第56話
富ちゃんを見たら、目が合って、何となく気不味くなって笑った。私達は今、泣いているんだか笑っているんだ解らなくなっていた。
そんな状況の最中、休憩室のドアがノックされ、青が入って来た。烏龍茶のグラスを持って。
「泣いたら喉が渇くでしょ?」
ありがとう、と富ちゃんがグラスを受け取り、一口ごくりと飲むと、唇を尖らせてこう言った。
「な~んだ。お酒じゃないんだ。残念」
「マスターが休憩室での飲酒は禁止だと」
そんな話は初めて聞いた。私と青は普段お酒を飲まないので、ここで飲むことはないから言われたことがないだけのことなのかもしれない。
確かに、マスターがこの部屋で酒盛りしているのを見たことがないな。
私も、ありがとう、とグラスを受け取ると、烏龍茶をくいっと飲んだ。
青の手が伸びて来て、手の甲で私の目元に触れる。
「熱い。沢山泣いたね。今日、念入りに冷やしておかないと明日大変なことになりそうだよ」
青が手の甲を目元に添えたまま、くしゃりと顔を崩して笑顔を作った。私もそれに応えて微笑んだ。
「ちょっとぉ、私、ブルー君が笑ったの初めて見たわよっ。笑えたのね、私てっきり笑えない人なんだと思ってた。だから、二人はいつも二人だけの時どんな風に時間を過ごすんだろうって、想像出来なかったのよね。でも、安心した。二人、すっごくお似合いで、見ててこっちがドキドキしちゃった」
興奮気味にそう言いながら青の笑顔を観察している。
「富ちゃん、ブルーだってそりゃ笑うよ」
富ちゃんの驚きようが可笑しくて、ケラケラと笑った。
「俺は紅にしか笑顔は見せませんから」
無表情に瞬時に戻した青が富ちゃんに淡々とした口調で言う。
なぇ、青。それは、だけど嘘だよね。だって、私は見たんだもの。あの幼馴染の奈緒さんに笑っているじゃない。
今までなら気にも留めなかった青の台詞を一々奈緒さんに結びつけて考えてしまう情けない私がいた。
青がそう言ってくれているんだから、それを素直に信じればいいじゃないの。青の言う笑顔は特別な笑顔のことなのよ。
そう訴える私と、やっぱり私だけじゃない、私だけに笑顔を向けてくれているなんてあるわけないのだと訴える私が混在していた。
惑わされてはいけないと思えば思うほどに、追い詰められる自分がいた。ただ、青が私に向けてくれる愛情に何ら変わることはなく、それが唯一の救いだった。
「紅。どうした? 泣きすぎて頭痛くなった?」
青の声に我に返ると、青が美しい顔を少し歪めて心配そうに覗き込んでいた。
平気だよ、と口元を緩めれば安心した表情を見せた。
「ブルー君って本当にベニちゃんにべた惚れなのね。もしなんだったら、合同の結婚パーティでも私はいいのよ?」
私達の会話を傍観していた富ちゃんが、本気とも冗談とも取れない曖昧な調子でそう言った。
「結婚は必ずします。俺の隣りは紅だけだって決めてますから。紅がOKしてくれたら、俺はいつでも」
青の言葉に富ちゃんは頷いた。そして、二人同時に私を見据え、私をたじろかせた。
「えっと……え? この状況って……えぇっ」
これって、この状況って……もしかして、私って何気にプロポーズされているってことなんだろうか?
