第6話
「まあ、そのあいつとやらは見たことないから何とも言えないんだけどさ、マスターを想っているよりはいいんじゃないかな。マスターの話を聞いてると、望みはあまりないように思うし。現実的に見てさ、あいつの方がいいんじゃないのかな?」
「ブルー」
「ブルー?」
「あいつの名前、青っていうの。だから、ブルーってみんなから呼ばれているんだ」
「へぇ、ブルーさんか。私としては、ブルーさんの方がいいんじゃないかと思うよ。まあ、見てみないと解らないけどね。ねぇ、今度、その店行ってもいい? 見てみたいよ、マスターもブルーさんも」
多恵がお店に飲みに来るのは全然構わないと思う。ただ、マスターやブルーに変なことを言うんじゃないかと思うとちょっと心配になってしまうのだ。
「変な事言ったりしないでしょうね?」
しないしないと笑顔で答えられると、逆に心配になって来る。
「まあ、いいけどさぁ」
断ろうがなんだろうが、多恵はきっと来るに決まっている。止めるだけ無駄というものだ。
「やったっ。じゃあ、亜由誘って行くからね」
楽しそうに隣りでスキップする多恵を恨めしく見ていた。亜由というのも私と同じクラスで、大抵一緒にいる仲良しの一人だ。今日は亜由の姿が見えないようだ。きっとサボりなのだろう。
「今日、亜由サボり?」
「うん。昨日サークルの飲み会で飲み過ぎて二日酔いなんだって」
そうなんだ、と私は呟いた。
授業が終わると、一旦家に帰り、バイトの時間まで横になりながら本を読んでいた。大好きな作家の小説なのだが、昨夜の寝不足のせいか、一行読んでは、うつらうつらし、ハッと目を覚まして一行読んではうつらうつら。結局半ページも読むことも出来ずに諦めて本を閉じ、目を閉じた。目覚ましかけなきゃ起きれないかも……と、思いながら。そう頭を過ぎるもののもう目は開けられなかった。
ぴ~んぽ~ん。
玄関のチャイムの音で私は目を覚ました。目を覚ました瞬間、時計を見た。
ちょっと~、最悪なんですけど。
時計は、既に8時になろうとしていた。完璧遅刻だ。
「今、お目覚めですか?」
玄関で声が聞こえて振り向くと、ブルーがこちらを見てにやにやしていた。
「何であんたがここにいんのっ?」
「マスターが呼んで来てくれって言うから。鍵もかけずに居眠りなんて、不用心この上ないね」
マスタァァァァ、昨日に引き続き余計なことをして下さる……。
大好きなマスターではあるけれど、たまに無性に蹴り飛ばしてしまいたくなる。愛しさ余って憎さ100倍って感じで。
「もう起きたからすぐ行くって伝えて」
私は昨日のことが急に思い出されて、ブルーの顔も見ずに言った。昨夜、キスをされたのだと思うと、何だか顔を合わせずらい。とにかく、シャワーを浴びてる暇はない。
髪の毛は……、少し濡らせば何とかなりそうだ。
私は自分の中で、焦る気持ちを何とか抑えながら、次に何をするべきかを考えていて、ブルーが出て行ったのかを確認していなかった。私は、ブルーはもう既に店に戻っているんだと思っていた。
急に後ろから抱き締められ、私は体を硬くした。
「寝起きの紅。そそられる」
耳元で囁かれ、その後、耳に唇を押し当てた。びくっと反応してしまった私をブルーはくつくつと可笑しそうに笑って見ていた。
「止めてよ」
自分の声とは思えないか細い声が口から洩れた。
「それって誘ってんの? 誘ってるんだよね。そんな声出されたら、俺、止まんなくなるよ」
首筋に唇が這われ、私は金縛りにあったように動けなくなった。
「ィ……ヤ」
こんな声じゃ、誘っていると思われてしまう。だけど、出てくるのはこんな声ばかりだった。
ブルーの腕が私の顎を持ち上げ、迷わず唇が塞がれた。
このままじゃ、本当に襲われる……。
そう思うのに、体はブルーを求めているかのように素直に感じていた。
好きでもないのに何故?
