第53話
「すみませんっ。遅れてしまって」
駅の改札の前で待つ長身の男に走り寄って、声をかけた。
「電車が止まっていたようだね? 大変だったね。私の方は大丈夫だから気にしなくていいんだよ。それより、呼吸を整えるといい。ゆっくりでいいから」
穏やかな笑顔を浮かべて気遣わしげに長身の男、青父が言う。
青父が言ったとおり、どこかの駅で緊急停止信号が鳴ったとかで、暫く電車が止まってしまったのだ。
「でも、学校に戻らなきゃならないんですよね?」
「いや、今日はもう戻らなくて大丈夫なんだ。今日はもうこの後授業はなかったからね、早めに帰らせて貰ったんだ」
そうですか、と私は言った。
教師の学校での仕組みやらシステムがどうなっているのかは私には解らないが、そういうことならと少しホッとした。
「それじゃ、行きましょうか」
青の大学に侵入して、大学生としての青を見てみようとしているのだ。青父とその話をしてから丁度2週間くらいになるだろうか。と同時に、青と私が付き合いだしてからも2週間ということになる。
私と青の関係は幸せいっぱいで、幸せで顔が緩みっぱなしで顔に締まりがないと言った状態なのだ。この2週間ほぼ毎日青の傍にいた。飽きるどころか想いは大きく膨れ上がるばかりで、ほんの少しの間離れるだけでも耐え難いことのようだった。
お店では、マスターが取り計らって誤解を解いてくれて、青と私が付き合っていることが公認となった。
富ちゃんが責任を感じてマスターと私に謝罪をしてきたのだが、悪いのは全て私であり、富ちゃんには私の中で起きた全ての出来事及び葛藤を説明した。富ちゃんにならその全てを話してもいいと思った。それは、マスターも同じだったようだ。富ちゃんは自分の勝手な暴走でマスターを必要以上に傷つけたと落ち込んでいた。だが、その次の日にはけろりと元気な富ちゃんに戻っていた。マスターに何か言われたのか、彼に慰めて貰ったのか、それとも単純に寝たら元気が出たのか、真相は闇の中だ。私の中では、マスターに何か言われたんじゃないかと思っている。きっと富ちゃんの気持ちを軽くする何かを。
青とのお付き合いが明るみになることで、青狙いの常連客のお姉さん方に睨まれるんじゃないかと踏んでいたが、全くそんなことはなく、逆に盛大に祝福されてしまった。お姉さん方にとって青は恋愛対象とかではなく、いわば目の保養的な存在だったのだと後で聞いた。ストレス社会に生きるお姉さん方の唯一のオアシス、そんな存在だったのだ。それに、青が私を好きだということは周知のことで、皆密かに青の恋を応援していたことを知った。
どんだけ、バレてんのよ。知らぬは当人だけ……なんだろうか。
色んな人にお祝いされ、冷やかされる毎日だが、店での青は相変わらずのクール男だった。
私と目が合うとこっそりと極上の笑顔を向ける。
こんな風に二人だけの意思疎通と思っていたものが、案外店の常連客は目敏く見ているものだ。恐らく青の笑顔も案外知られているのかもしれない。
「板尾さん。どうしました?」
「いえっ、何でもないです」
さすがにあなたの息子さんの極上の笑顔を思い出してうっとりとしていたとは言えない。
「今日は、青、大学にいるんですね?」
「はい。リサーチ済みですから、ばっちりです」
私と青と青父のスケジュールが上手いこと合わなくて、やっと今日決行となったわけである。
青の大学は駅を降りて、真っ直ぐのびた道を歩いて行くとやがて見えてくる。
結構大きな敷地があり、校門を潜った途端、この中から青を見つけ出すなんて不可能なことなんじゃないかという不安が私を支配した。
青父と私、そんな想いを胸に無言で歩く。
青父もまたこの広さに小さな絶望を受けているのかもしれない。