「紅、こんな色気がない場所だし、指輪も花束もない。だけど、言わせてほしい。俺の一生隣りにいて欲しい女は紅だけだよ。今すぐにとは言わない。紅にも心の準備ってのがあると思うから。遠くない将来、俺と結婚して下さい」
まさかこんな所で、しかもギャラリー約一名が見守る中で、急に本気モードのプロポーズをされるとは予想だにしなかった。
青の真っ直ぐな瞳に射抜かれて、上手く言葉を紡ぎ出すことが出来ない。
「あのあの、あああたしっ、……付き合い始めたばっかりだし」
「時間は関係ないよ」
「あ青がっ、私に飽きちゃうかもしれないじゃないっ」
「愚問だな。絶対に飽きないよ」
「あたっあたし、可愛くないし、チビだし、馬鹿だし、胸ないし」
「紅は俺が出逢った中で一番可愛い。誰がなんて言おうと可愛い。それに女の子は小さい方が可愛くて俺は好きだよ。紅は馬鹿じゃないし、男が全て大きい胸が好きだとは限らないんだよ」
私の言葉を全部打ち消していく。
「就職だって決まってないし、自分の好きなことだって未だに見つけられない情けない奴だし……」
それらを全て打ち消すように、それ以上は何も言うことを許さないというように、唇を塞がれ、深く熱いキスをする。
富ちゃんが、わぁ、と感嘆の声を上げたのを遥か遠くで聞いた気がした。
唇を解放されると、両手でがしりと頭を掴まれ、おでこに軽く頭突きされ、そのままおでこをくっ付けたまま青が言った。
「俺がどれだけ紅が好きなのかまだ解らない?」
その声音で青が怒っていることを知る。
「だって、私より青に相応しい人、これから出てくるかもしれないのよ?」
「紅。俺、本気で怒るよ。なんなら、俺が紅が好きだって思ってること一つずつ挙げていこうか? まず顔、紅は可愛くないなんて言うけど、自覚なさすぎだよ。一緒に歩いていると男達が紅を振り返るんだ。俺が目を放すと、すぐに男達が寄って来ようとする。無防備すぎる紅に俺はいつも冷や冷やしてるんだぞ。背が小さいのが紅にはコンプレックスなのかもしれない。だけど、俺は抱き締めると自分の腕の中にすっぽり入ってしまう紅が好きだ。紅の胸は、形が良くて弾力があって触り心地が抜群だ。その唇はいつだって吸いたくなって仕方ないほど魅力的で、柔らかい感触は触れれば離したくなくなる。紅の明るい笑顔は天使のようで、俺に元気とパワーをくれる。誰とでも仲良くなれて、お節介で、少し短気で……」
「もう、いいっ。もういいよ、青。十分解ったから」
「駄目だ。紅は全然解ってない。俺がどれだけの想いで紅が好きなのか。……少し短気なところも、少し口が悪いところも、長所も短所も全て好きなんだ。紅の髪の毛一本でさえ、愛しい。だから、紅が不安になる事なんか何一つもない。他の何にも惑われず、俺だけをちゃんと見ていて欲しい。俺を信じて」
青は気付いていたんだ。
奈緒さんのことを今もなお、必要以上に気にしてしまって、不安に陥っている私を。弱い心に惑わされて、気持ちが定まらなかった私を。
青はいつも見ていてくれていた。解ってくれていた。
次から次へと瞳から熱いものが溢れ出る。
「私……、青の隣りにいる。青だけを見ていく。あなたと一生を共にします。ううん、したい。よろしくお願いします」
青の瞳を見つめて言った。
「勿論、喜んで」
その途端、青の腕にすっぽりと包まれた。息が止まりそうなほど強く。
パチパチパチっと手を叩く音を耳にして、青と私はパッと音のする方に顔を向ければ、涙目をした笑顔の富ちゃんが懸命に拍手をしていた。
「ワァっ」
咄嗟に青から離れようとしたが、強く抱き締められていた為、びくともしなかった。
富ちゃんがこの場にいるという事実が頭の中から抜け落ちていた。
恥かしすぎる……。穴があったら入りたい。
違う意味で涙が零れそうだった。
青は、全く動じた様子もなく私を抱き締めたまま、整然と富ちゃんを見ていた。
こういう状況での青に、恥かしいという概念は持ち合わせていないのだろうか。