突き放せない。このまま私は、溺れてしまうんだろうか?
そんなことを考えていると、ブルーのジーンズの後ろのポケットに入っていた携帯が着信を知らせるメロディを奏でた。
助かった……。
ブルーの行為に溺れそうになっていた私だったが、その携帯の着信メロディで、漸く自分を取り戻すことが出来た。
ブルーは名残惜しそうに唇を解放すると、電話に出た。
「はい。はい、中々起きなくて。いえっ、やっと起きました。今、用意してますよ」
電話の向こうにいるのは、マスターだ。さっきは蹴っ飛ばしてやりたくなると思ったのに、今は抱き付きたくなるくらい感謝の気持ちでいっぱいだった。
ホッとした私は、その隙を見て洗面所に逃げ込んだ。鏡に映る自分の頬は赤く上気していた。
視線を下げると、胸元が大きく開いていた。
胸は触られていない筈だったと思うけど、いつの間に……?
恐らくキスの合間にボタンを外されていたんだろう。
危なかった。危なかった。どうしよう、怖い。いつか襲われる。私には止められない。ブルーに触れられると、体が熱くなって、頭が真っ白になる。きっと無理だ。私はブルーを止められやしない。ブルーに何かされたら結局受け入れてしまう自分がいる。ブルーが怖いんじゃない。自分が怖い。ブルーに流されてしまいそうな自分が怖い。
私が鏡の中で頭を抱えていると、洗面所のドアがノックされた。私はびっくりして飛び上がった。
「な、何?」
声が上擦ったことで、私が動揺しているんだとブルーに思われただろう。
どうしてこんなに振り回されているんだろう。
「お店に行こう。支度出来た? もう何もしないから開けて」
あんなことをした後で、こんな優しい声を出すなんてずるい。さっきのブルーは高慢ちき男だった。じゃあ、今は? ロマンチス男?
私は外にいるブルーが高慢ちき男でないことを願って、恐る恐るドアを開けた。小さく開けたドアの隙間からブルーを見上げる。
「先にお店行っててっ」
「マスターから危ないから一緒に来いって言われてる」
マスターめぇ。何も知らないマスターに察してくれって言っても無理なんだろうけど……。
「本当に何もしない?」
「何もしない」
私はドアを開けて、警戒しながらも外に出た。その途端抱き締められ、キスされていた。
「何もしないって言った」
「何もしない、キス以外は」
「なにそれ。騙したの? 信じら……」
私の非難は、唇を塞がれたことで、それ以上は言わせて貰えなかった。
「キスだけは止めない。それ以上のことは紅が俺を好きになるまで待つから。だから、早く俺を好きだと言って。俺を心底好きになって」
ブルーの瞳が悲しそうに輝くのを見ていたら、思わず好きだよ、と言ってしまいそうになって、そんな自分に驚いた。でも、危ういところでその言葉を無理矢理飲み込んだ。
「好きじゃない。私が好きなのはマスターなんだから。いくらブルーに好きって言われたって、何度キスをされたって、私の気持ちはマスターに向いてるんだからね」
「知ってるよ。全部知ってる」
悲しそうに笑うブルーを衝動的に抱き締めたくなる。伸ばしそうになる手をぎゅっと握り締めた。
「お……」
お願いだから、そんな悲しそうな顔をしないで。
突発的に自分の口から飛び出そうとする言葉を私はどうにかこうにか飲み込んだ。
そして、私はその考えを頭から振り払い、ブルーを押し退けて玄関へと向かった。
「お店、行くわよ。早くしないとおいてっちゃうからね」
まだ佇んでいるブルーを促した。でも、ブルーの顔をもう一度見ることは出来なかった。見てしまったら、本当に自分から抱き締めてしまいそうで怖かったから。