手なことをするなと怒鳴られるかもしれないけど……。
「俺も青は家族を望んでいるって思うよ。だから、なんかあったら俺に言って。出来ることもあるかもしれないから。じゃあ、俺は青に怒られに行くよ。またねっ」
青に怒られるのを全くイヤだとは思っていないように見受けられる。きっと名取さんは青が好きで好きで仕方ないのだろう。からかって怒らせるのが好きみたい。男の人の友情ってよく解らない。だけど、あの二人のような関係を少し羨ましく思った。
「うわっ、さぶっ」
今まで真剣な話をしていたので気付きもしなかったが、一人になると北風が妙に身に沁みた。
両手で自分の体を抱き、いそいそと階段を駆け上がった。
本日、青の出番なし……です。




