第50話
翌日、私は学校帰りの夕方、店に顔を出した。
この時間からマスターが仕込みをしていることを私は知っていた。
「マスター?」
カウンターから厨房をのぞき込み、マスターに声をかけた。
それに気付いて、マスターが厨房から出てくる。
「おう、ベニ。こんな早くにどうした? もしかして、俺に愛の告白でもしに来たか? ……なんてな。その逆だろう?」
何もかもをお見通しとでもいうように、苦笑して私を見る。
「私……、ブルーが……」
「言わなくても解ってるよ。俺は最初から解ってたよ。お前がブルーに惹かれていたことくらい。そして、遅かれ早かれ自分の気持ちに気付く事が来ることくらい。やっと自分の気持ちに気付いたんだろ? それで、ブルーにはきちんと自分の気持ちを伝えられたのか?」
私は頷いて見せた。
カウンターを挟んで向かい側からマスターの手が伸びて来て、私の頭をぐしゃぐしゃに掻き回した。
「本当はな、もう知ってたよ。お前達が付き合い始めたこと」
「えっ?」
「さっき、お前の愛しいダーリンがここに来たよ。お前を貰いますってな」
青、ここに来たんだ……。
「お前のこと、好きで好きで仕方ないから、いくらマスターでも譲れませんとまで言ってたぞ」
そんなことまで……。
恥かしさにいたたまれなくなってくる。どうしてこう、恥かしい台詞を言ってくれるんだろう、あの人は。きっと、恥かしげもなく宣言したんだろう。
「幸せになれよ、ベニ。絶対、幸せになれ。お前が選んだ男なんだ、何があっても信じろよ。あいつは男の俺から見てもいい男だと思うよ、まあ俺には敵わないけどな」
煙草を銜えて煙を燻らせ、口の端だけで微笑む。
「ありがとう、マスター」
「これは再三言ってることだが、なんかあったら俺に相談して来いよ。これでもお前より多く生きてるからな。少しは力になれるんじゃないか? 俺はお前の兄貴みたいなもんだからな、遠慮せず頼れよ。解ったな」
マスターの笑顔が眩しく感じた。
マスターの気持ちには結局応えられなかったけれど、本当に色んな意味で魅力的な人だと改めて感じる。
青とは違う感情で、とても大事な人だと思う。
こんな事言ったら、ヤキモチ妬きの青はきっと不貞腐れてしまうかもしれないけど。
「頼りにしてますっ、お兄さん」
にかっと笑って見せた。
「おぅ、任しとけ」
腕を組んで偉そうに振る舞うマスターに私はいつも助けられている。今だってそうだ。私が気不味い思いをしないように、こうやってふざけた雰囲気を作り上げてくれる。
「マスター。私だってたまには弱音聞いてあげるからね?」
「いや、多分それは止めた方がよさそうだぞ。ベニは気付いてないだろうけど、店で働いてる時でも俺とお前が話していると、ブルーの視線が痛いんだ。ブルーに心配させない方がいいだろ。あいつはあれで冷静なふりして案外感情が出やすいからな。ベニが好きだってバレバレだな」
店の中では表情を崩すことはないと思っていたのに、マスターには全然お見通しだったらしい。
「マスターには全部お見通しだったんだね。私の気持ちも、ブルーの気持ちも」
「まあな、そういうのはすぐ解るな。だてに年を重ねてたわけじゃないってことだな」
「そっか、マスター結構オジサンだもんねぇ」
マスターに拳を振り上げられて、急いで逃げた。
「それじゃあ、マスター。私、一回家に帰るね。今日は、絶対遅刻しないようにするから」
そのまま手を振って店を出た。
まだ夕方の早い時間。沈みかけた夕日が眩しかった。
マスターはあんな風に私を和ませる為に言ってくれたけど、今、店で一人どんな気持ちでいるのかと思うと苦しくなった。
マスターは二度と私の前で弱気を見せることはないだろう。青を選んだことにこれっぽっちも後悔はないけど、ほんの少しだけ寂しい気分だった。
センチメンタルな気分で夕日を浴びながら歩いていると、見知った姿が私の目に飛び込んできた。
一度見れば忘れる筈のない人。
その人もまたこちらに気付き、目を少し大きく開き、その後小さな微笑を浮かべながら頭を軽く下げた後、こちらに歩いてくる。私もその人の方へと歩いて行く。