「――そうなのか? はははっ」
聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
慌てて木の陰に青父を引っ張り、こっそりと顔だけ出すと、やはり案の定青の姿がそこにあった。
青の隣に立っていたのはこれまたモデルかと見紛うほどの美麗な女性だった。すらりと背が高いので、長身の青と並ぶとバランスがいい。
私が衝撃を受けたのはそんなことじゃない。
青が笑っていたことだ。
青はその女性と笑顔で親密そうに話しているのだ。それはそれは楽しそうに。
私……、思い上がってたのかな。青は私にだけ笑顔を見せてくれるって、そう思い込んでた。そんな筈ないのに。私だけに、なんてあるわけないのに。
チクンなんてものじゃない、ざっくりと胸を抉られるように刺された、そんな痛みを感じた。
「あれっ、あれは……奈緒ちゃんかな?」
青父の言葉でハッと我に返った。
「知ってるんですか?」
平静を装って、自分が何も感じていないように努めて振る舞う。
「青の幼馴染なんだよ。中学生の時に会ったきりだから確かなことは言えないけど、恐らくそうだと思うよ」
青の、幼馴染……。
初めて聞いた。青は大学でのことは一つも話そうとしない。
二人の仲良さそうに笑い合う姿から一瞬たりとも目が離せなくなった。
「あっ、ほらあれ見て。杉田君と奈緒さん。美男美女のベストカップルよねぇ」
「えっ、あの二人付き合ってるの?」
「そうでしょ。どう見たってそうだよ。いっつも一緒にいるじゃない。杉田君には奈緒さんぐらい美しい人じゃないと釣り合わないわよね。でもほんと……」
「「憧れよねぇ」」
道行く女子大生二人の声が私の胸を容赦なく抉って行った。
誰がどう見てもお似合いな二人。大学内の憧れのベストカップル。
それほどまでに仲の良い女の子がいたことを、青は私に一言も話さなかった。
別に話さなきゃいけないわけじゃない。
だけど……私には、彼女の存在を知られたくなかったの? 私にその存在を知られたくないほどに、彼女が好きなの? 私を好きだと言ったのは嘘?
青が私に言ってくれた全ての言葉を曖昧なものにするほどの凄まじい不安が次から次へと私を負の思考へと誘い込もうとする。
信じてる。信じたい。ねぇ、青。私は信じてもいいんだよね?
それは、寧ろ願いに近いようなものだった。信じていたいと。
強大な不安と強大な嫉妬が私の心を掻き乱していた。
「……板尾さん。板尾さんっ。大丈夫? 顔が真っ青だ」
いつから呼ばれていたのか定かではない。
先ほどの二人組の会話を耳にした後から酷い耳鳴りで、周りの雑音が何一つ耳に入って来なかった。
「板尾さん。いいかい、よく聞くんだ。勘違いしてはいけない。奈緒ちゃんは幼馴染なんだ。ただ、それだけなんだよ。周りの意見や噂に惑わされて、大事なことを見失ってはいけないよ。誰の言葉を信じるべきなのか、君なら解る筈だ」
ただの幼馴染。たかが幼馴染。されど幼馴染。
青のことを私なんかよりずっとよく知っていている人。
「昔から仲が良かっただけなんだよ。板尾さんが気にするような、関係じゃないんだ」
気付けばぽろぽろと涙が零れ落ちていた。
青に似た顔、青に似た背丈、青に似た話し方に、青に似た低い声。
青に慰められているようで、心が緩む。
「こんな気持ちになったのは、初めてです。今まで嫉妬をしてこなかったわけじゃない。だけど……」
こんなにも底なしな感情を私は知らない。
青はただ仲の良い幼馴染と談笑していただけのこと。ただ学内で噂になっているだけのこと。その噂に真実などない。
こんなちっぽけなことで傷つくほどに私は弱かったんだろうか。
「取り敢えず、ここを出よう」
青父に半ば抱えられるようにして、学外へ出た。