「こんにちは。青に会いに来たんですか?」
その人は、青のお父さん。
「こんにちは。ええ、会えたらいいなと思ったんですが、お恥ずかしいことにチャイムを鳴らすだけの勇気が持てなくてね」
苦笑を浮かべ、語る青のお父さん。
前に会った時は夜で、暗がりで顔を合わせていたので、じっくりとお顔を拝見していなかったが、夕日で照らし出されたその輪郭や面影はやっぱり青に似ていた。
「板尾さんは、今日はアルバイトかな?」
「あっはい。ありますけど、7時からです」
「そうですか。じゃあ、もし良かったら少し話しをしたいんですが、お付き合い願えないかな? 決して、ナンパとかじゃないから安心して」
慌ててそう付け加える青父は、なんだか可愛らしかった。
「ふふっ。解ってます、いいですよ」
と、そういうことで、青父と連れ立って近所の喫茶店に入った。
青父と向かい合って座っていると何とも不思議な感覚に陥る。
青の雰囲気にとても似ているので、気付くと青といるんだと安心しきってしまって、ふと顔を上げてその顔を見て、それが青ではないことに酷く驚いてしまう。そんなことが何度かあった。
「この間会った時と少し雰囲気が変わったんじゃないかな? もしかして、青と何かあった?」
図星をつかれてたちまち顔を真っ赤に茹で上がらせて俯く私を見て、青父はくつくつと可笑しそうに笑った。
「青の彼女になってくれたんだね? 君のような子が青の傍にいてくれるなんて嬉しいよ。良かった」
嬉しそうに笑う青父の表情には、やっぱり青への愛情が溢れているように思える。
「まだ1回しか会ったことないのに、どうしてそう思うんですか?」
「これでも、教師をしているからね。顔を見て、いい子か悪い子かくらいは解るよ。顔が奇麗とか可愛いとか可愛くないとかそういったものではなくて、その人の人相というのかな、どんなに笑顔で繕っていてもその人の腹黒さとか、悲しみとか、人の良さとかがどうしても出て来てしまうものだと思うよ。どんなに突っ張って非行に走っている子でも、本当は優しくて、悲しくて、助けを求めていたりするからね。板尾さんの場合は、とっても優しい人相をしている。人を思いやれる人だよ」
「いえっ、私はそんな大層な人間じゃありません」
胸の前で手を振って、そう訴えたが、青父はくすりと笑っただけで、私の言い分を聞くつもりもないようだった。
青父には勝てなそうな気がして、諦めてグラスを傾けた。
「あのっ、私、聞きました。お兄さんのこととか」
「そう。聞きましたか。お恥ずかしい限りだ。私の期待が大きすぎて紫苑を、紫苑というのは青の兄の名前なんだが、紫苑の心を壊してしまった。私達の期待があの子を壊し、青の笑顔を壊し、家庭を壊し、家族をバラバラにした。出来ればもう一度家族を一つにしたい。諦めたくはないんだよ。やり直したい。人生に遅いなんてことはないと信じたいんだ」
家族の話をする時、青も青父も苦しそうな表情を浮かべる。
笑顔で家族の話をする、これが理想の家族の在り方なんじゃないだろうか。
「青は家族の誰にも愛されていないと言っていました。でも、違いますよね? 青はちゃんと愛されていた。私はそう思うんですけど」
「そう、青はそう言っていましたか。あなたの言うとおり、私も妻も青を愛していますよ、それは間違えようのない事実です。紫苑を私達は雁字搦めで育ててしまった。それに気付いてもそれを変えることはもはや出来なくなっていた。だから、青には自由に過ごして欲しかった。それが、私たちなりの愛情だった。だが、それは青には伝わらなかった。つくづく親失格です。教師なんてして、子供に指導しているくせに、自分の家庭はてんで駄目で、私は本当は指導する資格もない。本当に」
確かに、青とお兄さんがあんな風になってしまったのがご両親ではないとは言えない。だけど、こんな風にそれを悔い改めようとしている人を悪くいうことは私には出来ない。
「きっと大丈夫です。青は、きっと大丈夫。私、青の傍にずっといますから」